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研究と批評.

『ファイト・クラブ』と『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー)

 映画が、作品のどこかでリアリズムを帯びるのであれば、それとも「世界は概念で出来上がっているから、作品は否応なくリアリティを有してしまう」(小泉義之)のであれば、デヴィッド・フィンチャー監督による『ファイト・クラブ』(1999年)と『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)ほど、その時代を決定的に象徴する鏡像的作品は存在しないと言える。『ファイト・クラブ』が公開した1999年が、オカルティズム的な年であれば、『ソーシャル・ネットワーク』が公開した2010年は、タイトルの通り「SNS」(Social Network Survice)の時代である。

 

 『ファイト・クラブ』と『ソーシャル・ネットワーク』は、確かにその時代の一つの鏡像的作品であった。しかし、二つの作品は単独に完結した作品ではない。『ファイト・クラブ』は、『ソーシャル・ネットワーク』へと飛躍している。いわば「続編」と位置付けることが可能だと宣言することができる。二つの作品には、あるアナロジーを抽出することができる。それは、我々がリアリズムで冒されている一つの「病」である。

 

 『ファイト・クラブ』は、終始として「死」を意識させる。冒頭から、死が身近に迫った人々のセラピーのシーンから始まり、「ファイト・クラブ」での殴り合い、手の甲に焼印etc. といくつものシーンを抜粋することができる。我々は、「死」を忘却し生きる。しかし、我々は「死」を完全に忘却しているわけではない。「死」は、「この」身体に、実存的存在の必然として認識している。我々は、「死」の不安から他者との空疎で頽落的な「空談」(ハイデガー)で不可視にしているに過ぎない。それは、『ファイト・クラブ』で描かれる資本主義システムの必然としての高度消費文明の「物」に支配されることで幸福を享受する哀れな「動物」のように、何の疑問も抱かない「畜群」(ニーチェ)である。

 「死」という深淵が、広がる時、「死」という自己にとっての固有性が自意識によって認識されたとき「本来的共存在」へと覚醒する。それは、物語終盤にかけて「ファイト・クラブ」という共同体が、真理を体現する「党」へ献身するかのような様相を帯びることからも明らかである。固有的な単独性を抹消(実際に、主人公には固有名はなく「私」と表現されている)し、「党」としての連帯を求めるのである。資本主義システムにおける有限性と無限性の闘いに、必然的に敗北するしかない、「疎外」されるしかない運命である「孤独な現存在」として忘却する先験的な「共存在」の最終手段としての「党」という形態なのである。

 

 一方、『ソーシャル・ネットワーク』は、『ファイト・クラブ』とは作風は異なり、2010年=テン年代を象徴するリアリズム的な作品である。冒頭、マーク・ザックバーグが、恋人のエリカに一方的なコミュニケーションを仕掛ける場面は、現在のSNSの風景を象徴的に表現している。複数の世界性が浮遊する言語空間において還元不可能な意味の複数性に衝突する。そのような「郵便-誤配」(=郵便的超越論性)は、SNSにはいまや存在しない。それは、「島宇宙化」した空間であり、予測可能性な鏡像的他者である。いわば、複数的な「幽霊」は回帰することはない。しかし、本質的にSNSは、「郵便的超越論性」の表象空間である。そのような意味で『ソーシャル・ネットワーク』は、『ファイト・クラブ』とは対極的である。『ファイト・クラブ』では、「死」を自覚することでハイデガー的であり、単独性としての運命であった。しかし、『ソーシャル・ネットワーク』では、「デッド・ストック」として「手紙は宛先に届かないこともありうる」(デリダ)。つまり、象徴空間に構造化されない行方不明の可能性(=幽霊)が内在しているのである。

 

 では、二つの作品を比較することで浮かび上がってくる「病」とは、一体何なのか。それは、「連帯」の不可能性という事態である。『ファイト・クラブ』の公開した1999年は、日本ではオウム真理教といったカルト集団による事件から数年経った年である。「ファイト・クラブ」の連帯形態とは、超越論的連帯である。「世界の脱呪術化」による世界で、カルト的な「宗教」に没入することで連帯を求めたのだ。無論、それは、「第三者の審級」が失墜した、虚妄としての「アイロニカルな没入」に過ぎない。1989/1991年の崩壊からの必然的帰結とも言えるだろう。

 一方、SNSは、連帯の革命を起こすことに成功したのだろうか。『ソーシャル・ネットワーク』の物語を鑑賞すれば、それが革命の挫折であることが認識できる。『ソーシャル・ネットワーク』で描かれるSNSが理想とした連帯とは異なり、作品内でのリアルな連帯が破綻している。マーク・ザッグバーグが複数の訟訴を抱え込んでいることからも明らかだろう。SNSによる連帯が、リアルな社会では破綻せざるを得ないことを象徴的に描いている。また、『ソーシャル・ネットワーク』は、ノンフィクションのように描かれているが、フィクション性が多く介入している(無論、ノンフィクションであろうと映画には必然的にフィクション性は介入する)。ノンフィクションであると錯覚するのは、SNSの連帯が、まるでリアルな連帯と錯覚するかのようなことを象徴的に描いているかのようである。SNSは、「誤配」ではなく、排外主義的にならざるを得ない。それは、政治や社会運動がSNSと不可分になった現在の世界情勢の兆候を俯瞰してみれば言うまでもない。

 

 「連帯」の不可能性という観点から二つの作品に介入することで、二つは断絶した一つの独立した作品ではないことを確認してきた。それは、「連帯」の不可能性という観点から連続した一つの作品であり、「続編」なのだと。または、1989/1991年から現在までの連続性と捉えることも可能である。

 しかし、大きな問題が一つ残されている。それは、二つの作品のラストシーンである。『ファイト・クラブ』では、「私」はマーラーと共に崩れゆく資本主義の象徴である金融街のビル群を眺めながら、「全てが良くなる」と発言し幕を閉じる。一方、『ソーシャル・ネットワーク』は、裁判中のマーク・ザックバーグが、元恋人のエリカにFacebookで友達申請を送り、幕は閉じる。

 一体何が問題なのか。それは、「わたし」と「あなた」というセカイ系のようなロマン主義的な帰結にならざるを得ないことである。『ファイト・クラブ』のラストの「全てが良くなる」とは、何を根拠に言っているのだろうか。たかが金融街のビル群を爆破しただけである。何年も経てば、新たな金融街のビル群は創設され、資本主義システムはますます発展していることだろう。一方、『ソーシャル・ネットワーク』のラストも同様の問題意識だろう。つまり、他者という「異質なもの」を排除すればいい、「わたし」と「あなた」が連帯することができたらいい、と。「この」世界で、自己にとっての最大限の合理主義的な生き方を模索しようと。 

 1989/1991年以降の「想像力=創造力」の限界が、二つの映画には凝縮されている。グローバル資本主義の「外部」へと飛躍することができる「想像力=創造力」の喪失。我々が、それを獲得するには、過去の歴史的遺産を脱構築するしか術はないことだろう。