水平線

研究と批評.

映画

『ニトラム/ NITRAM』(ジャスティン・カーゼル)

「でも、気がくるっている人のところには行きたくないです」とアリス。 「そりゃあ、しょうがないだろう」とネコ。「ここじゃあ、みんな気がくるってるんだ。おれもくるっている。君もくるっている。」 「どうしてわたしがくるっているってわかるんです?」…

言葉と身体の臨界ーー濱口竜介論序説 ①

我々の世界は映画である。我々は映画としての世界に住み着いている。いや、正確に言わねばならない。映画の登場人物たちはその映画の中に住み着いているのではなく、取り囲まれ、貫かれ、配置され、話させられ、見させられるものとして取り込まれている。我…

『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介)

濱口竜介の作品は、いつも物語の「先」、あるいはその「外部」を求めてしまう。『ハッピーアワー』(2015)のラストが、神戸を旅立った純(川村りら)を乗せた船が水平線を航海しているショットで終わるのであれば、『寝ても覚めても』(2018)は、丸子亮平…

『キャラクター』①(永井聡) 

リアリズムが作品のどこかに表象されることによっての経験がリアリティを与えるのか。あるいは、フィクション内におけるリアリズムが、現実世界の「リアリズム」を形成しているのか。このような問いは、あまりに馬鹿げていると、あるいはそのような問いは成…

『花束みたいな恋をした』(監督:土井裕泰・脚本:坂本裕二)

終電を逃さなかったら出逢わなかった「かもしれない」ーー。「かもしれない」という複数の可能世界には、新自由主義による中間的な社会領域の喪失が、個人的領域と他者的領域の両者を媒介なく接続されることでリアリティを与える。そして、さらにこの可能世…

『れいわ一揆』(原一男)

2019年の参議院選挙での、れいわ新選組の躍進は神風が吹いているのではないかと「誤認」させるほどの瞬間風速であった。それは、まさに「れいわ旋風」であり、一定数の市民を熱狂させることに成功したと言えるだろう。 しかし、成熟した秩序ある中間団体なき…

『空に住む』(青山真治)

青山真治の作品は、『Helpless』・『EUREKA ユリイカ』・『サッド ヴァケイション』の”北九州三部作”や『共喰い』、あるいは『チンピラ』や『WiLd LIFe』におけるヤクザとの闘争に巻き込まれることに象徴的なように「土着性」、「血縁」がどこまでも回帰する…

『スパイの妻』(黒沢清)

黒沢清の映画では、たびたび内面の「空白性」が描かれている。福原優作(高橋一生)と聡子(蒼井優)の関係性においてもその萌芽は見て取れる。だが、この「空白性」から生じる「言語化不可能」、「理解不能」という解釈こそ黒沢映画の特徴でもあるだろう。…

『カリスマ』(黒沢清)

冒頭の徹夜続きの警察官である藪池(役所広司)の風姿がこの社会の「法則」を物語っているかのようだ。われわれは「労働力の所持者」(マルクス)であれ、労働の形式的従属・包摂は実質的に転化し「賃労働者がその固有性ー属性を失いつつある」(沖公祐)の…

『アカルイミライ』(黒沢清)

皮肉なタイトルだ。「アカルイミライ」が将来待っているはずだと心底から信じることなど可能だろうか。それは、あまりにニヒリストだと批判するかもしれない。だが、オプティミズムに信仰することがそれ以上にニヒリズム的であり、「再帰的無能感」に苛まれ…

『寝ても覚めても』(濱口竜介)

甘美でどこか頽廃的な美しい夢。人は誰しも忘れることのできない恋愛を経験している。罪の意識から新たな恋愛ができない人、過去の恋愛を忘れ去るために順次と恋愛に励む人。そこには無数の物語が存在する。だが、それらの経験は過去の記憶における中心的事…

『パラサイトーー半地下の家族』(ポン・ジュノ)

ポン・ジュノは、社会が不可視にしようとする「暗部」を象徴的に描くことを度々する映画監督だ。『殺人の追憶』の用水路やヒョンギュが暗いトンネルの奥へと消えるシーンや『グエムルー漢江の怪物』の下水道などが挙げることができる。そして、『パラサイト …

『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ)

かつてデカルトは、動物=機械説においてアリストテレス自然学を否定し、比較する主体は、比較される客体に内在しているが、比較過程を通じてその内在性が捨象され、「自然の主人にして所有者」が確立されるとした。 しかし、ポストモダンという事象が進行す…

『ジョーカー』(トッド・フィリップス)

真理の不在、またはユートピアの欠如。パラノ的「あな」ではなく、スキゾ的複数の「あな」の周縁を回遊する。有限的な貧しい生、半端な到達点。「現実界」のリアルの「リアル」に慄いた極点としての結節点はいかなる風景か。絶対的な恐怖とは、何よりも美し…

『生きてるだけで、愛。』(関根光才)

「生きてるだけで」なんて簡単に言えない。その生きる「だけ」がどれほど困難な社会なのだろう。寧子(趣里)のように躁鬱による過眠症は、なかなか他者に理解されることはない。そんなものは甘えだ、楽しければ治るよ、と。だが、「生きる」ことを生きる「…

『ファイト・クラブ』と『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー)

映画が、作品のどこかでリアリズムを帯びるのであれば、それとも「世界は概念で出来上がっているから、作品は否応なくリアリティを有してしまう」(小泉義之)のであれば、デヴィッド・フィンチャー監督による『ファイト・クラブ』(1999年)と『ソーシャル…

『天気の子』(新海誠)

『天気の子』は革命の映画である。ここで言う革命とは、新海誠が切り開いた世界観が革命的などと噴飯ものの意味ではない。冷戦崩壊以降のグローバル資本主義が支配する世界に抗して「革命」を試みる作品として革命的な映画なのである。 『天気の子』で描かれ…