水平線

研究と批評.

『ジョーカー』(トッド・フィリップス)

 真理の不在、またはユートピアの欠如。パラノ的「あな」ではなく、スキゾ的複数の「あな」の周縁を回遊する。有限的な貧しい生、半端な到達点。「現実界」のリアルの「リアル」に慄いた極点としての結節点はいかなる風景か。絶対的な恐怖とは、何よりも美しい「魅惑」である。ポスト・構造主義のように真理からの逃走の果ての「真理」を消去しなければならない。かつての歴史的事象のテーゼで表現するのであれば、「遠くまで行くんだ…」と。

 

 『ジョーカー』で描かれる世界に、#MeToo と賛同することは容易い。コメディアンを夢見る主人公のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、職場を解雇され、出生の秘密を知り、隣人の女性であるソフィー・デュモンド(ザジー・ビーツ)との交際は、アーサーが抱える精神疾患からの妄想の産物であることを知ってしまう。そして、憧れのコメディアンであるマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)の番組に出演するも、嘲笑され、アーサーは、「失うものがない男を怒らせたらどうなるか思い知らせてやる」と言い拳銃でマレーを殺害する。

 アーサーの境遇に情動を動かされることに何も驚愕しない。「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)による再帰的無能感は、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」からだ。アーサーは、精神疾患を抱えていることが物語の一つのキーである。精神疾患とは、資本主義が唯一機能するシステムであるという諦念から生じる病ではなく、資本主義は本質的に腐っているのであり、それを強制的に維持しているからこそ精神疾患が、資本主義社会で流行するのである。

 かつてのマルクス主義のような資本家と労働者という階級闘争は、一つのオルタナティブであった。しかし、ポスト・冷戦の社会で資本家と労働者は、衝突することはない絶対的差異である。無論、言うまでもなく階級社会は確かに存在しているのだが、それは「格差社会」として不可視にされている。1990年代以降から急激に増加した「プレカリアート」の存在は、ケインズ主義が想定した労使の均衡を崩した。そして、〈2011年〉以降の世界的動乱は、単一の同一性には還元できない無数の内的差異、すべての特異な差異から構成される多様性である「マルチチュード」(ネグリ=ハート)から成る運動であった。〈2011〉の世界的動乱で最も有名である「ウォール街を占拠せよ」(OWS)の合言葉「We are the 99%」に象徴されるように、いかなるサービスにも金銭を支払わなければならない社会、福祉国家の消滅と後退への叛乱であった。しかし、自由意志による政治的連帯は、雲散霧消する運命であり、現在では、ほとんど機能していないに等しい。それは、政治的連帯には、ある種の強制性、必然性がなければ困難であることの露呈であると同時に、コミュニズムの不可能性を再度示したようであった。

 国内で話を進めよう。安倍政権下での経済成長を謳った政策は、貧乏人の負担を少なくしたか。成長戦略の実態は、小泉政権時代からの民営化である。膨れ上がった公的債務の負担は、〈共〉を売却しなければならない。これこそが、『ジョーカー』の世界観の帰結であろう。「社会の居場所がない」、「道端で倒れていても誰も振り向いてくれないじゃないか」とアーサーは嘆く。さらに、アーサーは聖域としての「家族」的アイデンティティにすら見捨てられている。(ここでの「家族」とは血縁だけでなく時間的共有も意味する)人間は、先験的に「共的存在」のはずだ。公的/私的領域にも疎外された先の帰着は、「ジョーカー」のような存在にならざるを得ないではないか。これは、ジョーカーを否定/肯定の論理で語っても無意味である。そして、誰もがジョーカーのなる可能性を孕んでいる、という批評は至極退屈だ。そうではない。誰もがジョーカーのような存在になるのではなく、誰もがジョーカーという存在を無意識的に生み出している、誰もが無意識的に「ジョーカー」なのである。それは、我々の鏡像なのだ、と。なぜ、ジョーカーのようになるのか。社会構築主義の立場で思索するのであれば、ルソー的な「憐れみ」すら喪失されるほどの格差社会の過酷さ、他者を救済する愛の余白がないからだ。本来は、ジョーカーのような存在を救済する社会にしなけらばならない。一方で、ジョーカーは、あまりに脆く弱く、優しさと愛に溢れた人物である。同僚を殺害する場面で、付き添いの一人は「君は僕にいつでも優しくしてくれた」と言い見逃す。すべてを失ったとき愛の結節点が生成されるのかもしれない。

 さらに、現実世界を俯瞰してみよう。トランプのような排外主義的な言説はもちろんだが、その対抗としてのPC(Political Correctness)の過剰は、何を生み出したか。恣意的な正義感がリンチを正当化するのだ。国内に目を向けても、現安倍政権への批判に立憲民主党などの中道リベラル左派系統の陣営は、逆説的に差別的になっていないか。暴力的享楽が、皮肉にも「暴力」を生成する。世界的な左/右派ポピュリズムの勃興は、暴力に「暴力」を対置する。しかし、そこから生まれるのは「暴力」の連鎖に過ぎない。

 

 物語終盤からラストにかけての暴力による享楽を追体験する場面は、「快楽」ではなかった、とはっきり否定することはできない。警察からジョーカーを奪還し、車で踊り大衆が歓喜する場面は、トランプやルペンの言説に沸く大衆のようである。あなたは、はっきりと否定することができるか。理性では追いつけない情動の歓喜が支配するはずだ。それは、我々には暴力による享楽以上の未来がないからだ。これに代わるオルタナティブを発見すること、無論、現在のポピュリズムや暴力による享楽を肯定するつもりはない。しかし、それ以上の世界像が描けないことがアポリアなのだ。

 本作は、あまりにも悪を短絡的な論理で図式化した作品である。しかし、裏返せば現実世界が、あまりにもフィクション的な社会になっているとも言えるだろう。そもそも虚構/真実の境界を意図的に不明瞭にしている場面を混在させている。まさに、「フェイクニュース」に騙され、情動に意図しない方向に連関される愚かな大衆のようだ。「ジョーク」も語り続ければ、いつしか真実になるのである。

 

 ラストシーン、大衆の前で踊り狂う場面から、突如として精神病棟の場面へと切り替わる。ジョーカーは捕まり、施設へと強制入院させられたのだろうか。それとも精神疾患から生じるジョーカーの妄想の産物なのだろうか。果たしてジョーカーは、狂人だろうか。フーコーが『狂気の歴史』で言及するように、狂気の経験とは「言語の狂気の経験」である。言語の狂気のゲームによる相互承認である限り、狂人は「自由」である。故にジョーカーとは、「パレーシア」である。小泉義之は『あたらしい狂気の歴史 精神病理の哲学』で、パレーシアとは、「民主主義の外部で、新たな別のエートスを創設するために行われるのである。」と指摘している。今、アメリカでは、トランプ政権などの反動として若者に社会主義の支持が増加している。『ジョーカー』を鑑賞した、「動物化」した愚かな大衆は、誰もが「ジョーカー」になる可能性を指摘するに留まるだろう。しかし、この反動の機会を奪回できるほど左派の理論的視座もないことは確かである。だが、『ジョーカー』の喜劇のように、コミュニズムは「はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」(スラヴォイ・ジジェク)我々に現前することだろう。