水平線

研究と批評.

『パラサイトーー半地下の家族』(ポン・ジュノ)

 ポン・ジュノは、社会が不可視にしようとする「暗部」を象徴的に描くことを度々する映画監督だ。『殺人の追憶』の用水路やヒョンギュが暗いトンネルの奥へと消えるシーンや『グエムルー漢江の怪物』の下水道などが挙げることができる。そして、『パラサイト 半地下の家族』でも、それは変わらず象徴的に描かれている。

 半「地下」(=「下部構造」)から地上の陽光を浴びることは容易ではない。本来「半地下」とは、北朝鮮の攻撃から身を守るための防空壕であった。しかし、いつしか貧困層が、格安の家賃で住むことができる住居として賃貸されるようになる。トイレ以下の生活。カビ臭い「匂い」がどこまでも染みつく。臭い物に蓋をしたい社会は、彼/女たちを隔離したい。皮肉な形で防空壕としての機能を発揮している。しかし、一体「異臭」を放っているのはどっちなのだろう。

 

 ポン・ジュノの過去作である『スノーピアサー』は、近未来の生き残った人類が永久機関によって動き続ける列車「スノーピアサー」で全てを支配する富裕層に貧困層が叛乱を決起し、革命を企てる階級闘争を仕掛ける作品であった。一方で、『パラサイト 半地下の家族』は、新自由主義的である格差社会を描き続ける作品である。世界的に現代社会が抱える病をエンターテインメントでもありながらリアリズムに描く。

 韓国では、1997年の国家破綻の危機に際してIMFからの資金支援を受け、2008年には世界同時不況が発端となり通貨危機を経験している。韓国経済の抜本的構造改革は、財閥の権力を強固とする。大規模なリストラ、非正規雇用の拡大。豊かな者は富み、貧しい者は痩せ細る。

 もちろんこうした格差社会は、韓国に限った話ではなく世界的事象である。OWSのスローガンに倣えば「私たちは99%」なのだ、と。それは、2011年以降の世界的な革命を予兆させ、挫折した諸運動からも明らかだろう。なぜ、2011年以降の社会運動が挫折し、敗北したのか。それは、新自由主義には明確な「敵」が存在しないからではないか。グローバル資本主義は、確かに一つの「敵」なのだろう。しかし、善/悪の基準が喪失しているがために、それはクラインの壺のように回帰するしかない。フーコーは、かつて「権力があるところには、必ず抵抗は生まれる」と表現した。2011年以降の社会運動が、最終的に離合集散したのは、「外部」が存在しないからである。カール・シュミットを援用するまでもなく、確かな「敵」を創造するとき諸運動が初めて成就することだろう。

 だが、やはり資本主義は一つの「敵」であり、格差社会という事象がある。沖公祐は、『「富」なき時代の資本主義』で次のように言及している。

 

 

現代の先進国は、資本・賃貸労働関係を通じてものを生産・分配・消費するということを中心とした社会ではもはやなくなっている。その意味で、われわれの生きている社会は、マルクスが述べた意味での資本主義、「資本主義的生産様式が支配している社会」とは明らかに異なる。

 

 

諸国民の未来の富を収奪し利潤を得る。作中にある「1人の警備員を雇うだけでも500人の応募がある」という発言は、まさにそのことを表現しているだろう。ギテクの息子キム・ギウ(チェ・ウシク)は、大学入試に失敗し続け、ギテクの娘キム・ギジョン(パク・ソダム)は、美大へ進学したいが、予備校に通えず、スキルだけが上達する。親に金がないと大学へにも進学できない。ましてや韓国は、過酷な受験戦争である。そして、無事卒業できたとしても正規雇用として就職できるかも不透明な現実がある。非正規雇用では、永久に富者になれることなど不可能だろう。そして死ぬまで労働するしかない。それを拒否したいのであれば自殺をするしか術はないだろう。実際、平成30年度版の厚生労働省が公開した「自殺対策白書」によると先進国における若者世代の死因の上位には、「自殺」が多くを占めている。韓国は、日本と同様「自殺」が死因の1位である。

 安直な自殺解放論や反出生主義を掲げることは、癒しを与える。だが、「自殺」が解放であるかと問われれば、そうとは言えない。自殺をすることは、世界や人生の不条理を否定することにはならない。むしろ、自殺をすることでこの世界や不条理を肯定している。だからこそ、カミュの言説のように「不条理な生の中で抗い続け」なければならない。

 サルトルは、「死者であるとは、生者たちの餌食となることである」と表現している。死者は、私たちに何も語ることはない。死者について語れるのは生者だけである。しかし、生者(=社会)は死者という固有性を語っているか。科学技術の死の統計化は、無数の単独性を有した他者の死が一つの死として完結する。だからこそ、モーリス・ブランショが、『明かしえぬ共同体』で語る次のような言葉は美しい。

 

 

他人の死を、自分に関わりある唯一の死でもあるかのようにおのれの身に担いとること、それこそが私を自己の外に投げ出すものであり、共同体の不可能性のさなかにあって共同体を開示しつつ、その開口部に向けて私を開くことのできる唯一の別離なのである。

 

 

 「あなた」の死を語り続けることで死者は生存する。失われたはずの共同体の現出は、自殺した死者に「なる(devenir)」ことで確かに開示する。

 若者世代は、社会に漂う「匂い」に自覚的である。階級闘争の行為主体性を喪失した〈左翼の病理〉の気配を嗅ぎ取る。2011年以降の革命的介入が、右派ポピュリズムへの反動でしかなかったように。資本主義とは別の地平の不在による再帰的無能感を超克する。「同志関係と連帯性」の復権こそが新世界の建設の一歩である。

 

 さらに、ここで一つ付言しておこう。それは、パク一家の言語コミュニケーションに韓国語に入り混じり英語が使用されていることである。パク一家の大黒柱パク・ドンイク(イ・ソンギュク)がIT企業の社長なことも象徴的であるように、市場の本格的世界化とグローバル化による英語公用語化やグローバル経済による産業労働者階級の主導的役割の喪失を描いている。

 ネグリ=ハートが言うように「非物質的労働」は、「他者から伝えられた〈共〉的[=共通・共有の]知識に依拠しつつ、また新たな〈共〉的知識を創り出す」。労働そのものの生産的エネルギーからの現出。コミュニケーション至上主義、情動的関係、知識。労働時間と余暇時間の曖昧化。実際、キム・ギウ(チェ・ウシク)は、英語の家庭教師としてパク一家へ働き始める。

 

 物語の中盤にかけて、パク一家の地下には元・家政婦のムングァン(イ・ジョンウン)の夫が住み着いていることが判明する。それは、キム一家が住む「半地下」よりもさらに「地下」へと続く深淵である。

 様々ないざこざがあり、高台に存在するパク一家の豪邸から脱出したキム一家だが、下界に存在する「半地下」の家は、大洪水で浸水する。息子のキム・ギウ(チェ・ウシク)は、友人に貰った「水石」(=「上部構造」)を持ち出す。そして、この「水石」は、地下室の住人を殺害するために利用されてしまうことになる。だが、友人から「水石」を貰ったとき「象徴的だ...」とキム・ギウ(チェ・ウシク)が呟いたように、過剰な経済活動によって忘却された情動を喚起する。殺害という形態に帰結したものの、それは無思考で「石」ころ一つも清掃するような「意思」(=「石」)なき社会における初めての「意志」の表出なのである。

 

 物語の終盤、地上に這い上がったムンヴァン(イ・ジョンウン)の夫は、パク一家が主催するパーティーで悲劇を起こす。パニックになる会場でパク・ドンイク(イ・ソンギュク)が、地下の男の「匂い」に鼻をつまむ。その光景にキム・ギテク(ソン・ガンホ)は、怒り狂いパク・ドンイク(イ・ソンギュク)を殺害する。どこまでも染みつく陰気臭い「匂い」。絶対的な差異である富者と貧者の境目を、容易に越境する「匂い」。だが、富者は「香り」、貧者はどこまでも「匂う」のであり、「匂う」者同士が争い合うしかない。不毛な争い、愚劣な暴力の連鎖にしかならない。

 パク・ドンイク(イ・ソンギュク)を殺害したキム・ギテク(ソン・ガンホ)は、逃亡の果てパク一家の地下に身を隠すことになる。息子のキム・ギウ(チェ・ウシク)は、真夜中にかつてパク一家が住んでいた豪邸が俯瞰できる山から、キム・ギテク(ソン・ガンホ)が発するモーリス信号のメッセージを察する。そして、ラストシーンで息子のキム・ギウ(チェ・ウシク)は誓う、「いつか金持ちになって父親を救おう」と。

 

 ラストからも明らかなように、格差社会が広がる恐れからキム・ギウ(チェ・ウシク)は、富者になることを諦め「ない」。しかし、現代資本主義とその精神は、狂気じみた投資や循環からも自力で脱することはできない。欺瞞的で収奪的で暴力にしかならない腐朽性に満ちた現代資本主義の社会で、富者になることを諦め「ない」のではなく、いかにして「諦める」かではないか。資本主義の再帰的無能感によるコードを共有しているがため「諦める」ことは些か困難極まりない。だが、資本家とは「主人と奴隷の弁証法」で成立する存在に過ぎないのだ。そのとき、パク社長の息子パク・ダソン(チョン・ヒョンジュン)の誕生日に彷徨っていた亡霊(=地下室の男)が現前することもないだろう。だが、その一方で別の亡霊は回帰してくるはずである。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』のかの有名な書き出しのように「ヨーロッパに幽霊が出るーー共産主義という幽霊である」、と。マルクスが、「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」という言葉を残しているが、この言葉は色褪せることはない。階級意識が覚醒したとき、革命は地平線から現出することだろう。そして、共産主義は資本主義のリアルを破壊し、救済するのである。