水平線

研究と批評.

大義を求めよーーパンデミック、資本、階級

 「ウイルスの独白」(https://hapaxxxx.blogspot.com/2020/03/blog-post_30.html?spref=tw&m=1)によると、ウイルスとは「生の連続体」であり「知性」を内在した「救世主」である。続けてこう語る。「わたしのおかげで、みなさまは経済をとるか生きるかという分岐点に立つことができました」と。

 ところが、現実はーーウイルスの意図したものとは異なりーー「経済」を選択した。そもそも、大衆にとってこのような二択自体が成立することはない。なぜなら、「生きる」ことこそが「経済」を維持することだからだ。無論、それは資本主義社会なのだからと答えればそれで議論はおしまいだろう。しかし、事態はもっと深刻ではないか。

 今回の騒動において、休業補償や現金の一律給付を待望する声が多い。また、イギリスでは一時的なベーシックインカム(以下、BI)の検討という報道は記憶に新しい。無論、これらの政策は一時的であれ実施すべきではあるかもしれない。だが、一方でこれらはシステムを再生産するに過ぎない。新自由主義が「反」革命的である所以は、自由と創造性を統治にしたことだが、それは同時に「人的資本」として支配することであり、「生きさせる=息させる」システムだからである。どちらにせよ国家に依存的なのだ。この点においてリベラルは、国家(=政府)を批判しながら国家に依存するというジレンマに陥り、袋小路に入っているようにも見える。

 また今回の騒動において再び、反緊縮・リフレ政策やMMT(Modern Money Theory)理論が持て囃されているようだが、これは資本主義が自助では稼働できないことの症例ではないのか。資本主義はインフレから始まり、国債の発行、民間への負債の付け替えで延命してきた。そして、2008年のリーマンショック以降は、中央銀行(「量的緩和政策」)と国家によって延命してきた。シュトレークの言葉で表現するのであれば「時間稼ぎの資本主義」の現れである。

 「自由と平等のできちゃった結婚」の破綻が鮮明になり、宇野弘蔵の「流通滲透視角」における労働価値説のリアリティは崩壊している。新自由主義的資本主義は、「外部」に利益を求め、「人的資本」としてどこまでも統治する。また、負債ーー例えば、奨学金を想起せよーーによる「民営化されたケインズ主義」や、未来の富で確保する金融資本主義で強制的に仮構されている。この点もリベラルが陥っている罠である。彼/女たちが提唱する福祉や教育への「再分配」は収奪だけの金融資本主義の扶助になっているのだ。

 財政再建国家では、民主主義の脱経済化による資本主義の脱民主主義化のプロセスが加速する。民営化により〈共〉が失われていくと、政治的に決定すべきことも減らざるをえない。市場が、集団的意志決定を慣行する基本原理となれば、ハーバーマスなどの「討議的民主主義」ーー個人的には批判的だがーーは機能しなくなるだろう。つまり、1%の有力者が意思決定を慣行するのである。

 

 フーコーは、法的主体と経済的主体の異質性を和解させることは不可能として新たなる領域ーー「社会的なもの」ーーを必要とした。だが、いまやそのような領域は崩壊し、〈借金人間〉によって生産は保証されている。かつての、2011年以降の市民主体的で自律的・水平的な一連の政治的闘争は離合集散した。たとえ、それが小規模でも継続していたとしてもそれは無力である。それらは、政治に「政治」を対置することができないからである。その反動は、現在までの世界各地の政治状況に一直線である。

 政治とは、決断主義的な選択を回避しながら「居心地の悪さ」を引き受けるのだとしたら、今回の新型コロナウイルス(COVID-19)の騒動における政治的情勢は二重の意味を持つ。現時点で、建設的な対抗運動は不可能である。新自由主義的資本主義では、労働組合は機能しないに等しい。ならば、残されているのは破壊的な対抗運動しかない。いつまで経っても、市民社会的ー対抗運動で「倫理」ばかりを語る学者能力のない者よりは有意義である。隷属関係でしかない我々は、非難を浴びた安倍晋三星野源の動画に登場した愛犬のように可愛がられるようなことは永劫とない。国家のStay-homeの要請に従順な人民は、外出自粛期間中きたるべき闘争のために多少なりとも「なにをなすべきか」の言説を構築するべきだろう。でなければ、今後とも従順な「ポチ」のままである。常態化の維持を強制的に世界が進むと仮定するのであれば、数年後には「コロナ以降」として「リーマンショック以降」のような歴史的転換期として語られるだろう。無論、それは経済的マイナスとしての事故として、である。進行中の事象に介入し続け思考と議論をまずは第一に考えるべきだ。