水平線

研究と批評.

『生きてるだけで、愛。』(関根光才)

 「生きてるだけで」なんて簡単に言えない。その生きる「だけ」がどれほど困難な社会なのだろう。寧子(趣里)のように躁鬱による過眠症は、なかなか他者に理解されることはない。そんなものは甘えだ、楽しければ治るよ、と。だが、「生きる」ことを生きる「だけ」と本心で言える人など存在するのだろうか。躁鬱などによる病でなくても、「内なる差別」から生きることは、苦痛となることもある。それは、「市民」という同質性の論理から零れ落ちた「異質なもの」として排除されている。在日外国人の処遇には、手続きの困難さや煩雑さなど問題が山積みである。また、障害者にとっては、健全的な肉体そのものが権力である。資本主義社会による労働=力の単純な図式は、「力」のあるものを正義とし、障害者や高齢者を「悪」とし隔離収容するのである。それは、どれだけシステムが整えられ、マイノリティのための政治をメルクマールにしても逃れられない事実なのである。だからこそ、小泉義之『生殖の哲学』の次の引用は美しい。

街路が自動車によってではなく車椅子や松葉杖で埋められているほうが、よほど美しい社会だと思う。痴呆老人が都市の中心部を徘徊し、意味不明の叫びを発する人間が街路にいるほうが、よほど豊かな社会だと思う。

 この価値転倒こそ「AI」化する社会にはない「愛」ではないか。どれだけシステムを改良しても、それは内部での改革に過ぎない。ゲーデルの「不完全性定理」のように、AIによる形式化の果てには、形式化不可能な部分に必然的に衝突する。この形式化不可能な部分を捨象するだけでいいのだろうか。だからこそ、小泉義之が言及する価値転倒こそサバルタンによる「革命」なのである。

 

 話を作品に戻そう。だが、これほどまでに「生きる」ことを「だけ」と簡単に宣言できない事象が顕在していることを確認することができたことだろう。腐りきった社会で、タイトルの「愛」を感受するのは、虚妄なのかもしれない。

 作品に登場する寧子(趣里)と津奈木(菅田将暉)も腐った社会で「生きる」ことに翻弄されている。寧子(趣里)は、躁鬱による過眠症で市民社会になかなか参与できない。また、津奈木(菅田将暉)は、文学という夢を諦め、出版社で下劣なゴシップ記事を執筆している。

 この二人が、なぜ同棲を始めたのか、なぜ魅了されたのか。その点に関しては具体的な描写はない。しかし、ここに本作品における核心があるのではないだろうか。

 

 愛を言葉で語ることに意味があるのだろうか。おそらく、「ある」と答えることが大半だろう。確かに、それは一義的には誤りではない。だが、愛を言葉で語れば語るほど、「愛は愛である」というトートロジーに帰着する。しかし、そうであるから故に逆説的だが言葉で語るしかないのだ。それは、愛や言葉を捨象した時に必然的に衝突する空虚さに他ならない。寧子(趣里)が、アルバイト後の食事の場で「ウォシュレットの怖さ」を語って、誰にも共感されないように、愛を言葉で語ったところで伝わらないのかもしれない。しかし、だからこそ愛を言葉で語るしかないのだ。それが、どれほど空虚だとしても。

 「わたし」が「あなた」を愛する理由は、本質的に説明することはできない。言語哲学の歴史的潮流では、固有性は他者の性質についての記述に還元できるとされてきた。しかし、クリプキたちによる批判によって、それは誤りであることが現在までの通説である。固有性は、対象を指し示しているだけであり、空虚なフェティッシュである。そして、それは他者への愛についても同様ではないだろうか。

 性質は、愛の理由にはならない。選別された性質が愛の理由であれば、それは、ルネ・ジラールが言う「欲望とは他者の欲望」の問題と同義である。つまり、愛にとって重要なのは「この私」の「この」(this-ness)、つまり「単独性」(singularity)なのである。

 

 物語終盤、寧子(趣里)は、津奈木(菅田将暉)に「こんな私のどこが好きだったか言ってくれる?」と問いかける。この場面の一連の流れで寧子は、服を脱ぎ捨て全裸状態であるが、津奈木(菅田将暉)が「全裸じゃなきゃだめ?」と問い、寧子(趣里)が「全裸じゃなきゃだめ」と答えることからも「単独性」を象徴的に表現していると言えるだろう。津奈木(菅田将暉)は、数秒間言葉を詰まらせ、答える。だが、その答えはその場の言葉に過ぎなかったのだろう。同一性がすでに差異性であるのであれば、差異は相対化されることはない。私が他者=差異性であるため、他者は私にとっての絶対的な差異として立ち現れる。愛という絶対的不可能性の体験。だが、この不可能性こそが愛を成立させているのである。この場面が描き出していることは、愛とは事後的に生成する物語であるということだ。相手が何者であれ、理由がどうであれ、「この」相手から離れることができないこと。これこそ「愛」なのだ。

 最後、二人が言葉なしで抱き合いながら「ほんの一瞬分かり合えて生きている」場面は、生きる「だけ」で疲弊してしまう社会における、決して形式化することのできない絶対的な外部としての美しすぎるほど瞬間的な「愛」の現前である。それは、波打ち際の砂の表情のように、明日になれば儚く消失してしまう脆さだろう。しかし、この永続することはない時間に、「。」をつけることで、この「愛」は、消失されることなく、表象され続けるのだ。