水平線

研究と批評.

擬制としての平和主義

 戦後の日本は、「平和」・「民主主義」というメルクマールを標榜し現在まで歩み続け、これからも「平和主義」国家として歩み進めようとすることだろう。しかし、昨今の第二次安倍政権での特定秘密保護法案や集団的自衛権の行使の容認、そして憲法九条改憲案の提示などは、戦後の「平和主義」を脅かす存在として現在まで議論されている。こうした立憲主義の危機にSEALDsなどの団体は、レイブのようにストリートを「民主主義って何だ」という大音量のシュプレヒコールを叫びながら行進した。だが、彼/彼女たちが叫ぶ「民主主義」とは一体何なのだろうか。彼/彼女たちは、「民主主義って何だ」という問いに、自ら「これだ」と叫ぶ。なるほど、彼/彼女たちにとって現安倍政権とは、支持をしている人たちにとっても消去法として支持しているという認識なのだろう。安倍政権とは、絶対的な「敵」なのだ、と。だが、言うまでもなく現安倍政権の支持率は10代から30代の若者世代を中心に高い水準を保っている。2017年の衆議院選挙では若者世代の約50%近くが安倍政権を支持しているというのが実情だ[1]。SEALDsのシュプレヒコールは、ポピュリズムに過ぎない。一般的に、ポピュリズムは悪とされている。だが、ポピュリズム研究の歴史の歩みを辿れば、事態はそれほど単純ではないことがわかる。水島治郎は、『ポピュリズムとは何か』(中公新書、2016年)において、ポピュリズムとは「人民」を重視するものと語っている。「熟議デモクラシー」は、新自由主義の下、政治的アリーナが縮小せざるを得ない。そのような社会でポピュリズムという事象は、必然であるとも言える。我々には、「ラディカル・デモクラシー」しかないのだ、と。シャンタル・ムフは、「闘技デモクラシー」の可能性を説いているが、「闘技デモクラシー」だけでは危険性がある。「闘技デモクラシー」の躍進に既成政党が危機感を感知し、「熟議デモクラシー」とのバランスを取ることこそが既成政党に求められていることではないか。立憲民主党などの野党は、投票率が向上すれば現政権を打倒できる可能性がある、などと語っているが事態はそれほど単純ではないだろう。敵は、安倍政権ではない。リベラル左派に内なる「敵」は存在する。我々は、戦後から現在までの日本の歩みに足を止め、一度その足跡を確認することで確かな「敵」を認識しなければならない。そして、戦後日本の絶対的なメルクマールの価値観が揺さぶられることだろう。我々は、擬制=犠牲としての「平和主義」国家を歩み進めてきたのだ、と。

 

 民主主義は、必然的にマイノリティを生みだすシステムである。排除の論理を伴う民主主義は、暴力とコインの裏表だ。だからこそ、同質的な空間から零れ落ちたアウトサイダーを拾い上げなければならない。等価性の論理における対称性に裂け目をつくる「異質なもの」は、決して同質的な空間に表象されず、瞬間的な裂け目を生成するに過ぎない。だが、絶対的な外部からの意見は、政治的決断主義の不可能性を露呈すると同時に、「終わりなき対話」が政治であることを認識させてくれるのである。

 

 しかし、戦後の日本を鑑みれば、そのような「他者」を政治的アリーナから排除してきた。現在まで続く軍事化された沖縄や外国人労働者の問題は、戦後のアメリカの「核の傘」の下、日本国憲法の理念としての「平和主義」は、一部の「他者」の犠牲と強要によって成り立っている。現在における諸運動は、「市民」という論理で闘っているが、同質的な国民国家において「内なる差別」は確かに存在する。かつて、日本共産党でさえ1955年7月の第6回全国協議会において自己総括をし、日本人でない者を革命の主体から排除している歴史がある(西川長夫、大野光明、番匠健一編著『戦後史再考 「歴史の裂け目」をとらえる』、平凡社、2014年、159頁参考)。55年体制が確立していく過程で、非日本人を排除し意思決定の場に参画できない歴史があるのだ。話を、現在まで引き寄せるのであれば、昨日の参議院選挙でのれいわ新選組山本太郎旋風は、障害者を味方にすることで選挙を闘い抜いた。「障害者を見世物にするな」などの批判もあったようだが、歴史的において、むしろ障害者を見世物にしてきたのは我々自身だったのではないか。そのような意味で、山本太郎の戦略は、確かな意味があった。

 

 西川長夫は、「戦後に作られた現行憲法が存続する限り私たちは戦後にある」と定義している。戦後、国民国家の論理から排除されてきた人々は、マイノリティとして闘ってきた。そのような他者の痛みと犠牲の上に成り立った「戦後」を越境するためには、現行憲法を乗り越えれば成立するのだろうか。無論、事態はそれほど単純明快にはいくはずもないだろう。むしろ、それが意味するのはアメリカの論理に対してさらに強固に追従することを意味するに他ならない。

 

 戦後の社会思想の闘争の歴史から我々は、何を汲み取ることができるのだろうか。我々は、マジョリティとして、「闘争」から「逃走」してきた。彼/彼女たちの闘争の記録を鑑みることは、現在の政治体制にどのような裂け目を生成することができるだろうか。「闘争」なくして社会変革はない。だからこそ、彼/彼女たちの闘争の歴史に今一度、真剣に目を向けなければならないのである。

 

※後日、具体的な事例から上記に述べた現在までの問題を解決するための糸口を発見できるように努めたい。

 

[1]なぜミレニアル世代は「首相はずっと安倍さん」を望むのか https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53402(閲覧日8.27)