水平線

研究と批評.

2019-01-01から1年間の記事一覧

裂傷

スーパーに並んだ無数の自転車も僕のだけはなんだか一人ぼっちだ。交感もしない無機質な〈もの〉に生成できるならどれだけ幸福なのだろう。美しくも陰鬱な言葉を覚えてしまったから、僕は、あなたを傷つけてしまう。 群青に浮かぶ真っ白な雲が僕を洗い流しそ…

左派ポピュリズムとプロレス

今でも鮮明に覚えているーー。七月某日、つまらない老教授の講義を終え、毎日のルーティンのように決まった味のチェーン店の人工的な牛丼をかっ食い、急いで阪急線で梅田へ向かった。二年前に電車で倒れて以来、新快速や特急の電車は予期不安に襲われるが、…

『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ)

かつてデカルトは、動物=機械説においてアリストテレス自然学を否定し、比較する主体は、比較される客体に内在しているが、比較過程を通じてその内在性が捨象され、「自然の主人にして所有者」が確立されるとした。 しかし、ポストモダンという事象が進行す…

『ジョーカー』(トッド・フィリップス)

真理の不在、またはユートピアの欠如。パラノ的「あな」ではなく、スキゾ的複数の「あな」の周縁を回遊する。有限的な貧しい生、半端な到達点。「現実界」のリアルの「リアル」に慄いた極点としての結節点はいかなる風景か。絶対的な恐怖とは、何よりも美し…

あいちトリエンナーレ2019 ーー「表現の不自由展・その後」試論

あいちトリエンナーレ2019「情の時代」内の企画展「表現の不自由展・その後」は、開催から3日足らずで中止に追い込まれる事態となった。政治的プロパガンダにしか見えないとされた作品に検閲や弾圧、市民からの抗議が殺到し、止むを得ずの判断だった。しかし…

『生きてるだけで、愛。』(関根光才)

「生きてるだけで」なんて簡単に言えない。その生きる「だけ」がどれほど困難な社会なのだろう。寧子(趣里)のように躁鬱による過眠症は、なかなか他者に理解されることはない。そんなものは甘えだ、楽しければ治るよ、と。だが、「生きる」ことを生きる「…

『ファイト・クラブ』と『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー)

映画が、作品のどこかでリアリズムを帯びるのであれば、それとも「世界は概念で出来上がっているから、作品は否応なくリアリティを有してしまう」(小泉義之)のであれば、デヴィッド・フィンチャー監督による『ファイト・クラブ』(1999年)と『ソーシャル…

擬制としての平和主義

戦後の日本は、「平和」・「民主主義」というメルクマールを標榜し現在まで歩み続け、これからも「平和主義」国家として歩み進めようとすることだろう。しかし、昨今の第二次安倍政権での特定秘密保護法案や集団的自衛権の行使の容認、そして憲法九条改憲案…

『天気の子』(新海誠)

『天気の子』は革命の映画である。ここで言う革命とは、新海誠が切り開いた世界観が革命的などと噴飯ものの意味ではない。冷戦崩壊以降のグローバル資本主義が支配する世界に抗して「革命」を試みる作品として革命的な映画なのである。 『天気の子』で描かれ…