水平線

研究と批評、あるいはその間隙

『アカルイミライ』(黒沢清)

 皮肉なタイトルだ。「アカルイミライ」が将来待っているはずだと心底から信じることなど可能だろうか。それは、あまりにニヒリストだと批判するかもしれない。だが、オプティミズムに信仰することがそれ以上にニヒリズム的であり、「再帰的無能感」に苛まれることだろう。また「アカ」=共産主義の「ミライ」が存在しないことも1956年のスターリン批判以降、そして1989/1991年以降の冷戦崩壊以降において瞭然たる史実であることは疑いようのないことだ。いわば、本作のタイトルは二重構造的に「ない」という否定性が内在している。

 

 仁村雄二(オダギリジョー)は、漠然とした焦燥を抱えながらも東京のおしぼり工場で働いている。同僚の有田守(浅野忠信)は、雄二が唯一心の許せる友人だ。

 かつての新左翼におけるローザやトロツキーの機動戦中心主義、三島由紀夫楯の会事件は「軍隊」、あるいは「暴力」が国家権力に包摂されていくことの証左であった。その後の「新しい社会運動」(アラン・トゥレーヌ)は、「中ソ論争」のなかで導入されたフルシチョフやトリアッティ(イタリア共産党)の「平和共存」=「構造改革」路線、グラムシ主義=「陣地戦」との連関性である。そこでは「市民社会」的運動であり、ロマン主義的な「情念」や「暴力」は回避している。

 だが、「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)という実情を前に、「暴力」の問題がいつ回帰しても不思議な話ではないだろう。雄二が弁当屋で不条理に客を殴ることも、そして守が、全共闘から転向して社会に溶け込み、幸せな家庭を築いている勤務先の社長=全共闘世代(笹野高史)を含む家族を殺害することにも何も驚くことではない。それは「法」=「父」という制度のもとで抑圧されているに過ぎないからだ。しかし、それらが機能不全に陥ればーー守と父親(藤竜也)の関係性のようにーーどうなるかは明瞭だろう。雄二は、禁欲主義的にゲームセンターの似非の「銃」を乱射することで耐える。だが、そうした頽廃的なゲームは終わりにしよう。

 

 逮捕された守は、雄二に託した「アカ」クラゲの飼育方法を徹底的に教える。雄二は、守の言動に不可解さを隠しきれない。ある日、雄二は水槽を倒してしまい「アカ」クラゲを床下に放流してしまう。その後、守は刑務所内で自殺をする。

 守の死後、雄二はリサイクル業を営む守の父親と出会い、労働をしながら共同生活をする。しかし、守に託された「アカ」クラゲの飼育を巡って対立することになり雄二は、守の父親のもとから離別する。

 

 離別後、雄二は真夜中のゲームセンターで男子高校生たちと知り合う。彼らも漠然とした焦燥、「アカルイミライ」など「ない」ことを了知しているのだろう。彼らとの対話のなかで雄二は、自らを「頭おかしいの」と発言し、彼らは「俺らと一緒だ」と叫ぶ。

 彼らにとって、学校とは「規律/訓練」(ミシェル・フーコー)の場であることを放棄していることを察知しているのだろう。社会は高等教育された「市民」を必要としていないのであり、「抽象的人間労働」によって「労働価値説」を体現できないことを発露しているからだ。だからこそ、彼らと雄二は深夜に企業=資本に侵入することで暴れ回る。しかし、彼らには国家権力=警察と対峙するための「武器」=「銃」=「軍隊」、あるいは「戦争機械」(ドゥルーズ=ガタリ)もなければプランもないため、すぐに警察に確保されてしまう。それは、一種の祝祭性であり、「権力を取らずに世界を変える」(ジョン・ホロウェイ)というアナキズムと民主主義的な手続きしか想像=創造できない左翼の病理であり、ポスト・ポリティカルの現実である。

 

 その後、雄二は守の父親が経営するリサイクル店へ戻る。泣きながら「ここに居ていいよね」と懇願する雄二は、この社会は「再生産」=「リサイクル」していくしかないことを追認する。守の父親は、何度も「許す」、「ずっとここに居ていいよ」を繰り返す。ここで雄二にとってーー作中で雄二の父親は登場しないーー擬似の「父」が生成されることになる。いわば、雄二は「この」社会で生きることを決意したとすることができるだろう。

 一方で、雄二が放流した「アカ」クラゲは東京のいたるところで繁殖していた。だが、「アカ」クラゲは東京から撤退を始めている。東京=資本の中心では、どれだけ「真水」を投入したところで「アカ」クラゲは生存することはできないのだ。無論、経済的な「真水」も同等である。東京という大都市に限らず「時間稼ぎの資本主義」(シュトレーク)に過ぎないことの発現である。

 

 ラスト、かつて雄二と知り合った高校生たちが同質のゲバラTシャツを着て道路を歩き続ける。彼らは何を推い、どこに向かい歩いているのだろうか。彼らにとって「ミライ」とは「いま・ここ」という現前だけである。彼らは、舗石=秩序を引き剥がすこともない。彼らには、資本主義的生産で「ゴミ」となったものを「リサイクル」して生産された道端の段ボールを蹴り上げることが限度であろう。彼らに残されたのは「誤認」によって見続ける「ユメ」だけである。