水平線

革命の胎動

『ジョーカー』(トッド・フィリップス)

 真理の不在、またはユートピアの欠如。パラノ的「あな」ではなく、スキゾ的複数の「あな」の周縁を回遊する。有限的な貧しい生、半端な到達点。「現実界」のリアルの「リアル」に慄いた極点としての結節点はいかなる風景か。絶対的な恐怖とは、何よりも美しい「魅惑」である。ポスト・構造主義のように真理からの逃走の果ての「真理」を消去しなければならない。かつての歴史的事象のテーゼで表現するのであれば、「遠くまで行くんだ…」と。

 

 『ジョーカー』で描かれる世界に、#MeToo と賛同することは容易い。コメディアンを夢見る主人公のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、職場を解雇され、出生の秘密を知り、隣人の女性であるソフィー・デュモンド(ザジー・ビーツ)との交際は、アーサーが抱える精神疾患からの妄想の産物であることを知ってしまう。そして、憧れのコメディアンであるマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)の番組に出演するも、嘲笑され、アーサーは、「失うものがない男を怒らせたらどうなるか思い知らせてやる」と言い拳銃でマレーを殺害する。

 アーサーの境遇に情動を動かされることに何も驚愕しない。「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)による再帰的無能感は、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」からだ。アーサーは、精神疾患を抱えていることが物語の一つのキーである。精神疾患とは、資本主義が唯一機能するシステムであるという諦念から生じる病ではなく、資本主義は本質的に腐っているのであり、それを強制的に維持しているからこそ精神疾患が、資本主義社会で流行するのである。

 かつてのマルクス主義のような資本家と労働者という階級闘争は、一つのオルタナティブであった。しかし、ポスト・冷戦の社会で資本家と労働者は、衝突することはない絶対的差異である。無論、言うまでもなく階級社会は確かに存在しているのだが、それは「格差社会」として不可視にされている。1990年代以降から急激に増加した「プレカリアート」の存在は、ケインズ主義が想定した労使の均衡を崩した。そして、〈2011年〉以降の世界的動乱は、単一の同一性には還元できない無数の内的差異、すべての特異な差異から構成される多様性である「マルチチュード」(ネグリ=ハート)から成る運動であった。〈2011〉の世界的動乱で最も有名である「ウォール街を占拠せよ」(OWS)の合言葉「We are the 99%」に象徴されるように、いかなるサービスにも金銭を支払わなければならない社会、福祉国家の消滅と後退への叛乱であった。しかし、自由意志による政治的連帯は、雲散霧消する運命であり、現在では、ほとんど機能していないに等しい。それは、政治的連帯には、ある種の強制性、必然性がなければ困難であることの露呈であると同時に、コミュニズムの不可能性を再度示したようであった。

 国内で話を進めよう。安倍政権下での経済成長を謳った政策は、貧乏人の負担を少なくしたか。成長戦略の実態は、小泉政権時代からの民営化である。膨れ上がった公的債務の負担は、〈共〉を売却しなければならない。これこそが、『ジョーカー』の世界観の帰結であろう。「社会の居場所がない」、「道端で倒れていても誰も振り向いてくれないじゃないか」とアーサーは嘆く。さらに、アーサーは聖域としての「家族」的アイデンティティにすら見捨てられている。(ここでの「家族」とは血縁だけでなく時間的共有も意味する)人間は、先験的に「共的存在」のはずだ。公的/私的領域にも疎外された先の帰着は、「ジョーカー」のような存在にならざるを得ないではないか。これは、ジョーカーを否定/肯定の論理で語っても無意味である。そして、誰もがジョーカーのなる可能性を孕んでいる、という批評は至極退屈だ。そうではない。誰もがジョーカーのような存在になるのではなく、誰もがジョーカーという存在を無意識的に生み出している、誰もが無意識的に「ジョーカー」なのである。それは、我々の鏡像なのだ、と。なぜ、ジョーカーのようになるのか。社会構築主義の立場で思索するのであれば、ルソー的な「憐れみ」すら喪失されるほどの格差社会の過酷さ、他者を救済する愛の余白がないからだ。本来は、ジョーカーのような存在を救済する社会にしなけらばならない。一方で、ジョーカーは、あまりに脆く弱く、優しさと愛に溢れた人物である。同僚を殺害する場面で、付き添いの一人は「君は僕にいつでも優しくしてくれた」と言い見逃す。すべてを失ったとき愛の結節点が生成されるのかもしれない。

 さらに、現実世界を俯瞰してみよう。トランプのような排外主義的な言説はもちろんだが、その対抗としてのPC(Political Correctness)の過剰は、何を生み出したか。恣意的な正義感がリンチを正当化するのだ。国内に目を向けても、現安倍政権への批判に立憲民主党などの中道リベラル左派系統の陣営は、逆説的に差別的になっていないか。暴力的享楽が、皮肉にも「暴力」を生成する。世界的な左/右派ポピュリズムの勃興は、暴力に「暴力」を対置する。しかし、そこから生まれるのは「暴力」の連鎖に過ぎない。

 

 物語終盤からラストにかけての暴力による享楽を追体験する場面は、「快楽」ではなかった、とはっきり否定することはできない。警察からジョーカーを奪還し、車で踊り大衆が歓喜する場面は、トランプやルペンの言説に沸く大衆のようである。あなたは、はっきりと否定することができるか。理性では追いつけない情動の歓喜が支配するはずだ。それは、我々には暴力による享楽以上の未来がないからだ。これに代わるオルタナティブを発見すること、無論、現在のポピュリズムや暴力による享楽を肯定するつもりはない。しかし、それ以上の世界像が描けないことがアポリアなのだ。

 本作は、あまりにも悪を短絡的な論理で図式化した作品である。しかし、裏返せば現実世界が、あまりにもフィクション的な社会になっているとも言えるだろう。そもそも虚構/真実の境界を意図的に不明瞭にしている場面を混在させている。まさに、「フェイクニュース」に騙され、情動に意図しない方向に連関される愚かな大衆のようだ。「ジョーク」も語り続ければ、いつしか真実になるのである。

 

 ラストシーン、大衆の前で踊り狂う場面から、突如として精神病棟の場面へと切り替わる。ジョーカーは捕まり、施設へと強制入院させられたのだろうか。それとも精神疾患から生じるジョーカーの妄想の産物なのだろうか。果たしてジョーカーは、狂人だろうか。フーコーが『狂気の歴史』で言及するように、狂気の経験とは「言語の狂気の経験」である。言語の狂気のゲームによる相互承認である限り、狂人は「自由」である。故にジョーカーとは、「パレーシア」である。小泉義之は『あたらしい狂気の歴史 精神病理の哲学』で、パレーシアとは、「民主主義の外部で、新たな別のエートスを創設するために行われるのである。」と指摘している。今、アメリカでは、トランプ政権などの反動として若者に社会主義の支持が増加している。『ジョーカー』を鑑賞した、「動物化」した愚かな大衆は、誰もが「ジョーカー」になる可能性を指摘するに留まるだろう。しかし、この反動の機会を奪回できるほど左派の理論的視座もないことは確かである。だが、『ジョーカー』の喜劇のように、コミュニズムは「はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」(スラヴォイ・ジジェク)我々に現前することだろう。

 

 

 

あいちトリエンナーレ2019 ー「表現の不自由展・その後」試論

 あいちトリエンナーレ2019「情の時代」内の企画展「表現の不自由展・その後」は、開催から3日足らずで中止に追い込まれる事態となった。政治的プロパガンダにしか見えないとされた作品に検閲や弾圧、市民からの抗議が殺到し、止むを得ずの判断だった。しかし、事態は収束の気配もなく、いまだにSNSなどでは議論が絶えることはない。こうした事態に、何人かのアーティストは、他の企画展に展示している作品を取り下げるなどの声明を発表し、表現における「不自由」に抗し、「自由」を探求する姿勢を示している。

 しかし、「表現の不自由」における「自由」とは何なのだろうか。言うまでもなく、表現の「自由」が守られることは必須の前提である。(無論、そんなものは虚妄に過ぎない)だが、逆説的にも、その「自由」が、「不自由」によって成立しているという前提を忘却してはならない。彼/女たちの反抗は、中高生が校則を破り煙草を吸う程度に過ぎないのだ。それは、「自由」の目的化によって生じるジレンマである。かつて、エーリッヒ・フロムは、ナチズム時代の国民性を「自由からの逃走」と表現したが、今回の騒動の背景は、むしろ「不自由からの逃走」と言えるだろう。しかし、その逃走の果てに衝突するのは同様の「壁」に過ぎない。

 

 自由な芸術=表象が存在するのであれば、それは私的領域に閉じた自慰に過ぎない。資本主義制において芸術的価値が生じるのであれば、市場価値に容認されなければならないからだ。それは、芸術家がどれほど尖ったところで覆ることはない事実なのである。「表現の不自由展」の作品に対して、「税金の無駄遣い」といった類の批判があるが、そのような批判は、ひとまず「芸術」として価値を容認していることを意味するだろう。しかし、そもそもどのようにして芸術に資本的価値の境界は決定されるのか。資本主義制において芸術的価値は事後的に生成されるしかない。これは、資本主義制における芸術のアポリアでもある。「表現の不自由展」における批判は、芸術/政治という二項対立における「政治」の抹消である。つまり、芸術に「政治性」が介入すれば、芸術「ではない」ことを一連の騒動による炎上が意味している。それは、ベンヤミンに倣えば「礼拝的価値」から「展示的価値」の転移から生じる「アウラの凋落」による「政治の美学化」と言えるだろう。

 しかしながら、今回の騒動は、芸術「ではない」と簡単に済ますことができない複雑な因子が絡み合っている。それは、我々の身体性に染み付いた確かな「歴史的記憶」なのである。

 「表現の不自由展」は、「政治の美学化」を遂行した。しかし、「慰安婦像」と「昭和天皇の肖像」の炎上は、外部に「美学の政治化」として政治的アリーナを形成したのだ。無論、それは他者なき聖域としての闘技場である。

 1990年代のポスト・冷戦時代において、「南京大虐殺はなかった」、「慰安婦問題は、国内外の反日勢力の陰謀」などの歴史修正主義や、自由主義史観に依拠した「新しい歴史教科書を作る会」が発足した。彼/女たちの論証は、左/右の軸ではなく、純粋な歴史観の探求は、必然的に「情」に帰着するに他ならない。そして、その最後の砦こそが「天皇」である。近年、リベラル派知識人(e.g. 内田樹宮台真司)の「天皇制」支持への転向は、象徴的でもある。

 

 本芸術祭の芸術監督である津田大介は、現代を「情の時代」というコンセプトを銘打った。しかし、「情の時代」は現代に限った話では、もちろんない。「表現の不自由展・その後」で再び可視化されたのは、左/右でもないつもりの一市民の一連の反応こそが「表現の不自由展・その後」を成功させたという事実である。「慰安婦像」や「天皇」に、パブロフの犬のように「情」を刺激され「不自由」化するのである。我々が、いまだに半封建的な前近代的な未熟な後進国に存在していることの露呈である。「情の時代」の持続を断ち切るには、「天皇制」を問わなければならない。そのとき、「情の時代」は一つの切断点となり、オルタナティブとしての「持続」が開始されることだろう。

 

 

『生きてるだけで、愛。』(関根光才)

 「生きてるだけで」なんて簡単に言えない。その生きる「だけ」がどれほど困難な社会なのだろう。寧子(趣里)のように躁鬱による過眠症は、なかなか他者に理解されることはない。そんなものは甘えだ、楽しければ治るよ、と。だが、「生きる」ことを生きる「だけ」と本心で言える人など存在するのだろうか。躁鬱などによる病でなくても、「内なる差別」から生きることは、苦痛となることもある。それは、「市民」という同質性の論理から零れ落ちた「異質なもの」として排除されている。在日外国人の処遇には、手続きの困難さや煩雑さなど問題が山積みである。また、障害者にとっては、健全的な肉体そのものが権力である。資本主義社会による労働=力の単純な図式は、「力」のあるものを正義とし、障害者や高齢者を「悪」とし隔離収容するのである。それは、どれだけシステムが整えられ、マイノリティのための政治をメルクマールにしても逃れられない事実なのである。だからこそ、小泉義之『生殖の哲学』の次の引用は美しい。

街路が自動車によってではなく車椅子や松葉杖で埋められているほうが、よほど美しい社会だと思う。痴呆老人が都市の中心部を徘徊し、意味不明の叫びを発する人間が街路にいるほうが、よほど豊かな社会だと思う。

 この価値転倒こそ「AI」化する社会にはない「愛」ではないか。どれだけシステムを改良しても、それは内部での改革に過ぎない。ゲーデルの「不完全性定理」のように、AIによる形式化の果てには、形式化不可能な部分に必然的に衝突する。この形式化不可能な部分を捨象するだけでいいのだろうか。だからこそ、小泉義之が言及する価値転倒こそサバルタンによる「革命」なのである。

 

 話を作品に戻そう。だが、これほどまでに「生きる」ことを「だけ」と簡単に宣言できない事象が顕在していることを確認することができたことだろう。腐りきった社会で、タイトルの「愛」を感受するのは、虚妄なのかもしれない。

 作品に登場する寧子(趣里)と津奈木(菅田将暉)も腐った社会で「生きる」ことに翻弄されている。寧子(趣里)は、躁鬱による過眠症で市民社会になかなか参与できない。また、津奈木(菅田将暉)は、文学という夢を諦め、出版社で下劣なゴシップ記事を執筆している。

 この二人が、なぜ同棲を始めたのか、なぜ魅了されたのか。その点に関しては具体的な描写はない。しかし、ここに本作品における核心があるのではないだろうか。

 

 愛を言葉で語ることに意味があるのだろうか。おそらく、「ある」と答えることが大半だろう。確かに、それは一義的には誤りではない。だが、愛を言葉で語れば語るほど、「愛は愛である」というトートロジーに帰着する。しかし、そうであるから故に逆説的だが言葉で語るしかないのだ。それは、愛や言葉を捨象した時に必然的に衝突する空虚さに他ならない。寧子(趣里)が、アルバイト後の食事の場で「ウォシュレットの怖さ」を語って、誰にも共感されないように、愛を言葉で語ったところで伝わらないのかもしれない。しかし、だからこそ愛を言葉で語るしかないのだ。それが、どれほど空虚だとしても。

 「わたし」が「あなた」を愛する理由は、本質的に説明することはできない。言語哲学の歴史的潮流では、固有性は他者の性質についての記述に還元できるとされてきた。しかし、クリプキたちによる批判によって、それは誤りであることが現在までの通説である。固有性は、対象を指し示しているだけであり、空虚なフェティッシュである。そして、それは他者への愛についても同様ではないだろうか。

 性質は、愛の理由にはならない。選別された性質が愛の理由であれば、それは、ルネ・ジラールが言う「欲望とは他者の欲望」の問題と同義である。つまり、愛にとって重要なのは「この私」の「この」(this-ness)、つまり「単独性」(singularity)なのである。

 

 物語終盤、寧子(趣里)は、津奈木(菅田将暉)に「こんな私のどこが好きだったか言ってくれる?」と問いかける。この場面の一連の流れで寧子は、服を脱ぎ捨て全裸状態であるが、津奈木(菅田将暉)が「全裸じゃなきゃだめ?」と問い、寧子(趣里)が「全裸じゃなきゃだめ」と答えることからも「単独性」を象徴的に表現していると言えるだろう。津奈木(菅田将暉)は、数秒間言葉を詰まらせ、答える。だが、その答えはその場の言葉に過ぎなかったのだろう。同一性がすでに差異性であるのであれば、差異は相対化されることはない。私が他者=差異性であるため、他者は私にとっての絶対的な差異として立ち現れる。愛という絶対的不可能性の体験。だが、この不可能性こそが愛を成立させているのである。この場面が描き出していることは、愛とは事後的に生成する物語であるということだ。相手が何者であれ、理由がどうであれ、「この」相手から離れることができないこと。これこそ「愛」なのだ。

 最後、二人が言葉なしで抱き合いながら「ほんの一瞬分かり合えて生きている」場面は、生きる「だけ」で疲弊してしまう社会における、決して形式化することのできない絶対的な外部としての美しすぎるほど瞬間的な「愛」の現前である。それは、波打ち際の砂の表情のように、明日になれば儚く消失してしまう脆さだろう。しかし、この永続することはない時間に、「。」をつけることで、この「愛」は、消失されることなく、表象され続けるのだ。

 

『ファイト・クラブ』と『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー)

 映画が、作品のどこかでリアリズムを帯びるのであれば、それとも「世界は概念で出来上がっているから、作品は否応なくリアリティを有してしまう」(小泉義之)のであれば、デヴィッド・フィンチャー監督による『ファイト・クラブ』(1999年)と『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)ほど、その時代を決定的に象徴する鏡像的作品は存在しないと言える。『ファイト・クラブ』が公開した1999年が、オカルティズム的な年であれば、『ソーシャル・ネットワーク』が公開した2010年は、タイトルの通り「SNS」(Social Network Survice)の時代である。

 

 『ファイト・クラブ』と『ソーシャル・ネットワーク』は、確かにその時代の一つの鏡像的作品であった。しかし、二つの作品は単独に完結した作品ではない。『ファイト・クラブ』は、『ソーシャル・ネットワーク』へと飛躍している。いわば「続編」と位置付けることが可能だと宣言することができる。二つの作品には、あるアナロジーを抽出することができる。それは、我々がリアリズムで冒されている一つの「病」である。

 

 『ファイト・クラブ』は、終始として「死」を意識させる。冒頭から、死が身近に迫った人々のセラピーのシーンから始まり、「ファイト・クラブ」での殴り合い、手の甲に焼印etc. といくつものシーンを抜粋することができる。我々は、「死」を忘却し生きる。しかし、我々は「死」を完全に忘却しているわけではない。「死」は、「この」身体に、実存的存在の必然として認識している。我々は、「死」の不安から他者との空疎で頽落的な「空談」(ハイデガー)で不可視にしているに過ぎない。それは、『ファイト・クラブ』で描かれる資本主義システムの必然としての高度消費文明の「物」に支配されることで幸福を享受する哀れな「動物」のように、何の疑問も抱かない「畜群」(ニーチェ)である。

 「死」という深淵が、広がる時、「死」という自己にとっての固有性が自意識によって認識されたとき「本来的共存在」へと覚醒する。それは、物語終盤にかけて「ファイト・クラブ」という共同体が、真理を体現する「党」へ献身するかのような様相を帯びることからも明らかである。固有的な単独性を抹消(実際に、主人公には固有名はなく「私」と表現されている)し、「党」としての連帯を求めるのである。資本主義システムにおける有限性と無限性の闘いに、必然的に敗北するしかない、「疎外」されるしかない運命である「孤独な現存在」として忘却する先験的な「共存在」の最終手段としての「党」という形態なのである。

 

 一方、『ソーシャル・ネットワーク』は、『ファイト・クラブ』とは作風は異なり、2010年=テン年代を象徴するリアリズム的な作品である。冒頭、マーク・ザックバーグが、恋人のエリカに一方的なコミュニケーションを仕掛ける場面は、現在のSNSの風景を象徴的に表現している。複数の世界性が浮遊する言語空間において還元不可能な意味の複数性に衝突する。そのような「郵便-誤配」(=郵便的超越論性)は、SNSにはいまや存在しない。それは、「島宇宙化」した空間であり、予測可能性な鏡像的他者である。いわば、複数的な「幽霊」は回帰することはない。しかし、本質的にSNSは、「郵便的超越論性」の表象空間である。そのような意味で『ソーシャル・ネットワーク』は、『ファイト・クラブ』とは対極的である。『ファイト・クラブ』では、「死」を自覚することでハイデガー的であり、単独性としての運命であった。しかし、『ソーシャル・ネットワーク』では、「デッド・ストック」として「手紙は宛先に届かないこともありうる」(デリダ)。つまり、象徴空間に構造化されない行方不明の可能性(=幽霊)が内在しているのである。

 

 では、二つの作品を比較することで浮かび上がってくる「病」とは、一体何なのか。それは、「連帯」の不可能性という事態である。『ファイト・クラブ』の公開した1999年は、日本ではオウム真理教といったカルト集団による事件から数年経った年である。「ファイト・クラブ」の連帯形態とは、超越論的連帯である。「世界の脱呪術化」による世界で、カルト的な「宗教」に没入することで連帯を求めたのだ。無論、それは、「第三者の審級」が失墜した、虚妄としての「アイロニカルな没入」に過ぎない。1989/1991年の崩壊からの必然的帰結とも言えるだろう。

 一方、SNSは、連帯の革命を起こすことに成功したのだろうか。『ソーシャル・ネットワーク』の物語を鑑賞すれば、それが革命の挫折であることが認識できる。『ソーシャル・ネットワーク』で描かれるSNSが理想とした連帯とは異なり、作品内でのリアルな連帯が破綻している。マーク・ザッグバーグが複数の訟訴を抱え込んでいることからも明らかだろう。SNSによる連帯が、リアルな社会では破綻せざるを得ないことを象徴的に描いている。また、『ソーシャル・ネットワーク』は、ノンフィクションのように描かれているが、フィクション性が多く介入している(無論、ノンフィクションであろうと映画には必然的にフィクション性は介入する)。ノンフィクションであると錯覚するのは、SNSの連帯が、まるでリアルな連帯と錯覚するかのようなことを象徴的に描いているかのようである。SNSは、「誤配」ではなく、排外主義的にならざるを得ない。それは、政治や社会運動がSNSと不可分になった現在の世界情勢の兆候を俯瞰してみれば言うまでもない。

 

 「連帯」の不可能性という観点から二つの作品に介入することで、二つは断絶した一つの独立した作品ではないことを確認してきた。それは、「連帯」の不可能性という観点から連続した一つの作品であり、「続編」なのだと。または、1989/1991年から現在までの連続性と捉えることも可能である。

 しかし、大きな問題が一つ残されている。それは、二つの作品のラストシーンである。『ファイト・クラブ』では、「私」はマーラーと共に崩れゆく資本主義の象徴である金融街のビル群を眺めながら、「全てが良くなる」と発言し幕を閉じる。一方、『ソーシャル・ネットワーク』は、裁判中のマーク・ザックバーグが、元恋人のエリカにFacebookで友達申請を送り、幕は閉じる。

 一体何が問題なのか。それは、「わたし」と「あなた」というセカイ系のようなロマン主義的な帰結にならざるを得ないことである。『ファイト・クラブ』のラストの「全てが良くなる」とは、何を根拠に言っているのだろうか。たかが金融街のビル群を爆破しただけである。何年も経てば、新たな金融街のビル群は創設され、資本主義システムはますます発展していることだろう。一方、『ソーシャル・ネットワーク』のラストも同様の問題意識だろう。つまり、他者という「異質なもの」を排除すればいい、「わたし」と「あなた」が連帯することができたらいい、と。「この」世界で、自己にとっての最大限の合理主義的な生き方を模索しようと。 

 1989/1991年以降の「想像力=創造力」の限界が、二つの映画には凝縮されている。グローバル資本主義の「外部」へと飛躍することができる「想像力=創造力」の喪失。我々が、それを獲得するには、過去の歴史的遺産を脱構築するしか術はないことだろう。

 

 

 

擬制としての平和主義

 戦後の日本は、「平和」・「民主主義」というメルクマールを標榜し現在まで歩み続け、これからも「平和主義」国家として歩み進めようとすることだろう。しかし、昨今の第二次安倍政権での特定秘密保護法案や集団的自衛権の行使の容認、そして憲法九条改憲案の提示などは、戦後の「平和主義」を脅かす存在として現在まで議論されている。こうした立憲主義の危機にSEALDsなどの団体は、レイブのようにストリートを「民主主義って何だ」という大音量のシュプレヒコールを叫びながら行進した。だが、彼/彼女たちが叫ぶ「民主主義」とは一体何なのだろうか。彼/彼女たちは、「民主主義って何だ」という問いに、自ら「これだ」と叫ぶ。なるほど、彼/彼女たちにとって現安倍政権とは、支持をしている人たちにとっても消去法として支持しているという認識なのだろう。安倍政権とは、絶対的な「敵」なのだ、と。だが、言うまでもなく現安倍政権の支持率は10代から30代の若者世代を中心に高い水準を保っている。2017年の衆議院選挙では若者世代の約50%近くが安倍政権を支持しているというのが実情だ[1]。SEALDsのシュプレヒコールは、ポピュリズムに過ぎない。一般的に、ポピュリズムは悪とされている。だが、ポピュリズム研究の歴史の歩みを辿れば、事態はそれほど単純ではないことがわかる。水島治郎は、『ポピュリズムとは何か』(中公新書、2016年)において、ポピュリズムとは「人民」を重視するものと語っている。「熟議デモクラシー」は、新自由主義の下、政治的アリーナが縮小せざるを得ない。そのような社会でポピュリズムという事象は、必然であるとも言える。我々には、「ラディカル・デモクラシー」しかないのだ、と。シャンタル・ムフは、「闘技デモクラシー」の可能性を説いているが、「闘技デモクラシー」だけでは危険性がある。「闘技デモクラシー」の躍進に既成政党が危機感を感知し、「熟議デモクラシー」とのバランスを取ることこそが既成政党に求められていることではないか。立憲民主党などの野党は、投票率が向上すれば現政権を打倒できる可能性がある、などと語っているが事態はそれほど単純ではないだろう。敵は、安倍政権ではない。リベラル左派に内なる「敵」は存在する。我々は、戦後から現在までの日本の歩みに足を止め、一度その足跡を確認することで確かな「敵」を認識しなければならない。そして、戦後日本の絶対的なメルクマールの価値観が揺さぶられることだろう。我々は、擬制=犠牲としての「平和主義」国家を歩み進めてきたのだ、と。

 

 民主主義は、必然的にマイノリティを生みだすシステムである。排除の論理を伴う民主主義は、暴力とコインの裏表だ。だからこそ、同質的な空間から零れ落ちたアウトサイダーを拾い上げなければならない。等価性の論理における対称性に裂け目をつくる「異質なもの」は、決して同質的な空間に表象されず、瞬間的な裂け目を生成するに過ぎない。だが、絶対的な外部からの意見は、政治的決断主義の不可能性を露呈すると同時に、「終わりなき対話」が政治であることを認識させてくれるのである。

 

 しかし、戦後の日本を鑑みれば、そのような「他者」を政治的アリーナから排除してきた。現在まで続く軍事化された沖縄や外国人労働者の問題は、戦後のアメリカの「核の傘」の下、日本国憲法の理念としての「平和主義」は、一部の「他者」の犠牲と強要によって成り立っている。現在における諸運動は、「市民」という論理で闘っているが、同質的な国民国家において「内なる差別」は確かに存在する。かつて、日本共産党でさえ1955年7月の第6回全国協議会において自己総括をし、日本人でない者を革命の主体から排除している歴史がある(西川長夫、大野光明、番匠健一編著『戦後史再考 「歴史の裂け目」をとらえる』、平凡社、2014年、159頁参考)。55年体制が確立していく過程で、非日本人を排除し意思決定の場に参画できない歴史があるのだ。話を、現在まで引き寄せるのであれば、昨日の参議院選挙でのれいわ新選組山本太郎旋風は、障害者を味方にすることで選挙を闘い抜いた。「障害者を見世物にするな」などの批判もあったようだが、歴史的において、むしろ障害者を見世物にしてきたのは我々自身だったのではないか。そのような意味で、山本太郎の戦略は、確かな意味があった。

 

 西川長夫は、「戦後に作られた現行憲法が存続する限り私たちは戦後にある」と定義している。戦後、国民国家の論理から排除されてきた人々は、マイノリティとして闘ってきた。そのような他者の痛みと犠牲の上に成り立った「戦後」を越境するためには、現行憲法を乗り越えれば成立するのだろうか。無論、事態はそれほど単純明快にはいくはずもないだろう。むしろ、それが意味するのはアメリカの論理に対してさらに強固に追従することを意味するに他ならない。

 

 戦後の社会思想の闘争の歴史から我々は、何を汲み取ることができるのだろうか。我々は、マジョリティとして、「闘争」から「逃走」してきた。彼/彼女たちの闘争の記録を鑑みることは、現在の政治体制にどのような裂け目を生成することができるだろうか。「闘争」なくして社会変革はない。だからこそ、彼/彼女たちの闘争の歴史に今一度、真剣に目を向けなければならないのである。

 

※後日、具体的な事例から上記に述べた現在までの問題を解決するための糸口を発見できるように努めたい。

 

[1]なぜミレニアル世代は「首相はずっと安倍さん」を望むのか https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53402(閲覧日8.27)

『天気の子』(新海誠)

 『天気の子』は革命の映画である。ここで言う革命とは、新海誠が切り開いた世界観が革命的などと噴飯ものの意味ではない。冷戦崩壊以降のグローバル資本主義が支配する世界に抗して「革命」を試みる作品として革命的な映画なのである。

 

 『天気の子』で描かれる世界とは、アニメーションというフィルターで美化しようとしているが、あまりにリアルで過酷な貧困である。16歳の帆高は、離島から東京へ渡るが、アルバイトはなかなか採用されず、3日間水で過ごす日々もある。まさに、「ルンペンプロレタリアート」(マルクス)だ。一方、15歳(当初は、18歳と帆高に嘘をついていた)の陽菜は、多額のお金を得るために自らの身体を売ろうとする。もはや、それは「人的資本」ですらない。人間それ自体の完全な商品化であり、オブジェに等しい。資本は、人間には決して追いつくことのできない速度で加速し続ける(加速主義は、資本主義を加速させ続けることで崩壊させると言っているが可能なのだろうか?)。そして、人間は「疎外」(マルクス)されるしかない。有限性と無限性という闘いに勝手にエントリーされているのである。本作は、子どもが大人(=権力)に闘争=逃走し、「革命」を試みる映画である。「天気」の子は、ノードの切断を試みる「転機」の子なのだ。

 

 物語が進むにつれ、陽菜は、「100%の晴れ女」であることが判明する。彼女は、祈ることで確実な「晴れ」を作る能力を持っていたのだ。「晴れ」とは、「ハレ」(=非日常) である。無論、「雨」が、「ケ」(=日常)だと言いたいのではない。だが、3.11以降、「日常」とは、「非日常」の連続である、という体感不安は一気に増大した。「フクシマ」を襲った津波福島第一原発発電所事故は、どれだけ「晴れ」をもたらしても「ハレ」なのだ。

 

 帆高は、陽菜(=超越論的他者)を救済することを決断することで、雨は3年間降り続け、東京の土地は殆ど水没してしまう。しかし、東京は都市として機能し、水没は、低いビル階から水没する。これは、資本主義システムのヒエラルキーを象徴的に表現している。つまり、貧困層から死に果てていき、富裕層は長く生きる。

 

 ラストシーン、帆高は言う。「世界は、最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ(中略)陽菜さん、僕たちは大丈夫だ」と。「わたし」と「あなた」が世界を変える。だが、何を根拠に「大丈夫」と言っているのだろうか。セカイ系は、社会の描写がないことはよく指摘される。つまり、新自由主義的な描写になるということである。この「大丈夫」とは、既存のシステムでも力を合わせれば「大丈夫」程度のものだろう。作風の都合上しかたないことだが、ロマン主義的だ。「資本主義は、正しいか正しくないか以前に、良いか悪いか以前に、腐っている」(小泉義之)のだから。

 

 「愛にできることはまだあるかい?」と問われれば、ないのかもしれない。しかし、愛それ自体はできることはなくても、「愛を信じる」ことで起こる革命はある。「きっと大丈夫」と未来を想定するのではなく、「大丈夫ではない」、だからこそ「愛」を信じるという認識から主体的に行動することできっと革命は起こる。