水平線

研究と批評.

小文字aのアナーキズム、あるいは大文字Aの他者

 1999年のバトル・イン・シアトル以降、世界的に浮上してきたのはアナーキズム的潮流であったという言説がアカデミックにおける一般的通説として流布している。だが、そもそもシアトル以前/以後で切断するのは早急ではないだろうか。

 絓秀実が言うように68年革命の底流であった70年7.7「華青闘告発」は、新左翼運動の「反帝・反スタ」が無自覚なナショナリズムに基づいていることを告発した。以後、左翼は、ジェンダーやマイノリティ等の反差別闘争に「空虚なフェティッシュ」としてアイデンティティを維持する「文化的左翼」にアンガージュするしかない。そして、1989/1991年以降の冷戦崩壊以降のグローバル資本主義の支配は、「歴史の必然」の崩壊を露呈した。1989/1991以降を存在する私たちには、虚妄としてのマルクスレーニン主義(無論、全否定するつもりはない)はあるかもしれないが、本質的に諸運動にアンガージュする方法論は、ノンセクト的であり、「アナーキズム」しかない。そもそも、新自由主義それ自体がアナーキズム的である。

 また、政治的無関心層は、あまりにも御粗末で無教養な韓中等批判をするネトウヨ的存在にならざるを得ない。だが、皮肉にもこれはある種必然的帰結とも言えるだろう。アーレントが『全体主義の起源』で言及するように、大衆社会の個人の特徴は、「他人との繋がりの喪失と根無し草的性格」である。現在も感染拡大中の新型コロナウイルス肺炎による影響が、中国/人へのバッシングのレトリックに利用さていることからも確認できるように、想像の共同体としてのナショナル・アイデンティティを維持することは最後の砦なのだ。

 なるほど、確かにナショナル・アイデンティティは一種の有限性にはなるだろう。だが、日本という国家に存在することの必然性などあるのだろうか。「なぜ、日本に存在しているのか」に対しての解は存在しない。それは、偶発的必然性である。そして、こうした恣意的な必然性は別の観点からみれば、レイシズムや差別主義のイデオロギーに容易に利用されてしまう危険性を孕んでいる。それは、今日の世界情勢を俯瞰すれば明白だろう。極端な両極への分断への処方箋とは何か。抽象的な解決策しか提示できないが、このような事象を現出している市民社会の解体状況の復権のための中間団体や共同体を再建するしかないだろう。

 

 話を元に戻そう。だが、現在の政治は極端な分断が進行していることは明白だろう。そして、政治的関心層において、政治運動に参与する層というのは本質的にアナーキズムしかない。9.11以降であれ、2011年以降の世界的革命運動の胎動であれ、そこに渦巻く熱気は、脱中心的・領土的で非暴力的なラディカル・デモクラシーであった。

 国内でも事態の進行は同様である。ゼロ年代では松本哉素人の乱、そして3.11以降の金曜官邸前行動、首都圏反原発連合、しばき隊、SEALDsなどの社会運動は、ノンセクト的な運動であった。

 このような世界的なアナーキズム的潮流に理論的支柱になった中心的な人物の一人に人類学者であるデヴィッド・グレーバーを挙げることは間違いではないだろう。グレーバーは、『アナーキスト人類学のための断章』で、ポストモダニストの「高踏理論」に対して、「低理論」を提示する。グレーバーは、次のように言及する。

 

 

アナーキスト理論化とは、他者の基本姿勢の過ちを証明する必要性にもとづくのではなく、それらがお互いに強化しあうような企画を見出そうとする運動なのである。諸理論がある側面で訳通不能(incommensurable)であるということは、だが、それらが存在しえない、あるいは強化しあえない、ということを意味していない。(中略)だからアナーキズムが必要としているのは、高踏理論でなく、むしろ「低理論」とでも呼びたいものなのである。それは変革のための企画(transformative project)から出現する現実的で、直接的な諸問題と取り込むための方法論である。

 

 

グレーバーは、人類学の様々な事象を参考にし、グローバル資本主義とは異なるオルタナティヴ的組織形態を模索し、新たな非疎外的な生活の組織化の方法を創造しようとする。グレーバーが提示する「小文字aのアナーキズム」とは、アナーキズムマルクス主義という「二者択一の罠」から逃走=闘争線を引きながら、ラディカル・デモクラシーという戦略で、国民国家の主体性を超克した存在を模索する。だからこそ、2011年以降の諸運動でも理論的方法論になっていた、ネグリ=ハートが提示する「マルチチュード」の概念にも否定的である。それは、レーニン主義的な「存在者」という呪縛に囚われている、「前衛主義のたそがれ」に過ぎないのだ、と。

 以上のような主張をするグレーバーが、資本主義に対抗するために持ち出す重要な参考項として文化人類学者のマルセル・モースが提示する「全体的給付(total prestation)」あるいは「全体的互酬性(total reciprocity)」の概念に注視する。グレーバーによれば、資本主義は、いまや「共産主義」に対して寄生的な存在になってきていると言及する。

 

 

もしあなたと私が、お互いに必要な時に助け合うだろうという想定にもとづいて、いちいちどれだけ私があなたに贈与し、あなたは私にどれだけ贈与したか計量しない関係を持つならば、それは共産主義的関係である。(中略)そこから私が言いたいのは次のことです。もしわれわれがモースにちなんで、共産主義を全体的機構として見ないならば、共産主義はどこにでもある。

 

 

グレーバーは、友人関係、恋人、家族などの間に共産主義は存在すると言う。それは、他者への「信頼」であり、ルソー的な「憐れみ」から生じる「相互扶助」とも表現できるだろう。

 

 しかし、グレーバーの「個人主義共産主義」には、現代社会における限界を指摘することができる。確かに、グレーバーが提示する現前する共産主義は存在するかもしれない。だが、格差社会として富者と貧者が絶対的差異として分断されている現実の前では、共産主義を実現しようとしても「できない」という可能性が内在しているのではないだろうか。沖公祐も指摘するように、企業と支配層は、マルクス的「資本主義的生産様式」ではなく、諸国民の未来の富を収奪して利潤をあげている。金融資本主義経済社会に内在する限り、グレーバーの提示する共産主義は、どこかで挫折する運命にある。どうして同じ国民国家の領域で分断が生じるのだろうか。

 それは、資本主義というイデオロギーに内在する限り、早急な「万引きアナーキズム」(絓秀実)に帰結する可能性も否めない。それは、「同志関係と連帯性」との接続を切断し、革命的介入あるいは、社会運動への頓挫にもつながる。

 グレーバーの思考を実現するのであれば、やはり資本主義、国民国家の廃絶をしなければ不可能である。マルクスは、『ゴーダ綱領批判』の中で、次のように言及している。

 

 

資本主義社会と共産主義社会との間には、前者から後者への革命的転化の時期がよこたわっている。それに照応するのはまた政治的過渡期であって、その国家はプロレタリアートの革命的独裁にほかならない

 

 

一時的なプロレタリア独裁体制から社会主義体制への移行は、プロレタリア独裁=国家の廃絶として出現する。だが、歴史的記憶が示すよう国家廃絶におけるプロレタリア独裁による人民の統一は、最終的にプロレタリアートに対する独裁に結合する。そのため、「外部注入論」を否定した人民自身の下からの共同性による連合の方が、「アナーキスト人類学」をメルクマールとするグレーバーの「個人主義共産主義」を実現することができるだろう。それは、アナーキズムであり相互扶助から成立する他者との物語から現出する未知なる外部である。