水平線

研究と批評.

『天気の子』(新海誠)

 『天気の子』は革命の映画である。ここで言う革命とは、新海誠が切り開いた世界観が革命的などと噴飯ものの意味ではない。冷戦崩壊以降のグローバル資本主義が支配する世界に抗して「革命」を試みる作品として革命的な映画なのである。

 

 『天気の子』で描かれる世界とは、アニメーションというフィルターで美化しようとしているが、あまりにリアルで過酷な貧困である。16歳の帆高は、離島から東京へ渡るが、アルバイトはなかなか採用されず、3日間水で過ごす日々もある。まさに、「ルンペンプロレタリアート」(マルクス)だ。一方、15歳(当初は、18歳と帆高に嘘をついていた)の陽菜は、多額のお金を得るために自らの身体を売ろうとする。もはや、それは「人的資本」ですらない。人間それ自体の完全な商品化であり、オブジェに等しい。資本は、人間には決して追いつくことのできない速度で加速し続ける(加速主義は、資本主義を加速させ続けることで崩壊させると言っているが可能なのだろうか?)。そして、人間は「疎外」(マルクス)されるしかない。有限性と無限性という闘いに勝手にエントリーされているのである。本作は、子どもが大人(=権力)に闘争=逃走し、「革命」を試みる映画である。「天気」の子は、ノードの切断を試みる「転機」の子なのだ。

 

 物語が進むにつれ、陽菜は、「100%の晴れ女」であることが判明する。彼女は、祈ることで確実な「晴れ」を作る能力を持っていたのだ。「晴れ」とは、「ハレ」(=非日常) である。無論、「雨」が、「ケ」(=日常)だと言いたいのではない。だが、3.11以降、「日常」とは、「非日常」の連続である、という体感不安は一気に増大した。「フクシマ」を襲った津波福島第一原発発電所事故は、どれだけ「晴れ」をもたらしても「ハレ」なのだ。

 

 帆高は、陽菜(=超越論的他者)を救済することを決断することで、雨は3年間降り続け、東京の土地は殆ど水没してしまう。しかし、東京は都市として機能し、水没は、低いビル階から水没する。これは、資本主義システムのヒエラルキーを象徴的に表現している。つまり、貧困層から死に果てていき、富裕層は長く生きる。

 

 ラストシーン、帆高は言う。「世界は、最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ(中略)陽菜さん、僕たちは大丈夫だ」と。「わたし」と「あなた」が世界を変える。だが、何を根拠に「大丈夫」と言っているのだろうか。セカイ系は、社会の描写がないことはよく指摘される。つまり、新自由主義的な描写になるということである。この「大丈夫」とは、既存のシステムでも力を合わせれば「大丈夫」程度のものだろう。作風の都合上しかたないことだが、ロマン主義的だ。「資本主義は、正しいか正しくないか以前に、良いか悪いか以前に、腐っている」(小泉義之)のだから。

 

 「愛にできることはまだあるかい?」と問われれば、ないのかもしれない。しかし、愛それ自体はできることはなくても、「愛を信じる」ことで起こる革命はある。「きっと大丈夫」と未来を想定するのではなく、「大丈夫ではない」、だからこそ「愛」を信じるという認識から主体的に行動することできっと革命は起こる。