水平線

研究と批評.

『狼をさがして』(キム・ミレ)

 かつて〈東アジア反日武装戦線〉(以下、「狼」)が、「虹作戦」(昭和天皇が乗った列車の爆破計画)を決行するはずであった鉄橋が幾度も表象される。だが、鉄橋の彼方は霞んで何も見えない。決して「狼」は、やってこない。「狼」は、絶滅したのだ。だが「狼」が、残した傷痕はどうか。「狼」は、われわれに無数に問いかける。「狼」は、われわれの傷痕に亡霊のように回帰してくることだろう。

 

 冒頭の釜ヶ崎における日雇い労働者たちの場面からも象徴的であるように、「狼」が連帯を表明する労働者は、流動的労働者に限られている。あるいは、アイヌ、沖縄、朝鮮人民などである。さらに『腹腹時計』の記述には、マルクスレーニンの名が登場しない。また、日本の労働者階級自体も帝国主義当事者として否定されている。このような特徴は、従来の左翼、あるいは新左翼にはない特徴である。
 一方で、新左翼を含めた既成左翼からの批判も厳しかった。批判の要点としては、第一に、国家権力ではなく、企業に爆弾を仕掛けたところで革命には至らないということである。第二に、階級的視点である。「狼」の主張に基づく限り、被抑圧階級である労働者それ自体の存在を全否定することになり、労働者革命による革命を否定することになるのである。
 しかし、既成左翼の批判は、的外れでしかないだろう。あくまで、この対立構図に準ずるのであれば、「狼」の論拠の方が闘争として正しい。なぜか。既成左翼は、「企業に爆弾を仕掛けたところで革命には至らない」と裁断するが、そうではない。「企業」それ自体を対象とすることにこそ革命的闘争としての意味があったのである。それこそが、68年5月を経て、70年代に「狼」の誕生を待望した所以だったのではなかったか。

 

 フランス社会党内の少数派マルクス主義集団CERESの指導者であったJ・L・シャルティエは、70年代当時の権力の分節構造の特殊性に注目している。シャルティエの権力構造の分析を確認することは、国家独占資本主義論の揚棄、ブロック・ヘゲモニー概念の提起を試みるものである。

 シャルティエによれば、独占資本の展開は、科学技術の導入による経済過程の操作化を通じて、企業権力を成立させている。そして、生産過程においてだけではなく、流通=分配過程、教育や医療などの労働力の再生産過程においても企業権力を普遍的に成立させている。この権力は、国家権力とは異なり、テレビ・ラジオなどの情報機関、交通諸機関、大学等教育研究機関、医療諸機関などにおいて日常的な諸種の抑圧として機能する。すなわち、こうした諸機関における被抑圧者であるはずの労働者自身が、当の諸機関の利用者を企業権力の操作対象にしているということである。そして、この企業権力の操作総体を法的に保障するのが国家権力である。そのため、権力は、国家権力によってだけでなく、複雑に分節した企業権力によっても構成されていることになる。

 既成左翼は、権力を国家権力(公的権力)の一枚岩でしか捉えられていない。そうではなく、諸種の企業権力において権力を把握することは、企業を含む諸機関の労働者までもが、非集権化を通じて経済過程の制御や諸機関の意思決定に参加する可能性を拓くことなのである。このような現実認識は、冷戦崩壊以降から現在に至るまでの多国籍企業という組織形態をとった生産諸資本の循環過程が、「狼」の思想のようにグローバルとナショナルの次元で展開でしている実情にもアクチュアルなのである。

 

 ところで最近、名古屋入管に収容中に死亡したスリランカ国籍の女性のニュースが報道された。彼女は、「ほんとうに、いま、たべたいです」という言葉を残して死亡したようだ。

 「狼」が、起こした行動を肯定することはできない。しかし、同時に「狼」の思想を全否定することもできない。「狼」の問いかけは、当時よりも露骨に明確に、かつ自覚的に、当時とは異なる形で帝国主義を志向しているのではないだろうか。われわれは、決して「狼」の問いに答えることができていない。われわれは、無自覚の加害者のままであるという自己認識から始めなければ「狼」以後の世界を掴み取ることはできない。天皇制を含めた戦後日本の解体の内実を問わなければならないのである。

『花束みたいな恋をした』(監督:土井裕泰・脚本:坂本裕二)

 終電を逃さなかったら出逢わなかった「かもしれない」ーー。「かもしれない」という複数の可能世界には、新自由主義による中間的な社会領域の喪失が、個人的領域と他者的領域の両者を媒介なく接続されることでリアリティを与える。そして、さらにこの可能世界にリアリティが内在しているように描くには、固有名が現実世界と複数の可能世界とを双方に架橋し媒介することで保証される。山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)から無数に発せられる、押井守天竺鼠、今村夏子、羊文学、きのこ帝国…という固有名の羅列でしかリアリティを把握できないのであれば、それは、「資本主義リアリズム」としての(不)可能性である。そうであれば、本作に対しての批評に必要なのは、資本主義の残酷さを論じるだけではなく、現実世界それ自体の可能性を捉え直すことに他ならない。

 

 終電を逃すことは、労働力の再生産を放棄するに等しい。だが、急進的インテリゲンチャであるはずの大学生にとっては、モラトリアムとして芸術や文学の知識を生産する時間でもあるだろう。終電を逃し、偶然出逢った麦と絹は、居酒屋で朝まで文学や映画などの話で盛り上がる。共通の話題を確認した二人は、その後付き合うことになる。

 二人の口からは、無数の固有名が発せられるが、それが他者にとっての優位性を示すことではない。ある日、麦の部屋に訪れた絹は、本棚を品定めし「ほぼうちの本棚じゃん」と呟く。そして、絹は、自分が所有していない、未読の本ではなく、これまで繰り返してきた愛読書に目を留める。その後のいくつかの場面からも明らかだが、二人は意識的に「同質性」を確認し合う。芸術一般が、社会から「疎外」されていない「かもしれない」と等価性を交換し続けることで同一性を確認し合っているのである。

 

 だが、物語が順風満帆に進むはずはない。「絹ちゃんあのさ、俺、就職するね」の一言で、絹と麦の関係性は急変する。

 新自由主義の時代は、資本が「社会」から撤退する過程である。資本は、社会の「外部」に利益を求め、生産過程から撤退する。「市民社会の衰退」(Michael Hards)において、社会にとって芸術は不必要である。そして、「時間稼ぎの資本主義」(Streeck Wolfgang)には、人的資本だけが残されることになる。実際に絹は、資格を獲得することで事務職に就職する。

 資本の総動員は、終電のように簡単には見逃してくれない。だが二人は、芸術一般が社会にとって不必要だとされていることぐらい薄々勘づいていることだろう。現在の大学では、自己を「惨忍な鈍感さ」で商品化するのであり、かつての「層としての学生」(武井昭夫)の過程は消滅している。

 

 事態が改善することなく、出会いから4年が経った冬、二人は、友人の結婚式に参加する。友人の結婚式にそれぞれ別れる決意を胸に参加した二人は、その晩に、思い出のファミレスで別れ話を始める。絹とは対照的に、麦は結婚をすれば事態が改善するのではないかと提案する。そのとき、二人の光景には、かつての二人を想起させるようなカップルが現れる。それを見た二人は、別れを決断する。

  そして、2020年現在、二人には新たな恋人ができていた。絹と麦は、同じカフェに居合わせ、言葉を交わすことなく店を後にするが、二人は背を向けたまま手を振っていた。

 

 二人が、結婚を拒否したのは、社会的包摂の否定であり、過去における記憶の高次的回復である。かつての二人は、互いの「交通」関係を通じて、疎外を回復した「個体的所有」であると同時に、同一性の調和であった。物語のラスト、二人は背を向けながら無言で手を振る。それは、本作の文脈で表現するのであれば、イヤホンのLとRから流れる音は別々であるが、一つの音楽を形成するように、自己と他者は、非-同一的な存在であるが、転変を繰り返すことで一つの類体となる総過程である。芸術を語っていたときの二人の記憶は、Googleストリートビューにも保存できない高次の記憶である。今日、芸術は、ブルジョアにもプロレタリアでもない小市民であるが、そこに「限界-前衛を担う党」(小泉義之)の萌芽を見出すのである。花束「みたいな」恋とは、決して花束には「なれない」ことがアプリオリとしてあるが、差延することで複数の同一と非-同一が二重化するのである。ラストの二人が、背を向けたまま手を振る場面に、この社会への微光を見出さず、何を見出すのだろうか。

 

『れいわ一揆』(原一男)

 2019年の参議院選挙での、れいわ新選組の躍進は神風が吹いているのではないかと「誤認」させるほどの瞬間風速であった。それは、まさに「れいわ旋風」であり、一定数の市民を熱狂させることに成功したと言えるだろう。

 しかし、成熟した秩序ある中間団体なき、近年のポピュリズム運動(山本太郎は、雑誌のインタビューで自身をポピュリストであることを認めている)は、「陣地戦」(グラムシ)すら慣行することは不可能であり、それはどれだけ「権力をよこせよ」(Youtubeのれいわ新選組公式チャンネル・「山本太郎 街頭記者会見 静岡県浜松市 2019年11月27日」を参考)と叫んだところで「権力」に回収されることは必然である。また、山本太郎は何度も街頭演説で叫ぶ、「たとえ何かを生み出せないとしても生きてていいんだよ」、「あなたには存在しているだけで価値がある」と。だが、そうした「価値」は、新たな資本主義的「使用価値」として再生産される。それが資本主義の論理であり、「美学化」にすらなることだろう。こうした「生きさせろ」(雨宮処凛)的言説は、資本主義に回収されるのであり、闘争の拠点であれ「外部」には足り得ない。

 

 さて本稿では、これ以上れいわ新選組の評価をすることを目的とするのではない。本作は、2019年の参議院選挙にれいわ新選組から出馬した安冨歩を中心に物語が展開していく。彼女が、一貫して訴えるのは「子どもの未来を守ろう」ということである。彼女の選挙活動のスタイルは、記号化した都市を馬と共に遊歩することで「異化」効果を発揮し、街頭演説でも「子ども」と積極的に対話をすることを特徴とする。

 本稿では、「子ども」という存在に着目することで、「子ども」と政治という関係性に一考察を与える。それは、現在の政治が患っている「病」を明らかにすることでもあるだろう。

 

 いまや「子ども」という存在は、「聖域」として捉えられている。それは、歓待すべき「未来の他者」であり「倫理の起源」である。「子ども」という絶対的他者が、有限的個体としての死を超越し「類的人間」(小泉義之 2019:17)として生存する。そのような未来が、責任を生成させるのである、と。そして、ここから来るべき急激な人口減少は「国の将来にかかわる大きな問題」(厚生労働省統括官 2017)として少子化対策不妊治療(生殖補助技術利用)への助成制度の公的施作が進行していくことになる。一方で、公権力と関係的プライバシー権との関係性は、熟慮しなければならない観点である。そのような関係性を踏まえ、野崎亜紀子は、リベラルな法体制のもとで、なお個人が公共的価値、少子化問題の克服に貢献する責務として次のように言及している。

 

子との関係で特別な関係者である親は、自身が生きる社会のなかで、その構成員として親である自分たちが享受する社会生活を送るうえでの権利(いわゆる市民権)を、その子もまた承継し、それを自律的に使いこなす能力が得られるよう保護監督する責務を有している。この責務を果たすために、親は子に対して自らの権限を行使するのであり、このことは親の権限のなかに組み込まれている、と解すべきであろう。特別な関係にある親が子に対して有する片務的負担の根拠はこの、承継される役割としての責務にあると考えられる。(野崎亜紀子, 2019, 「子どもをもつ権利ーー生殖とリベラルな社会の接続を考えるために」pp.125-126.)

 

野崎によると、リベラリズムを支えるこうした一見すると非リベラルな観念である「承継」に関しては、リベラリズムの再検討に際して規範的検討を要するものだとしている。だが、こうした「継承」はどこまでの正当性を与えることが可能だろうか。それは、親(=大人)が子に投影する予測可能で理想とする未来であり、その「未来の他者」とは「大人」のことに過ぎない。1970年代以降のヨーロッパにおいて「再生産」という概念は、生物学的「有機体」の生殖過程の意味に活用され、そのような場として「市民社会」を提示する潮流があった。それは、まさに「子ども」が資本化の中で再生産されるだけであり、「資本主義の子ども」しか産まない。

 こうした虚偽意識としての「生殖未来主義(reproductive futurisimi)」(リー・エーデルマン)の領域の外部として想定されるのは、LGBTQ当事者によるマイノリティの意見である。だが、基本的にマイノリティ側の意見をマジョリティ側に反映するのであれば、それはマイノリティ側にあって複雑で様々な対立関係を隠蔽され、マジョリティ側に同化するだけにとどまることだろう。それは新たなマイノリティを再生産し、同じ事象を反復するだけである。それは、子どもを所有したいという異性愛者の欲望が、同性愛者の欲望と同型として反復している。

 

 ところで、かつて山本太郎(れいわ新選組)はインタビューで「天皇」について次のような発言をしている。

 

こう言うと、山本太郎にも右派的な要素があるのか、と思われるかもしれないが、(今の上皇には)お父さんのような感じを抱いています。私が母子家庭で育ち、家には父親がいなかったから、父性的なものを求めているというのはあるとは思います。過去にあった戦争の戦地をを回ったり、災害があれば現地に駆け付けたり、被災者を励ましたりしている。それは自分の中にあるお父さん感、父性を満たすものです。(『Newsweek日本版 2019.11.5 山本太郎現象』p.30)

 

山本太郎にとって「天皇」とは「民主主義の最後の砦」なのだろう。無論、それは山本太郎に限った話ではなく、他の政党であれ市民にも言えることであり、「大衆天皇制」(松下圭一)からの連関性である。「戦後天皇制」から産み落とされた「天皇の子ども」たちは、まさに「聖域」であり、「未来の他者」を信仰する。「天皇」を殺すことは、「天皇の子ども」たちにとって過去ー現在ー未来をなくすことでもあるだろう。だが、このような「死」があってこその倫理ではないだろうか。「象徴天皇制=父」は「聖域」として機能していると同時に「天皇(制)」と「資本主義」は補完的関係である。「〈物自体としての他者〉」(柄谷行人)にとって、「聖域としての父」の「死」をもたらした後の「未来の子ども」たちは、「彼方」から「聖域」として現出するのである。

 

『空に住む』(青山真治)

 青山真治の作品は、『Helpless』・『EUREKA ユリイカ』・『サッド ヴァケイション』の”北九州三部作”や『共喰い』、あるいは『チンピラ』や『WiLd LIFe』におけるヤクザとの闘争に巻き込まれることに象徴的なように「土着性」、「血縁」がどこまでも回帰することが一つの特質だと言えよう。

 本作は、こうした青山の特質を切断している印象を与えるかもしれない。しかし、それは、本作においても連関している。冒頭において家族との離別理由が判明後も、「東京」という土地であれ、それはある種どこまでも逃げ場のないマンション内を、あるいは5インチ四方のスマホに表象されるInstgramを循環するように回帰してくる。

 かつて東浩紀は、デリダ的な脱構築を「郵便的」と指摘した。それは、非世界的存在を認めない形而上学と、非世界的存在を一つだけ認める否定神学への二重の抵抗を図っており、非世界的存在が「郵便空間」において複数認められる(東浩紀 1998:164-165)としている。それは、宛先不明の手紙が「誤配」されるかもしれないという可能性に存在する空間である。

 本作の舞台となる「東京」、あるいは本作でも表象されるInstagramのようなSNSは「誤配」される空間ではなく、いまや「閉鎖」的で「土着」的な空間に過ぎない。それは、「接続過剰」から「切断」を試行したところで無限に「接続」されてしまうのであり、ナルシシズムな他者しか現前することはない。そのような「自閉した身体」を拡張したところで、盲目的な倫理なき暴力を発露してしまう。本作を鑑賞すれば、直美(多部未華子)と明日子(美村里江)の関係性のように、それはいくつか確認することができることだろう。この点が、過去の青山作品と本作の決定的な「切断」ではないか。いわば、それは「閉鎖」的で「土着」的だが、「無責任」な「血縁」とでも言えようか。

 

 さて、「空に住む」とは、空に近い高層マンションの高層階に住むだけではなく、「空」虚な世界に「住」まざるをえないことを表現しているのだろう。直美と同じマンションに住み、後に直美と関係をもつ俳優の時戸森則(岩田剛典)は、度々「虚しい」発言をする。また、直美と森則の「夢」のような時間も意識的に現実か虚構か不明瞭ーーというよりは現実に引き戻すーーにするためのカット割にもしている。そして、直美は地方の出版社で小説の編集者として働いていることからも現実/虚構の対立軸を強調している。無論、「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)という事象を前に、大衆から「文学」の価値は離れざるをえないのであり、「空虚」なものにならざるをえないことだろう。


 直美は、両親と離別したときも泣くことは「なかった」ことを自省している。だが、職場の妊娠している後輩が、道端で「破水」≒涙したときは、感情をあまり出さない直美が声を荒げ怒鳴る。直美は、死者=過去よりも、来たるべき「他者」=未来=「水平」と「垂直」の連関点を見据えているようだ。


 「未来が閉じていると想像するや、不可能な外部は死の別称となる」(小泉義之)ことだろう。ラスト、部屋から一面に広がる東京の景色を眺めながら、直美は「背伸び」をする。それは、どれだけ伸びようとも「地に足がついている」はずだ。鬱蒼とした東京の「空」は、微かにきたるべき「未来」を斜光で照らしている。

『スパイの妻』(黒沢清)

 黒沢清の映画では、たびたび内面の「空白性」が描かれている。福原優作(高橋一生)と聡子(蒼井優)の関係性においてもその萌芽は見て取れる。だが、この「空白性」から生じる「言語化不可能」、「理解不能」という解釈こそ黒沢映画の特徴でもあるだろう。いわば、それは黒沢自身の出発点ともなったホラー映画的表現を借用するのであれば「亡霊」的とも言えるだろうか。そもそも映画は「内面」の表象不可能性を帯びる表現装置であり、映像の具体的身体性にのみによって人間の営為は表象される。だが一方で、解釈不可能性を帯びるからこそ現実の絶妙なリアリティを発現し、どこまでも「亡霊」は回帰してくる。物語が進むにつれ優作と聡子の関係性が、どこか狂気じみながらも、スクリーンから外化された現実世界に侵略することも何ら不思議なことではない。

 

 本作における「スパイ」とは、「共産主義者」のメタファーなのだろう。それを示唆するかのように優作は、「僕はコスモポリタンだ」と発言している。戦中期という特殊な時代に国家に叛逆し、「正義」のために邁進する二人の姿は、小林多喜二などの共産主義者が「非転向」を慣行した姿と相似的である。

 また、本作を「夫婦の物語」と評するのは不適当と言えるだろう。「夫婦」というよりは、聡子は優作との幸福を追求していたと言えるかもしれないが、優作はどうか。優作は、家族という存在を否定するかのような印象をどことなく与えるのだ。「子供のいない夫婦」(佐々木敦)を描くのは、近年の黒沢清映画の特筆すべき点だが、本作ではさらにその点を発展させている。いわば、それは「無所有という所有」(マルクス)という不気味な家族像なのである。

 

 さて、しかし本作における歴史観には一定の批判が存在するようだ。まず、「帝国主義日本では日本人による反日の運動は現実には起こらなかった」(『映画芸術 473』「スパイの妻ーー良心的歴史修正主義を逆なでする」を参考せよ)のだ。であれば、本作は今日にも見られるような都合の良い歴史修正主義的作品であり、「「映画」らしい映画」に過ぎないのではないか。しかし、本作にはそうした歴史修正主義的経験を、さらなる「経験」に転回する余地が存在する。


 映画のラストスパートは、「戦後民主主義の虚妄に賭ける」(丸山眞男)かのように、スクリーンから外化されたわれわれに無数の「亡霊」が回帰してくる。ここで、再度「黒沢清による黒沢清論映画」(佐々木敦)であることを確認させられる。ラスト、聡子は一人、浜辺をよろめきながら駈けてくる。水平線から打ち寄せる波を背景に「1945年8月 終戦」の字幕が重ねられる。「8月革命説」(宮沢俊義)による戦後というパースペクティブは、水平線の彼方に「アメリカ」という意識を規定することだろう。だが、聡子が関東軍731部隊の存在や帝国陸軍満州で行っている所業を研究ノートや記録映像の内部でしか知ることはなかったように、現実はその「外部」に存在するのだ。であれば、映画内の出来事を映像の「外部」で経験している自ー他者に、その責任が生成されるのである。

『カリスマ』(黒沢清)

 冒頭の徹夜続きの警察官である藪池(役所広司)の風姿がこの社会の「法則」を物語っているかのようだ。われわれは「労働力の所持者」(マルクス)であれ、労働の形式的従属・包摂は実質的に転化し「賃労働者がその固有性ー属性を失いつつある」(沖公祐)のであり「サーバント」化は免れないことだろう。いわば、資本から「疎外」=「物象化」されることは明瞭の論理であり、この社会は「刑務所」に等しい。

 

 警察官である藪池は、青年が起こした立て篭り事件で犯人と人質の両方を殺害してしまう。そこには青年の「世界の法則を回収せよ」という置き手紙が残されていた。

 心身共に深傷を負った藪池は、上司から休暇を明け渡され、とある森で「カリスマ」と呼ばれている木と出会う。だが、一本の「カリスマ」を巡って対立する闘争に巻き込まれることになる。

 対立の経過で、森全体か「カリスマ」のどちらかしか救えないことが判明する。そこで藪池は「両方救えないのか」と、あまりに純然で素直な発言をする。だが、われわれは何処か疾しさがありながらも「両方救えない」と決断し、「か」という疑心を斥けているのではないか。いわば藪池の発言は、現在も進行中の新型コロナウイルス禍におけるトリアージ問題や功利主義批判への一つの解答だろう。きたる自民党総裁選に出馬した菅義偉の「自助・共助・公助」発言のように、ケインズ・ベヴァレッジ型の国家介入とは異なる介入主義的国家、あるいはフーコーが『生政治の誕生』で聡明に洞察したように、市場を原理とする経済が自由主義の統治技術の延長上に国家介入を強化するとしたように、新自由主義以降に顕著な自由であり「不自由」な、無責任な「決断主義」への批判である。小泉義之は、ジョン・ハリスやレヴィナスの論考を徹底的に批判して次のように言う。

 

結局のところ、多くの生命倫理学者と同じく、ハリスにしても、誰かの生命を救うということを考えるときに、馬鹿げた想定を立ち上げながら、どうあっても犠牲の構造を導入しないと、何かを考えた気持ちになれないのである。これに対して、私は、人間の肉体を共有材と考え人間の必要性に応じて肉体を再分配するという「一般原則」から、犠牲の構造を引き算するべきだと考えている。(小泉義之, 2006, 『病いの哲学』筑摩書房, p. 135)

 

小泉は、ハリスやレヴィナスの論考は部分的で差別的であると斥ける。小泉は、徹底的な平等主義的観点から「人間の肉体は共有物であるとするポジション、人間は共に生き延びるべきであるとするポジション以外にありえない」(同上, 136)としている。いわば、一人を犠牲にできる社会は、全員を犠牲にすることが可能な社会であることへの応答である。

 

 一本の「カリスマ」を巡って様々な思惑によって求心的に作用する様相からも「カリスマ」とは「資本(家)」のメタファーなのだろう。神保美津子(風吹ジュン)が「他の植物がカリスマを拒絶するどころか惹かれ合う様にして(中略)麻薬でも打たれているかのように」と発言しているように、商品世界の「物神性」を体現している。そのため、そこから「疎外」されざるをえない人々は「疎外論」(=人間・自然主義マルクス主義)の立場を表明しているかのようである。疎外論は「本質からの疎外」という問題構成を取る、つまり人間という抽象的な「本質」を前提としている。だが、その「本質」は存在するのだろうか。「先験的な故郷喪失」(ルカーチ)ーー「カリスマ」が存在する森が「東京」の近隣であることは象徴的だーー、あるいは党の表象=代行機能は失墜しているのだから「ロマン的イロニー」でしかないだろう。神保美津子と娘の千鶴(洞口依子)がどれだけエコロジストを標榜し農本主義に回帰しようとも、それは「ない」のである。

 

 また「カリスマ」が一時的に喪失するなどにつれ森の秩序が乱れることから「カリスマ」とは、「天皇(制)」のメタファーであることも表象している。無論、「資本」と「天皇(制)」は相互補完的関係である。中島一夫は「天皇(制)」について次のように言及している。

 

だが、疎外が決して解消されないことは、ほかならぬ「天皇」の存在が示している。「天皇」とは、民衆の疎外が集積された「もの」だからだ。現在は、市民社会という擬制が弱体化し、その破れ目から「疎外(論)」が露わになっているので、それに即応して、にわかに「天皇(制)」が顕在化し主題化されているのである。「天皇」は疎外が解消されない証であり、「天皇制」とは半封建の残存ではなく、資本主義ー市民社会そのものが(半)封建的でしかないことを隠しきれていない「尻尾」である。それは、商品の物神性が、あるいは同じことだが、支配と隷属の関係からくる「疎外」がスライドした「もの」であり、資本主義が進行しても自然に解消されたりはしない。(中島一夫, 2020, 「疎外された天皇ーー三島由紀夫新右翼」『三島由紀夫1970』河出書房新社, p. 118)

 

 天皇とは空虚な「もの」である。物語の後半につれ藪池は二本目の「カリスマ」を発見する。「カリスマ」を孤独に守ってきた桐山直人(池内博之)は、「これ何の意味があるんだ」、「俺にはわからない」と不意に呟く。結局、美津子によると二本目の「カリスマ」は「偽物」であり、「ただの枯れ木」と判断される。だが、「カリスマ」とそれ以外の境界とは一体何か。言うまでもなく、それは戦後民主主義における象徴「天皇(制)」にも当てはまることだろう。

 

 藪池は一貫として「カリスマ」に参与する両陣営のどちらにも属すことはなかった。どこまでも中立性を保持するのは「まれびと」(折口信夫)的存在だからだろう。

 終盤、藪池は「カリスマ」を爆弾と銃で破壊する。藪池は、美津子に「これからが始まりです」と発言する。ここで「天皇」=「王殺し」が完了したことを示している。

 ラスト、藪池は森にある山の山頂から遠方に見える「東京」を静かに見つめている。「東京」は災害か、あるいは暴動による事件かで真っ赤に染まっている。それは「王殺し」ゆえの一時的なアナーキーの現出であろう。上司との電話で藪池は「今からそっちに向かいます」と静かに語る風貌は、疑いもなく真の「カリスマ」であり、世界の「法則」を回収するための「はじまり」である。

 

 

 

 

 

 

『アカルイミライ』(黒沢清)

 皮肉なタイトルだ。「アカルイミライ」が将来待っているはずだと心底から信じることなど可能だろうか。それは、あまりにニヒリストだと批判するかもしれない。だが、オプティミズムに信仰することがそれ以上にニヒリズム的であり、「再帰的無能感」に苛まれることだろう。また「アカ」=共産主義の「ミライ」が存在しないことも1956年のスターリン批判以降、そして1989/1991年以降の冷戦崩壊以降において瞭然たる史実であることは疑いようのないことだ。いわば、本作のタイトルは二重構造的に「ない」という否定性が内在している。

 

 仁村雄二(オダギリジョー)は、漠然とした焦燥を抱えながらも東京のおしぼり工場で働いている。同僚の有田守(浅野忠信)は、雄二が唯一心の許せる友人だ。

 かつての新左翼におけるローザやトロツキーの機動戦中心主義、三島由紀夫楯の会事件は「軍隊」、あるいは「暴力」が国家権力に包摂されていくことの証左であった。その後の「新しい社会運動」(アラン・トゥレーヌ)は、「中ソ論争」のなかで導入されたフルシチョフやトリアッティ(イタリア共産党)の「平和共存」=「構造改革」路線、グラムシ主義=「陣地戦」との連関性である。そこでは「市民社会」的運動であり、ロマン主義的な「情念」や「暴力」は回避している。

 だが、「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)という実情を前に、「暴力」の問題がいつ回帰しても不思議な話ではないだろう。雄二が弁当屋で不条理に客を殴ることも、そして守が、全共闘から転向して社会に溶け込み、幸せな家庭を築いている勤務先の社長=全共闘世代(笹野高史)を含む家族を殺害することにも何も驚くことではない。それは「法」=「父」という制度のもとで抑圧されているに過ぎないからだ。しかし、それらが機能不全に陥ればーー守と父親(藤竜也)の関係性のようにーーどうなるかは明瞭だろう。雄二は、禁欲主義的にゲームセンターの似非の「銃」を乱射することで耐える。だが、そうした頽廃的なゲームは終わりにしよう。

 

 逮捕された守は、雄二に託した「アカ」クラゲの飼育方法を徹底的に教える。雄二は、守の言動に不可解さを隠しきれない。ある日、雄二は水槽を倒してしまい「アカ」クラゲを床下に放流してしまう。その後、守は刑務所内で自殺をする。

 守の死後、雄二はリサイクル業を営む守の父親と出会い、労働をしながら共同生活をする。しかし、守に託された「アカ」クラゲの飼育を巡って対立することになり雄二は、守の父親のもとから離別する。

 

 離別後、雄二は真夜中のゲームセンターで男子高校生たちと知り合う。彼らも漠然とした焦燥、「アカルイミライ」など「ない」ことを了知しているのだろう。彼らとの対話のなかで雄二は、自らを「頭おかしいの」と発言し、彼らは「俺らと一緒だ」と叫ぶ。

 彼らにとって、学校とは「規律/訓練」(ミシェル・フーコー)の場であることを放棄していることを察知しているのだろう。社会は高等教育された「市民」を必要としていないのであり、「抽象的人間労働」によって「労働価値説」を体現できないことを発露しているからだ。だからこそ、彼らと雄二は深夜に企業=資本に侵入することで暴れ回る。しかし、彼らには国家権力=警察と対峙するための「武器」=「銃」=「軍隊」、あるいは「戦争機械」(ドゥルーズ=ガタリ)もなければプランもないため、すぐに警察に確保されてしまう。それは、一種の祝祭性であり、「権力を取らずに世界を変える」(ジョン・ホロウェイ)というアナキズムと民主主義的な手続きしか想像=創造できない左翼の病理であり、ポスト・ポリティカルの現実である。

 

 その後、雄二は守の父親が経営するリサイクル店へ戻る。泣きながら「ここに居ていいよね」と懇願する雄二は、この社会は「再生産」=「リサイクル」していくしかないことを追認する。守の父親は、何度も「許す」、「ずっとここに居ていいよ」を繰り返す。ここで雄二にとってーー作中で雄二の父親は登場しないーー擬似の「父」が生成されることになる。いわば、雄二は「この」社会で生きることを決意したとすることができるだろう。

 一方で、雄二が放流した「アカ」クラゲは東京のいたるところで繁殖していた。だが、「アカ」クラゲは東京から撤退を始めている。東京=資本の中心では、どれだけ「真水」を投入したところで「アカ」クラゲは生存することはできないのだ。無論、経済的な「真水」も同等である。東京という大都市に限らず「時間稼ぎの資本主義」(シュトレーク)に過ぎないことの発現である。

 

 ラスト、かつて雄二と知り合った高校生たちが同質のゲバラTシャツを着て道路を歩き続ける。彼らは何を推い、どこに向かい歩いているのだろうか。彼らにとって「ミライ」とは「いま・ここ」という現前だけである。彼らは、舗石=秩序を引き剥がすこともない。彼らには、資本主義的生産で「ゴミ」となったものを「リサイクル」して生産された道端の段ボールを蹴り上げることが限度であろう。彼らに残されたのは「誤認」によって見続ける「ユメ」だけである。