水平線

研究と批評.

『キャラクター』②(永井聡)

 「お前は、狂っている」と客体を名指しするとき、名指しをした主体が理性的存在であるという根拠は一体何だろうか。われわれは、他者を「狂気」と定義することのできる言語の狂気性こそを問われなければならないのではないか。あるいは理性的言語を駆使すること(したつもり)で自己を理性的主体として真理を自己革新し相互承認することは「狂気」と変わらない事象である。われわれは、理性それ自体が「超越論的仮象」(イマニュエル・カント)を生起させることを起点として据えなければならない。

 小泉義之は、今日において精神の狂気ではなく「行動の狂気」こそが問題だと指摘している。小泉は、フーコーの最後の講義録である『真理の勇気』を引用しながら、ヘイトスピーチとパレーシアの関係性を考察している。小泉によれば、仮にヘイトスピーチの分析を通してレイシスト、さらには「われわれ」の真理を見出すことができると想定するのであれば、レイシストは「われわれ」の鏡像であり、愛国者にとっての日本は「対象a」(ジャック・ラカン)に過ぎない。したがって、「われわれ」は狂気の真理の歴史の内部にとどまっていると指摘している。どうしてだろうか。

 パレーシアとは、「危険を顧みず真理を語る勇気」のことである。そして、パレーシアを行使するパレーシアステースとは「『反感、争い、憎しみ、死のリスク』を冒しながら真理を語る者」であり、「『エートス』について、倫理、生き方について語る」(小泉 2015: 26)者である。したがって、小泉によればレイシスト愛国者はパレーシアステースであると認めている。

 さらに、ここが肝要なところであるがパレーシアステースは民主主義に場を持っていない。小泉は、次のように言及している。

 

パレーシアは、「僭主」に対して向けられるからである。また、「僭主」の追従者である「延臣」や「民衆扇動家(デマゴーグ)に対して向けられるからである。しかも、民主主義の腐敗を体現する連中からの憎悪や弾圧を覚悟しながら勇気をもって真理を語るからである。それは民主主義を救うために行われるのではない。そうではなくて、民主主義の外部で、新たな別のエートスをを創設するために行われるのだ。だから、レイシストにして愛国者であるパレーシアステースとの闘争においては、僭主とそれに追従する多数派にとってスキャンダルともなる行動の狂気を示すようなそのような生存のスタイルを打ち出さなければならない(小泉義之, 2015, 「狂気の真理への勇気」『HAPAX vol.3ーー健康と狂気』夜光社. p. 27)

 

 「生存のスタイル」として「行動の狂気」を体現すること、これこそが「一つのヘイトスピーチ=パレーシアに対抗するパレーシア、一つの行動の狂気に対抗する行動の狂気」(小泉 2015: 30)である。このような観点は、本作を批評するうえで重要である。なぜ、山城圭吾(菅田将暉)が殺人事件に惹かれ漫画を描いていくのか(殺人事件に惹かれるのにはそれなりの理由があるが、それを考慮しても異常だと言えるだろう)。なぜ、辺見敦(松田洋治)は自ら実行していない殺人事件の罪を自白したのか。なぜ、両角(Fukase)は四人家族だけを標的にするのか。これらはすべて精神の狂気ではなく、「行動の狂気」である。そして、このような「行動の狂気」はブルジョア社会=市民社会に間隙を生じさせるだろう。たとえば、本作における清田俊介(小栗旬)=警察権力=国家権力の死は瞬間的な間隙である。

 しかし、言うまでもなく「行動の狂気」はブルジョア社会=国家権力によって回収されてしまう。国家=ブルジョア社会は、狂気=異常者の放置を許容しないからである。国家は、理性的装置として万人の安心・安全を確保しているのだと。

 だが、本当にそうだろうか。むしろ国家=ブルジョア社会それ自体は、理性的装置ではなく非-理性的=狂気として機能したがっているのであればどうだろうか。個人の精神的=社会的疎外だけではなく、国家=ブルジョア社会自体が疎外されているのであればどうか。そして、そうであれば、資本主義社会の先に展望することができる「高次の狂気」を有した主体はいかなる存在なのだろうか。

 

(続く)