水平線

研究と批評.

『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介)

 濱口竜介の作品は、いつも物語の「先」、あるいはその「外部」を求めてしまう。『ハッピーアワー』(2015)のラストが、神戸を旅立った純(川村りら)を乗せた船が水平線を航海しているショットで終わるのであれば、『寝ても覚めても』(2018)は、丸子亮平(東出昌大)と泉谷朝子(唐田えりか)が見つめる天野川の先の広大な海で終わる。では、はたして『ドライブ・マイ・カー』(2021)は、どのような景色をみせてくれるのだろうか。

 

 冒頭の家福悠介(西島秀俊)の妻である音(霧島れいか)の顔は、暗闇で不明瞭である。また音が語る不整合で不条理な物語(前世はヤツメウナギ)は、たしかな強度で観客を魅惑する。冒頭の画面は、ほんの数分だが、このたしかな強度が観客を徹底的に「受動的」な存在として確立させる。

 だが、こうした「受動性」から生じる主体、あるいは生存の変容こそ濱口の作品に連関する特質ではなかったか。三浦哲哉は、『ハッピーアワー』(2015)について次のように指摘している。

 

他者への「想像」をさまざまに織り込んだ劇であるがゆえに、本作は、私たち観客一人ひとりに能動的な観察を要求する。能動的、というより、相互的、と言ったほうがいいかもしれない。つまり、物語前半のワークショップで示されているのと同様、登場人物たちと私たち観客が「重心」を共有するように、『ハッピーアワー』体験は進行する」(三浦哲哉, 2018『「ハッピーアワー」論』羽鳥書店, p. 139)

 

 人間関係=「重心」の変化は、自己の変化と並行する。『ハッピーアワー』(2015)が、「重心」を生成するとき、そして「重心」が移動するとき自己の変容を問われるのだ。このような観点は、『ドライブ・マイ・カー』(2021)においても受け継がれている。家福の愛車であるサーブが住まいと仕事場を反復するだけでも、そこには複数の「重心」が点在している。

 だが、本作においては重心ではなく、「言語」におけるモノとしての実存性、あるいは「言語」の物質性が自己と他者の変容を媒介していることが枢要だろう。それは家福の舞台演出が、「多言語演劇」という形式を採用していることにも示唆的である。

 フーコーの言語論は、人間存在に対する言語の外在的な独立性を発見した。フーコーは、次のように指摘している。

 

さしあたりまったく確実なこととして我々の知る唯一の事柄といえば、西欧文化のなかで、人間の存在と言語の存在が、共存して互いに連接しあうことは決してできなかったということにほかならぬ。二つのもののこの非両立性こそ、われわれの思考の基本的特質の一つであったのだ(M. Foucault, 1966, Les Mots et les choses, Gallimard, p. 350=360)

 

 フーコーの言語論は出来事性と実存性によって、「SA/SÉ」の二元論によって把握することはできない。家福が広島で行われる国際演劇祭で『ワーニャ伯父さん』(チェーホフ)で主人公ワーニャを演じることになった高槻耕史(岡田将生)が、家福に「本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」と発言するとき、家福はその言葉をすんなりと受け入れているように表象されているのである。というのも家福は、これまでどこか掴めない人間像としてーー役を演じることを「演じる」ようなーー表象されているのだ。だが、この瞬間においては言葉が家福という主体の境界を超えることで「何か」ーー言葉では名指すことのできない超越的なものーーが生起しているのである。

 

 喪失と成熟、死者と生者ーー。家福の愛車である真っ赤なサーブは、家福のドライバーである渡利みさき(三浦透子)の故郷・北海道の田舎へと辿り着く。そして、みさきは土砂崩れで亡くなった母との思い出を語り出す。このとき、家福はいままで表象されることなかった表情で「僕は正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。見ないふりを続けた。だから音を失ってしまった。永遠に。生き返ってほしい。もう一度話しかけたい」と語る。そのとき二人は、静かに抱き合う。このとき初めて、みさきの表情は柔和になる。

 家福は、私生活/舞台演出家においても役を演じることを「演じる」という行為によって自己をどこまでも忌避していた。だが、みさきと「言葉=物語」を共有ーー音の死とみさきの母の死ーーすることで、自己の変容を生じざるを得ない事象が生じていたのである。フーコーは、次のように言及している。

 

主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探究、実践、経験は、これを「霊性」と呼ぶことができるように思われます。このばあい「霊性」と呼ばれるのは、探究、実践および経験の総体であって、それは具体的には浄化、修練、放棄、視線の向け変え、生存の変容などさまざまなものであり得ます。それらは認識ではなく、主体にとって、主体の存在そのものによって、真理への道を開くために支払うべき代価なのです」(M.フーコー, 2004, 『主体の解釈学ーーコレージュ・ド・フランス講義 1981-1982年度』筑摩書房, p. 19.)

 

 終盤、広島国際演劇祭は幕を開け、『ワーニャ伯父さん』の舞台はラストを迎えかけていた。ソーニャは語り続ける「わたしたちは生きていきましょう」と。

 ラスト、舞台は韓国に移る。家福のドライバーであったみさきは、家福の愛車と同じサーブに乗り込む。みさきの視線は、そして真っ赤なサーブは一体どこへ向かうのだろうか。その「先」は、決してわからない。冒頭でも指摘したように濱口の作品は、いつも「先」へ、あるいは「外部」へと向かうからだ。観客たちは、作品を見終えたあと映画館の「外」へ出たとき、世界と自己の新鮮さと変容を感じることだろう。