水平線

研究と批評.

『寝ても覚めても』(濱口竜介)

 甘美でどこか頽廃的な美しい夢。人は誰しも忘れることのできない恋愛を経験している。罪の意識から新たな恋愛ができない人、過去の恋愛を忘れ去るために順次と恋愛に励む人。そこには無数の物語が存在する。だが、それらの経験は過去の記憶における中心的事象の表象化=再現前化である。全ては、それへの演劇化に過ぎない。かつての忘却することのできない耽溺な「夢」の上演=再現性である。

 

 朝子(唐田えりか)が、大阪・国立国際美術館で開催されていた「牛腸茂雄 Self and Others」展を鑑賞するところから物語は始まる。その帰途、同じ空間で鑑賞していた麦(東出昌大)と言葉を交わすことなく不条理に付き合うこととなる。決して映画は、現実の鏡像ではない。映画に内在する現実性が現実の現実性を発現しているとも限らない。だが、現実と虚構世界の断片が交差する瞬間を共有することがなければ、それは稚拙で退屈な印象を拭えないことは確かだろう。

 恋愛における自ー他(Self and Others)の関係性は恣意的な主観性の産物に過ぎない。対象の愛する理由を言葉で説明すればするほど、それはどこか嘘っぽさを纏うと同時にトートロジーに帰結するしかない。脆く、儚くーー作中の「爆竹」のようにーー綻びる運命でしかないだろう。それは、複数の他者との対比の中から選別された性質が愛する原拠とするからである。だからこそ、朝子と麦の交際の生起は言葉を介在することはなかった。それは、一見すると不条理演劇のようであるかもしれない。だが、むしろ自ー他における魅惑のリアルさとはこちらではないか。疎外されることのない「唯一者」であり、有限の経験的な他者から無限の超越的な他者の変貌としての証左である。

 恋愛とは、カフカの『城』のように対象の周縁を遠心的に作用するしかない。前作『ハッピーアワー』が、「重心」(=「中心」)を探求しながらも必然的に均衡と転倒を反復ーーフェリー乗り場で純が桜子の息子と「重心」を合わせようとする場面はなんと美しいことかーーするしかなかったように、全ての「重心」が揃うことはない。しかし、である。だからこそ逆説的に対象を言葉で語るしかないのではないか。それは、決して終結することのない営為だろう。だが、それこそが対象に求心的に作用する唯一の方途ではないか。序盤の朝子は、麦に対して「かっこいい」、「かわいい」と最小限の言葉で表現をするが、それはこのような文脈で理解すべきである。

 その後、麦は忽然と姿を消す。二年と、少し後経過して舞台は東京に移る。東京のカフェで働いている朝子は、ある日偶然にも麦と相似している丸子亮平(東出昌大)と出会う。困惑しながらも朝子と亮平は、宿命であるかのように惹かれ合い、離別したりを繰り返す。朝子は、亮平の形象に麦を投影し、彼の幻影を消去することができない。そのためか当初の朝子は、ほとんどギャラリーに展示されている写真、カフェの窓に反射する鏡像である亮平の形相しか認識することができていない。

 ここでも、やはり言葉よりは「身体」の接触に重点を置いているように描出されている。ギャラリーの入場口前で脈絡もなく突然朝子が、亮平の頬に触れるシーンや、亮平が勤務する非常階段で互いに頬を触れながら見つめ合うーーここでも非対称な鏡像として機能しているーーシーンは、言葉では確かな実存を確かめることができないからこそ、等価関係として「身体」に触れ合うのである。

 

 ところで、本作は原作とは決定的な差異がある。それは、2011年の東日本大震災の描写を反映していることである。ある日、朝子の友人であるマヤ(山下リオ)から招待されたイプセン原作『野鴨』の舞台を鑑賞しようと亮平(東出昌大)は訪れるが、開演前に地震が襲い中止となる。作中で明確な時間表記を確認することはできないが、昼公演であり定時の開演前であることから東日本大震災が発生した14時46分との信憑性は高いと推測することは可能だろう。また濱口竜介は、2011年から2013年にかけて「東北記録映画三部作」を制作していることから3.11以後の作家の一人としてカテゴライズされていることからも瞭然である。

 しかし、そのような3.11以前/以後という言葉で分節することは記号として機能し、至便性に長けてはいる。一方で、現象の時間的・空間的・社会的な深遠さを捨象してしまう危険性を内在していることもまた事実である。それは、事象の特権化を促し、作家の連関性を喪失してしまう。前作『ハッピーアワー』のラストシーンは、あかり(田中幸恵)が勤務していた病院の屋上から神戸の街と海の壮観がどこまでも広がっていたが、「神戸」という舞台設定は偶然的なのだろうか。濱口は、不可視であれ意図的に1995年の阪神淡路大震災を描写していたのではないか。であれば、本作との連続性も発露してくる。『ハッピーアワー』のラストが海の彼方、作品の「外部」を志向するかのような印象を与えるかもしれないが、そうではない。濱口は、徹底的に「象徴界」の内部で論理的に思考する作家である。そうでなければ日本映画史上類を見ない5時間17分の『ハッピーアワー』というーー「言語」を徹底的に思考したーー傑作を生み出すことは不可能だっただろう。「言語」(=「コミュニケーション」)を徹底的に思考したからこそ、必然的に5時間17分という長尺の作品になったのだ。3.11以降、急速に「象徴界」の外部としての「現実界」に触れようと、超越的あるいは超越論的な諸原理やイデオロギーに回帰しようとする了見が見受けられる。だが、後述する本作のラストからも瞭然とすることであるが、濱口の作品内におけるある種の「告白」を看取できるまでは時間はかからないことだろう。

 

 作中における震災以後、亮平と朝子はレンタカーで東北の被災地とボランティア活動として関係性をもつことになる。そしてそれ以後、朝子にモデル兼俳優として活躍している麦の形象が幾度も回帰してくる。亮平の大阪への転勤が決定し、引っ越し前日の友人たちとの食事の場で麦は忽然と朝子の前に現前する。そして、そのまま麦と朝子は友人たちの前から去っていく。

 麦の祖父が所有する別荘へ向かう帰途、仙台の手前で車中泊をする。麦は「海がみたかった」と発言し、続けて「この向こう本当に海なの?」と堤防の向こうを目指す。だが、朝子は共に駆け出すことはない。朝子は、「これ以上、先に行かれへん」と発言し、「亮平の元へ戻らないと」と麦に告げる。この場面において「寝ても覚めても」というタイトルの意味が鮮明に回収されることとなる。それは、朝子が亮平への「愛」に再び目「覚め」たというあまりに素朴で質素な解釈ではない。そうではなく、ここで朝子はようやく「麦」=「故郷」が存在しないことーー東京から出発する前に麦は「俺の代わりはいくらでもいるから」とスマホを壊しているのは示唆的だろうーーを認知することができたのである。東日本大震災による津波福島第一原子力発電所の事故は、東北の土地を喪失する、いわば「故郷喪失」の感情に根ざしている。だが近代以降において、故郷とは「ロマン的イロニー」であり「先験的な故郷喪失」の形式にならざるをえないのだ。麦と別れ朝子は「寝ても」/「覚めても」の境界を越境するかのように一人で堤防を登り、その先の海をじっと見つめる。数秒間、映し出された朝子は、どこか不安と希望が混在した表情をしている。だが、その表情に真直な「決意」を読み取ることができるだろう。

 

 麦と別れ、朝子は大阪にいる亮平のもとへと向かう。だが亮平は、朝子を追い返し、家に閉じこもる。必死に叫ぶ朝子に、亮平は捨てたと嘘をついていた飼い猫のジンタンを無言で差し出し、扉を閉める。だが家の鍵は閉められてなく、朝子は二階にいる亮平のもとへ向かう。亮平は、無言で受け入れ「俺は、きっと一生お前のこと信じへんで」と告げる。「絶対」ではなく「きっと」信じないとすること。たった三文字の「きっと」にどれだけの意味が込められているのだろうか。決して『マノン・レスコー』のような物語ではなく、と同時にそれは二人だけの物語ではないことだろう。

 ラスト、二人は目の前を流れ行く天野川の先をじっと見つめる。河川には同一性がない。生成変化を繰り返し、同一の形象を形成しないからこそ美しい。ラストの二人の並びは、冒頭の「牛腸茂雄 Self and Others」におけるポートレートの反復である。水かさが増した河川の不穏な雰囲気のように二人の表情に笑顔はない。二人の視線は、ポートレートのように交差することもない。二人は、一体どこを見つめているのだろうか。視線の先の河川の行き着く先は、一つの調和した広大な海だろう。未来において二人の視線が交差することはないのかもしれない。愛とは「太陽と番った海」(Arthur Rimbaud)である。だが、二人が残してきた愛の「証拠」は、たしかにそこに「ある」のだ。