水平線

研究と批評.

『きみが死んだあとで』(代島治彦)

地獄への道が善意で敷き詰められているなら、悪意で敷き詰めないと天国への道は開かれないのかもしれない。しかし、この世界は、天国でも地獄でもない。煉獄である。この世界では、地獄への道と天国への道は反転可能になっている。この世界は、悪を活用して善に転化できるようになっている。最善ではなく次善を選ぶのは市民のやり方だ。最悪ではなく次悪を選ばせ、最善に転ずるのがわれわれ左翼のやり方である(小泉義之, 2006, 『「負け組」の哲学」』p. 16)。

 

 銘記すべきは、いつの時代にも、革命を必要としている人間、革命なくしては自由に生きていけない人間、革命を命がけで求めている人間がいるということだ。そんな人間には、反省している暇などない。断固として、いつか無力な者になる人間の立場に立つこと、無力な者を代行する立場に立つこと、レーニンのように、遠くからではあれ、無力な者に訴えることだ(小泉義之, 2006, 『「負け組」の哲学』p. 60)。

 

 作品の冒頭、代島監督の内面における次のような言葉がスクリーン上に表象される。

 

ぼく(監督)は1958年2月生まれだ。小学校に入学するとすぐにベトナム戦争がはじまった。1964年夏、米軍が北ベトナムを爆撃。すぐに世界中で戦争に反対する運動が巻き起こる。少年時代のぼくは、ベトナム反戦を訴え革命をめざして闘う「団塊の世代」のかっこいいお兄さんやお姉さんに憧れた。この映画をつくりながら、ぼくは想像した。もしもぼくが「団塊の世代」に生まれたとしたら、第二次世界大戦の直後1947年から49年の間に生まれたとしたら、どんな青春を選んだだろうか。もしもぼくが、1967年10月8日に羽田・弁天橋で死んだ18歳の若者の友達だったとしたら、どんな人生を歩んだだろうか(『きみが死んだあとで』パンフレットを参考)。

 

 冒頭の代島監督の独白からも象徴的であるように、本作は、「かもしれない」、「だったのかもしれない」という世界線で物語が展開していく。とりわけ、赤松英一と島本恵子の数秒間の沈黙は、「きみ」=「山﨑博昭」の死が、「わたし」の死であった「かもしれない」という死の淵を覗き込むような経験、いわば「象徴界」(ラカン)の外部に触れてしまったがゆえに生じる沈黙だったのだろう。

 あるいは、「きみ」=「山﨑博昭」の死を、佐々木幹郎のように「詩」として昇華させることで、つまり山崎博昭を内面化することによって偶然の生を「生き抜く!生き抜くことだ!」(佐々木幹郎, 1970, 『死者の鞭』)と詠みあげることで他者の死を自責のように背負うことで総括することも可能だろう。だが、それははたして可能だろうか。

 本作全体的に漂っていることだが、本作は、山﨑博昭=中心の周縁を回遊しているに過ぎない。それは、「ない」ものを「ある」とするような、ロマン主義イロニーではないか。たしかに証言者たちは、過去の壮絶な体験を語っているのではあるが、山﨑博昭=中心を媒介としてノスタルジックでナルシシズム的な語り narrative に回収されてしまっているのである。まさに、それは、言語によって表象不可能なトラウマ的経験なのである。では、山﨑博昭=中心を語り、その「外部」にいくにはいかなる方法論があるだろうか。

 

 山﨑博昭と共に生きた証言者たちは、「きみが死んだあとで」で一体何を問いたいのだろうか。無論、彼/彼女たちが、壮絶な体験をしてきたことは承知しているつもりである。だが、彼/彼女たちの証言は、過去の経験と思い出話に収まっていないか。問うべきは、山﨑博昭の死以後における、彼/彼女たちの闘争の展開であり、組織からの脱退理由を聞き出すことだったはずである。

 本作で登場する人物たちは、いまや一般的なメディアで見ることなどない。いまや左翼は、リベラル層に代わったからである。だからこそ、代島監督は、証言者たちから具体的に組織を脱退した理由や闘争をやめた理由などを聞き出すべきだったのである。エンドロールで、その後における彼/彼女たちの説明を一行だけで説明して何になろう。重要なのは、その過程=中間である。オーラル・ヒストリー oral history 的手法で証言者たちから、山﨑博昭=中心に接近していくこと、そしてその後を聞き出すこと、そのような自己総括こそが「きみが死んだあとで」為すべきことであり、現地点から左翼を語り直すことに他ならない。