水平線

研究と批評.

『空に住む』(青山真治)

 青山真治の作品は、『Helpless』・『EUREKA ユリイカ』・『サッド ヴァケイション』の”北九州三部作”や『共喰い』、あるいは『チンピラ』や『WiLd LIFe』におけるヤクザとの闘争に巻き込まれることに象徴的なように「土着性」、「血縁」がどこまでも回帰することが一つの特質だと言えよう。

 本作は、こうした青山の特質を切断している印象を与えるかもしれない。しかし、それは、本作においても連関している。冒頭において家族との離別理由が判明後も、「東京」という土地であれ、それはある種どこまでも逃げ場のないマンション内を、あるいは5インチ四方のスマホに表象されるInstgramを循環するように回帰してくる。

 かつて東浩紀は、デリダ的な脱構築を「郵便的」と指摘した。それは、非世界的存在を認めない形而上学と、非世界的存在を一つだけ認める否定神学への二重の抵抗を図っており、非世界的存在が「郵便空間」において複数認められる(東浩紀 1998:164-165)としている。それは、宛先不明の手紙が「誤配」されるかもしれないという可能性に存在する空間である。

 本作の舞台となる「東京」、あるいは本作でも表象されるInstagramのようなSNSは「誤配」される空間ではなく、いまや「閉鎖」的で「土着」的な空間に過ぎない。それは、「接続過剰」から「切断」を試行したところで無限に「接続」されてしまうのであり、ナルシシズムな他者しか現前することはない。そのような「自閉した身体」を拡張したところで、盲目的な倫理なき暴力を発露してしまう。本作を鑑賞すれば、直美(多部未華子)と明日子(美村里江)の関係性のように、それはいくつか確認することができることだろう。この点が、過去の青山作品と本作の決定的な「切断」ではないか。いわば、それは「閉鎖」的で「土着」的だが、「無責任」な「血縁」とでも言えようか。

 

 さて、「空に住む」とは、空に近い高層マンションの高層階に住むだけではなく、「空」虚な世界に「住」まざるをえないことを表現しているのだろう。直美と同じマンションに住み、後に直美と関係をもつ俳優の時戸森則(岩田剛典)は、度々「虚しい」発言をする。また、直美と森則の「夢」のような時間も意識的に現実か虚構か不明瞭ーーというよりは現実に引き戻すーーにするためのカット割にもしている。そして、直美は地方の出版社で小説の編集者として働いていることからも現実/虚構の対立軸を強調している。無論、「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)という事象を前に、大衆から「文学」の価値は離れざるをえないのであり、「空虚」なものにならざるをえないことだろう。


 直美は、両親と離別したときも泣くことは「なかった」ことを自省している。だが、職場の妊娠している後輩が、道端で「破水」≒涙したときは、感情をあまり出さない直美が声を荒げ怒鳴る。直美は、死者=過去よりも、来たるべき「他者」=未来=「水平」と「垂直」の連関点を見据えているようだ。


 「未来が閉じていると想像するや、不可能な外部は死の別称となる」(小泉義之)ことだろう。ラスト、部屋から一面に広がる東京の景色を眺めながら、直美は「背伸び」をする。それは、どれだけ伸びようとも「地に足がついている」はずだ。鬱蒼とした東京の「空」は、微かにきたるべき「未来」を斜光で照らしている。