水平線

研究と批評.

『キャラクター』①(永井聡) 

 リアリズムが作品のどこかに表象されることによっての経験がリアリティを与えるのか。あるいは、フィクション内におけるリアリズムが、現実世界の「リアリズム」を形成しているのか。このような問いは、あまりに馬鹿げていると、あるいはそのような問いは成立しないと多くの人たちは批判するかもしれない。だが、はたしてそのような批判は本当に妥当だろうか。むしろリアルは、フィクションの追随でしかないのであればどうだろうか。山城圭吾(菅田将暉)が、現実の殺人事件をモデルに描いた漫画『34(さんじゅうし)』が、物語が展開するにつれてフィクションが作品内における現実から先行するのも何も驚愕することではない。

 

 今日において、あまりにも現実的批判を展開すればするほど陰謀論者のレッテルを貼られるのはリアルそれ自体がフィクションのコピー=「シュミラークル」(ジャン・ボードリヤール)だからである。だが、問題はその先である。リアリストは懐疑論者や否定論者というレッテルを貼られたことに対して、さらなる議論を展開することができていない。その先を展望することができないのである。なぜか。言うまでもなくリアリズムが縮減ーー「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)と言い換えてもいいーーしているからである。であれば、陰謀論者も陰謀否定論者もメタ的な「陰謀」に包摂されてしまっているとも言えるだろう。

 あらゆる情報がデータベース化することで、真実と虚構の境界線は曖昧化している。もはや真実/虚構に境界線を引くこと自体が意味を失いつつあると言えるだろう。政治的言説や規範的意識は、虚構に支配され効力を失いつつあり、人々は、ニヒリズム的快楽=「動物化」(東浩紀)に溺れるしかない現況に陥っている。しかし、そのような「動物化」はダーウィニズム的な自然淘汰に帰結してしまうのではないか。そうであれば必要なのは、抵抗としての思想でありイデオロギー、すなわち「政治」である。だが、事態は複雑である。

 昨今の世界情勢を踏まえ政治は「フィクション化」しているという指摘がある(たとえば『世界 2020年2月号』岩波書店、を参考せよ)。だが、政治とは「フィクション化」以前に、そもそも「フィクション」そのものではなかったか。

 政治のフィクション性を思索するために、たとえばハーバマス的「熟議デモクラシー」を想起してみるといい。ハーバマスは「二回路モデル」論によって、国家と市民社会・公共圏を熟議によって媒介する構想を提示している。ハーバマスが提起した論で肝要なのは、国家における「意思形成」と市民社会・公共圏における「意見形成」を区別したことである。坂本治也は、「熟議民主主義は、基本的には公共圏・市民社会における『意見形成』の段階で行われるものである。そこでは、直接的な意思形成は求められない。そのため、市民は『ものごとを決定しなければならない』という圧力から解放され、自由な熟議が可能になる」(坂本編 2017: 25)と説明している。

 ハーバマスの提起する構図はあまりにも形式的である。そしてハーバマスの図式は、あまりに空論的でありロマン主義である。唯々疑念的であるが、市民社会・公共圏において熟議は現出したことがあるだろうか。仮に熟議が現出したとして、いかに市民の意見形成を国家に反映させることが、代表 representative できると思考しているのだろうか。まったくをもって考えていないのである。無論、市民たちも議会制民主主義が政治家たちのプロレスに過ぎないことを感知していることだろう。その点では右派も左派も根底ではつながっているのであり、真の対立はないのである。

 しかし、真の対立がないことは「〈一を二に割る〉」(小泉義之)機会でもあるだろう。そして、それを担うであろう人々は両角(Fukase)や辺見敦(松田洋治)のような社会的に包摂されていない、社会的な疎外=精神の疎外=狂気とされた人物たちである。実際、作中において国家権力=警察権力は彼らに翻弄され続ける。

 

 1970年代以降、「狂気」の思想と行動によって解放を唱える運動があった。だが、時代が経るにつれ「狂気」というリアリティは後景に退いていった。

 しかし、いまや別の仕方で「狂気」によって揺さぶられているのではないか。われわれがいま求めるべきは「高次の狂気」(小泉義之)である。

 

(続く)