水平線

研究と批評.

ツイッター・デモ、あるいは催涙ガス

 どうやらツイッター・デモに人民は、賭けたようだ。事の経過は、国会で審議が開始した検察庁法改正案への抗議であるらしい。「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグが、現時点でTwitterという表象空間に470万件以上(5.11時点)ツイートされている。炎上を覚悟の上で、多くの文化人や芸能人も声をあげているためメディアにも注目されている様子だ。

 SNSを号令にデモが勃発するのは、2011年以降の問題であろう。世界的には、アラブの春からウォール街を占拠せよ運動まで抵抗の火花は飛び散っていた。また、国内では3.11以降の反原発運動、そして2015年の反安保法制におけるSEALDsがイデオローグである。

 だが、2011年以降の一連の政治的闘争は無力であった。何も変わらなかった。残されたのは、その反動としての右派ポピュリズムの強権性だけである。絓秀実も指摘するように持続不可能性であったのは、「場所」を欠いた運動であったからであろう。カール・シュミットも語るように「ノモス」をつかさどるのは「土地」だからである。「土地」に依拠しないパルチザンは存在不可能なのだ。

 

 2011年以降の政治的闘争を肯定的に評価するつもりはない。だが、良くも悪くも広場で集会を慣行し、そこをオキュパイーー金曜官邸前行動のようにーーしたことは少なからずデモであった。であれば、今回のコロナ禍におけるツイッター・デモとは、何をもって「デモ」としているのだろうか。もちろん、災害の渦中で権力を濫用するのはお決まりであり個人的にも「反対」である。そして、Twitterに表象され可視化されることで初めて認知することもできた。だが、石破茂の発言でもあるようにデモとは「テロ」のはずである。たとえ、仮構空間に何百・何千万と抗議の言葉が表象されたとしても何が恐怖なのか。それは、社会を反映していると言えるのだろうか。手書きのプラカードではなく、均質の活字体の言葉で一体なんの意味があるのか。全くもって緊張感がないのである。芸能人の政治的発言が炎上するかどうか以前に政治的に腐朽しているのである。彼/女たちにとって、それは瞬間的で非ー歴史的なーーどれだけ本気で批判したとしてもーー祝祭でしかないのである。だから、何度も同じ過ちを繰り返すのである。無論、人民に迎合するリベラル派の病理もここにあると言えるだろう。

 

 ところで、かつてSNSの「弱いつながり」に可能性を語っていた東浩紀は、株式会社ゲンロンカフェを創設して今年で10周年を迎えるそうだ。ゲンロン以後かつての思想から反省的に、あるいは脱構築的に思想を再編成してきた。近年、SNSに批判的な姿勢を表明しながら人民と離別しつつ誤配されるゲンロンカフェというーーネット空間とは異なる自律空間ーー組織を作り上げてきた。「外山恒一×東浩紀ーーコロナ時代に政治的自由は可能なのか?」を鑑賞したが、ツイッター・デモに賭けるぐらいであれば、リアルな空間に組織を構築してきたーー批判的であろうとーー東に賭けるべきだろう。だが、一方で近年「観光客の哲学」で展開してきた思想は、今後のコロナ情勢でどのように総括するのだろうか。そのようなジレンマへの解答にどう答えるのかに期待したい。