水平線

研究と批評.

言葉と身体の臨界ーー濱口竜介論序説 ①

我々の世界は映画である。我々は映画としての世界に住み着いている。いや、正確に言わねばならない。映画の登場人物たちはその映画の中に住み着いているのではなく、取り囲まれ、貫かれ、配置され、話させられ、見させられるものとして取り込まれている。我々は何ものかに見られ、聞かれる。しかし、我々は話しもしなければ、見ることもない。ただ話させられ、見させられているのである……。(丹生谷貴志, 1996, 『ドゥルーズ・映画・フーコー青土社, p. 100.)

 

 「世界は映画である」としたとき、世界はイマージュに覆われるのであり、与えられたイマージュの閉塞した内在性の世界に生き、死んでゆく。われわれは、われわれのイマージュを反復するしかないのである、と。

 映画としての世界は、「絶対的な〈分身〉」(丹生谷貴志)の世界である。なるほど、そのような世界にはイマージュの「外部」は存在しないのであり、「外部」と呼んだものが精神世界がイマージュとして生み出した映像に他ならないというわけである。

 だが、ほんとうにそうだろうか。たしかに、映画に表象される景色は精神の内在的な属性の産物かもしれない。しかし、映画にはイマージュを超えた「何か」があるのではないか。ドゥルーズは、次のように言及している。

 

運動があるところならどこでも、時間のなかのどこかに、変化する全体があった。だからこそ映画的イメージには本質的に画面外がそなわっており、その一方はほかのイメージのなかで現働化されうる外部世界に、他方は連合するイメージにおいて表現される変化する全体に差し向けられた。(中略)それゆえ映画において、全体はイメージを内部化し、イメージにおいてみずからを外部化し、この二重の引力によってたえずつくられる。これはつねに開かれた全体化のプロセスであり、これがモンタージュあるいは思考の力能を定義していたのだ(ドゥルーズ, 1985=2006, 『シネマ2ーー時間イメージ』法政大学出版局, p. 233-4.)

 

 あくまでドゥルーズは、画面内に現前するイメージの分割であり、ここでは映画館における観客を運動イメージによる変容を捉えていない。だが、映画における運動イメージは、画面内だけのことなのだろうか。むしろ、運動イメージはイメージ外の観客に変容をもたらすのではないか。それこそが「力能 puissance 」によって「無力 impuissance 」を暴き出し、「出来の悪い映画」(ドゥルーズ)から脱する。

 丹生谷は、映画としての世界を「絶対的な〈分身〉」と定義していた。「分身」とは自己としての一が二になることであり、自己同一性は保持されている。ところが、映画に表象される自己は演技を通じることで自己であると同時に「自己」ではない。つまり「分身」ではなく、自己であると同時に他者なのである。そして、そのような差異性は、自己が自己のまま、別の「何か」に「生成変化」(ドゥルーズ)する過程でもあると言えるだろう。そして、まさに濱口竜介の作品こそが、そのようなことを提示しているのである。

 

 濱口の東京藝術大学大学院時代における指導教官であった映画監督・黒沢清は濱口の作品について次のように言及している。

 

人間描写と映画表現、このあまりにもかけ離れた二つの作業を、完全に平等に、かつ同時に行おうとする濱口竜介は、果たして映画の救世主なのか、それとも破壊者なのか……今後の映画史が決めてくれるだろう(神戸映画資料館, 2015, 「濱口竜介の軌跡ーー東京=東北=神戸」)

 

 黒沢の問いかけに、明確な解答を提示することなど不可能である。そして、わたしは濱口の作品を論じるための批評的技量も充分に備えていない。だが、濱口の作品はわたしを批評へと急き立てる。濱口の作品が、画面「外」へ、あるいは「外部」の他者に向かうようにーー。

 

(続く)