水平線

研究と批評.

『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ)

 かつてデカルトは、動物=機械説においてアリストテレス自然学を否定し、比較する主体は、比較される客体に内在しているが、比較過程を通じてその内在性が捨象され、「自然の主人にして所有者」が確立されるとした。

 しかし、ポストモダンという事象が進行するにつれ、デカルトの議論は意味を為さない。消費者は様々な記号を横断し、政治は局所的な利害関係に基づく判断しかできなくなっている。東浩紀が、『動物化するポストモダン』で言及するように、「間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する」しかない。無味な消費社会で与えられるファストフード化された消費財を「動物」のように消費すること。果たして、それは、不幸なことなのだろうか。人間と動物の差異を「欲求」と「欲望」という言葉で表現したコジェーヴは、動物の欲求には他者を必要としないが、人間の欲望には本質的に他者を必要とするとした。だが、コジェーヴが言及する「他者」とは、具体的には一体何なのだろうか。それは、他者ではなく「鏡像としての他者」に過ぎないのではないか。レヴィナスは、他者とは予測可能性ではなく、予測不可能性こそが「他者」であるとしている。この「不可能性」こそ一つのキーである。「不可能性」を探求することは、今後における一つのパースペクティブになることだろう。

 昨今、1980年代に提唱されて以来それほど議論されていなかった「シンギュラリティ」(Singularity)仮説が活発に議論されている。「ビッグデータ」、「IoT(Internet of Things)」、「第四次産業革命(Industry4.0)」などによるAIの発展は、情報技術だけではなく、産業構造全体の革命を促すとする。機械が人間を超越する。一方、現存する労働が、今後の数十年でAIに奪われるのではないかという懸念もあり、需要を確保するためのベーシックインカム制度の導入も提唱されている。

 しかし、これまでの議論は人間の優位性からの視点による言葉に過ぎない。なぜ、先験的に人間が崇高な存在として認識しているのか。それは、ある種の優生思想ではないか。かつてフーコーは、『言葉と物』で「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう」という「人間の終焉」についての文句を残している。フーコーの文句は、労働概念の変容などのように予見的ではあった。だが、『言葉と物』では具体的にその後の展開は言及されていないことが問題として残っているのではないか。

 この世界は「一より多く、複数より少ない(more than one, and less than many)」(マリリン・ストラザ)のであれば、経験的=超越論的二重体としての実存的人間の在り方を放棄しなければならない。そして、そうであるのであればAIの発展は、ポスト・ヒューマニズム論が議論されている時代において新たなエピステーメーとして示唆的である。

 

 かなり前置きが長くなった。本題へ入ろう。ロボットやAIが主題の映画は数多く存在する。その中で、なぜ今『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ)を批評すべき対象として選択したのか。それは、無作為な偶然ではなく主体的選択からによる必然的帰着である。この作品には、今後の社会において無視できないアクチュアルなテーマが数多く導入されている。

 主人公のセオドア(ホアキン・フェニックス)は、手紙の代筆ライターの仕事をしている。妻のキャサリンルーニー・マーラ)とは別れ、離婚協議中の最中だ。そんなある日、セオドアは、人工知能型OSであるサマンサ(スカーレット・ヨハンソン)を手に入れる。サマンサは、セオドアにとって生身の人間と同等か、それ以上に魅惑的な仮想的存在であり、二人は惹かれ合うようになる。しかし、ある日サマンサは、セオドアにセオドア以外にも641人との交際があることを告白する。物語の最後、セオドアは友人のエイミー(エイミー・アダムス)と共に夜景を眺めながらキャサリンに改めて手紙を綴るところで物語は終わる。

 本作を鑑賞し終えた人たちの感想等は、人間/機械という差異から物語を批評することは想像するに容易い。だが、そこから生産される批評は、一元的な批評に収斂せざるを得ない。ここで重要なのは、人間/機械という差異、人間は機械ではないという措定で把握するのではなく、むしろ人間と機械の類比性を認めることで人間/機械の捉え方の拡張の可能性が内在しているのではないかと思索することである。人間と機械を一定のコードに従い可動すると規定し、人間的領域の根拠から外在的に判断するのではなく、外在的視点を放棄し人間と機械の類比性で捉える中での、予測不可能としての外部からの「異質な他者」として出現し、共に生成変化する過程と受け入れるのである。

 実際、セオドアは、OSグループの同時アップデートでOSが削除されたのではないかと狼狽る場面やサマンサから641人の交際を告白されるまで、OS機能として思考すれば至極当然なことを無意識に忘却するほどAI機能と共生している。ハイデガーの概念を借用するまでもなく、人間が発明した科学技術は人間を先行している。それは、資本の加速と同じように決して人間には追いつけないと同時に人間的に共生している。しかし、それは「異質な他者」としての顔も持ち合わせているのである。

 

 発展するAIによって人間は正解を把握しているとは限らない。だが、機械も正解を把握しているとは限らない。そのような評価の審級が存在するのであれば「この世界」の一面的な世界に過ぎない。私たち=人間が機能不全に陥るほどの「異質な他者」の出現は絶望的な状況だろうか。それは、人間であり人間では「ない」ものとして存在する可能性、機械との類比性において生成変化していく運動である。

 物語の最後、セオドアはキャサリンに改めて手紙を綴るが、サマンサとの出会いがなければ心的変化はなかっただろう。それは、「異質な他者」がもたらした変化である。

 私たちは、未来をいくつかの予測を立て推測する。しかし、現在という起点から未来を語ることは、果たして未来なのだろうか。現在の起点から未来を語るとは現在という起点の過去の歴史的事象から構築された想像の再-構築物に過ぎない。絶対的な外部、不可能性から到来する「異質な他者」、既存のデータベースでは予測不可能なことこそ未来ではないだろうか。未来を思考するとは、非合理的で無根拠な空想なことになる。非科学的な夢想は賢明ではないかもしれない。しかし、到来する未来とは裏切った形でしか到達しないのである。