水平線

研究と批評.

『れいわ一揆』(原一男)

 2019年の参議院選挙での、れいわ新選組の躍進は神風が吹いているのではないかと「誤認」させるほどの瞬間風速であった。それは、まさに「れいわ旋風」であり、一定数の市民を熱狂させることに成功したと言えるだろう。

 しかし、成熟した秩序ある中間団体なき、近年のポピュリズム運動(山本太郎は、雑誌のインタビューで自身をポピュリストであることを認めている)は、「陣地戦」(グラムシ)すら慣行することは不可能であり、それはどれだけ「権力をよこせよ」(Youtubeのれいわ新選組公式チャンネル・「山本太郎 街頭記者会見 静岡県浜松市 2019年11月27日」を参考)と叫んだところで「権力」に回収されることは必然である。また、山本太郎は何度も街頭演説で叫ぶ、「たとえ何かを生み出せないとしても生きてていいんだよ」、「あなたには存在しているだけで価値がある」と。だが、そうした「価値」は、新たな資本主義的「使用価値」として再生産される。それが資本主義の論理であり、「美学化」にすらなることだろう。こうした「生きさせろ」(雨宮処凛)的言説は、資本主義に回収されるのであり、闘争の拠点であれ「外部」には足り得ない。

 

 さて本稿では、これ以上れいわ新選組の評価をすることを目的とするのではない。本作は、2019年の参議院選挙にれいわ新選組から出馬した安冨歩を中心に物語が展開していく。彼女が、一貫して訴えるのは「子どもの未来を守ろう」ということである。彼女の選挙活動のスタイルは、記号化した都市を馬と共に遊歩することで「異化」効果を発揮し、街頭演説でも「子ども」と積極的に対話をすることを特徴とする。

 本稿では、「子ども」という存在に着目することで、「子ども」と政治という関係性に一考察を与える。それは、現在の政治が患っている「病」を明らかにすることでもあるだろう。

 

 いまや「子ども」という存在は、「聖域」として捉えられている。それは、歓待すべき「未来の他者」であり「倫理の起源」である。「子ども」という絶対的他者が、有限的個体としての死を超越し「類的人間」(小泉義之 2019:17)として生存する。そのような未来が、責任を生成させるのである、と。そして、ここから来るべき急激な人口減少は「国の将来にかかわる大きな問題」(厚生労働省統括官 2017)として少子化対策不妊治療(生殖補助技術利用)への助成制度の公的施作が進行していくことになる。一方で、公権力と関係的プライバシー権との関係性は、熟慮しなければならない観点である。そのような関係性を踏まえ、野崎亜紀子は、リベラルな法体制のもとで、なお個人が公共的価値、少子化問題の克服に貢献する責務として次のように言及している。

 

子との関係で特別な関係者である親は、自身が生きる社会のなかで、その構成員として親である自分たちが享受する社会生活を送るうえでの権利(いわゆる市民権)を、その子もまた承継し、それを自律的に使いこなす能力が得られるよう保護監督する責務を有している。この責務を果たすために、親は子に対して自らの権限を行使するのであり、このことは親の権限のなかに組み込まれている、と解すべきであろう。特別な関係にある親が子に対して有する片務的負担の根拠はこの、承継される役割としての責務にあると考えられる。(野崎亜紀子, 2019, 「子どもをもつ権利ーー生殖とリベラルな社会の接続を考えるために」pp.125-126.)

 

野崎によると、リベラリズムを支えるこうした一見すると非リベラルな観念である「承継」に関しては、リベラリズムの再検討に際して規範的検討を要するものだとしている。だが、こうした「継承」はどこまでの正当性を与えることが可能だろうか。それは、親(=大人)が子に投影する予測可能で理想とする未来であり、その「未来の他者」とは「大人」のことに過ぎない。1970年代以降のヨーロッパにおいて「再生産」という概念は、生物学的「有機体」の生殖過程の意味に活用され、そのような場として「市民社会」を提示する潮流があった。それは、まさに「子ども」が資本化の中で再生産されるだけであり、「資本主義の子ども」しか産まない。

 こうした虚偽意識としての「生殖未来主義(reproductive futurisimi)」(リー・エーデルマン)の領域の外部として想定されるのは、LGBTQ当事者によるマイノリティの意見である。だが、基本的にマイノリティ側の意見をマジョリティ側に反映するのであれば、それはマイノリティ側にあって複雑で様々な対立関係を隠蔽され、マジョリティ側に同化するだけにとどまることだろう。それは新たなマイノリティを再生産し、同じ事象を反復するだけである。それは、子どもを所有したいという異性愛者の欲望が、同性愛者の欲望と同型として反復している。

 

 ところで、かつて山本太郎(れいわ新選組)はインタビューで「天皇」について次のような発言をしている。

 

こう言うと、山本太郎にも右派的な要素があるのか、と思われるかもしれないが、(今の上皇には)お父さんのような感じを抱いています。私が母子家庭で育ち、家には父親がいなかったから、父性的なものを求めているというのはあるとは思います。過去にあった戦争の戦地をを回ったり、災害があれば現地に駆け付けたり、被災者を励ましたりしている。それは自分の中にあるお父さん感、父性を満たすものです。(『Newsweek日本版 2019.11.5 山本太郎現象』p.30)

 

山本太郎にとって「天皇」とは「民主主義の最後の砦」なのだろう。無論、それは山本太郎に限った話ではなく、他の政党であれ市民にも言えることであり、「大衆天皇制」(松下圭一)からの連関性である。「戦後天皇制」から産み落とされた「天皇の子ども」たちは、まさに「聖域」であり、「未来の他者」を信仰する。「天皇」を殺すことは、「天皇の子ども」たちにとって過去ー現在ー未来をなくすことでもあるだろう。だが、このような「死」があってこその倫理ではないだろうか。「象徴天皇制=父」は「聖域」として機能していると同時に「天皇(制)」と「資本主義」は補完的関係である。「〈物自体としての他者〉」(柄谷行人)にとって、「聖域としての父」の「死」をもたらした後の「未来の子ども」たちは、「彼方」から「聖域」として現出するのである。