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研究と批評.

言葉と身体の臨界ーー濱口竜介論序説 ②

 濱口竜介の作品は、身体と言葉の随伴性を基軸に据えなければ作品を解釈することはできない。まずは、濱口作品における身体性から確認していくことにしよう。

 

 『ハッピーアワー』(2015)は、「重力」=他者関係の変化が、自己の変化と並行する。「重心」を生成するとき、そして「重心」が移動するとき自己の変容を問われる。

 『ハッピーアワー』における「重力」は、鵜飼(柴田修兵)が主催するワークショップから始まる。ワークショップは、「背中をあわせる」、「正中線をさぐる」、「はらわたに聞く」、「額で会話」という過程で進む。これが総体として「重力」とは何かを参加者に思考させる。この過程において、他者との身体的接触、そして「重心」を探り均衡を保つために、身体調整の動きが生じる。このような自己と他者との間主観性における身体調整の連続は、日常における身体の無意識性が、意識化され身体に変容をもたらす。さらには、画面内の身体表象が、画面外の観客に日常では意識化しない注視を働かせることになる。

 濱口は『ハッピーアワー』において、観客に身体の意識化を働かせるように作品を構成していた。そして、続く『寝ても覚めても』(2018)や『ドライブ・マイ・カー』(2021)では、より身体性を深化させている。それは、演劇という舞台装置の導入からも明らかである。

 ところで、演劇は映画とは対極の位置する芸術表現ではなかったか。演劇とは、身体の現前を観客=他者と共有することで成立する表現であった。だが一方で、映画は身体の不在から出発する表現媒体である。ドゥルーズは、「映画は[感覚ー運動的な]知覚と行動における身体の現前を再構成することを目的するのではなく、白、黒、あるいは灰色との連関で(あるいは色彩との連関で)、身体の原初的な発生を操作することを目的とする」(『シネマ2』p. 262)と指摘している。映画にはたしかに演劇のような身体の現前はない。だが、表象=再現前化、つまりは知覚と行動における連続性によるイメージの重層によって身体を構成するのである。

 では、なぜ濱口は映画において演劇という舞台装置に重点を置いたのか。それは、無意識的な身体を意識化させることを企図する「だけではない」。濱口は、「演じる」こと自体で生じる自己であると同時に他者である「自己」を据えているからである。

 

 かつて、ディドロとルソーは演劇についての論争を繰り広げていた。佐藤淳二(2013)は、ディドロとルソーの演じることに関して「自分を演じるという発想それ自体は、二人の思想家に共有されている」(佐藤 2013: 254)とし、次のように言及している。

 

自己を演じることが可能となるためには、演じる自己と演じられる自己が同じ自己でありながら、微細だが消しようもない亀裂によって二重化していなければならない。このような自己の自己関係は、それだけで十分に逆説的であろう(佐藤淳二, 2013, 「主体についての逆説ーーディドロとルソーの俳優論への序説」p. 254)。

 

 このような自己の二重化は、誰もが日常生活を営むときに実行していると言えるだろう。そして、そのような自己の二重化を分裂と意識することなく、差異化によって構成された自己=他者を「自己」として認識する。それこそが、誤認としての自己の固有性なのである、と。佐藤は、このような自己の構成を演劇のモデルとして理解可能となるのではないかと問題提起している。

 ルソーによれば、自然状態ではなく社会状態にある文明人は、自己との十全な一致を持つことはできない。文明人は、「自己愛 I'amour de soi」ではなく「自尊心 I'amour propre」に依拠して自己を構成し演じるしかないのである。佐藤は、次のように言及している。

 

自然状態ならぬ社会状態においては、人間は己に固有なあらゆるものを他者に依存し、他者から自己を与えられているのであり、自己自身とは実は無ないしゼロとでもいうべき空虚な存在に過ぎないのである。だからこそルソーにとって俳優は、不要である。誰もが自己に対して必要にして十分なだけ俳優なのだから。ひとは否定的に俳優であることによってのみ、かろうじて己の固有性に留まる(佐藤 2013: 263)。

 

 ルソーにとって、『新エロイーズ』や『ダランベール氏への手紙』において「誰か」を表象するだけの俳優は、余計な存在なのである。

 では一方で、ディドロはどうか。ディドロの演劇論は、『「私生児」についての対話』における「タブロー論」で結実する。ディドロにとって、俳優とは「舞台の上に『誰か』を見えるようにし、同時に『これは誰それだ』という文章として、その『誰か』のちょうど輪郭線にとけ込んで消えてしまう存在」(佐藤 2013: 258)である。だが、ディドロの論はルソーに対しての有効な反論になっているだろうか。なぜか。佐藤は、「表象ないし『タブロー』論という同じ前提に立っている限りは、『これは……である』という意味しか持たない俳優に、積極的な価値を見だすことは困難だからである」とし、「俳優に、それ独自の存在の厚みを返すことが、目指されなければならない」(佐藤 2013: 258)としている。佐藤によれば、ディドロの『ダランベールの夢』から『生理学要綱』に至る思想は、身体性の地平を回復させることを目論むのである。

 ディドロの『一七六七年のサロン』における彫刻家フランソワ・デュケノワの苦悩は重要である。なぜか。それは、「女優が自分自身の身体とは別の身体を手に入れる瞬間となる」(佐藤 2013: 259)からである。誰でも夢の中では巨人になることもできるだろう。そして夢の中の巨人は、覚醒後には失われてしまうかもしれない。しかし、偉大な俳優と夢との接続は、単なる「夢」ではない。佐藤は、次のように指摘している。

 

要するに彼女は、役割によって変容した自分を自己分析するのであり、決して「これはアグリッピーナである」という文章に吸収され消えようとしているのではない。それどころか、クレロンは身体の中心を自己の外へとずらし、自分の身体と役柄によって決まるどこか別の場所にそれを据えようとするのだ。通常は副次的なものでしかない夢は、女優にとっては中心的であり、まさにそれこそ演技する彼女の身体が存在する機縁であり、その存立の「場」でもある。その場が、演技の主体そのものを受け入れる(佐藤 2013: 259)。

 

 ディドロの身体論は、身体のシステム性、有機的体系としての唯物論的身体を浮かび上がらせる。しかし、ディドロの俳優論における身体論は、そのような身体性を有していない。自己の身体の中心を外部へとずらし、演技する自己の身体を存立する場とは何処か。それは、次のような場所である。

 

その場所は、内でも外でもない場所、俳優の二つの身体が開く距離、その空隙としか言いようがない場所である。現実の身体とその身体が生成変化する幻想の身体、自動的システムである生理的身体と「夢」と呼ばれる幻想によって駆動される身体、それらの諸項が関係を取り結ぶ場に宙づりにされるのが、女優の演劇的な主体に他ならない(佐藤 2013: 261)。

 

 俳優の身体を操作しているのは、感受性でも知性でもない。それは、「夢」の主体である。この主体は、俳優と観客へ接続され、別の身体を現すのである。

 

 ここまでルソーとディドロの演劇論争の概要を確認してきた。では、濱口が映画において演劇という舞台装置の導入は何を意味するのか。ここで重要なのは、映画における演劇は、「カメラの前で演じること」を前提とすることだろう。

 『寝ても覚めても』において、なぜ突如、串橋(瀬戸康史)がチェーホフの戯曲の一節を暗唱するのか。『ドライブ・マイ・カー』の家福悠介(西島秀俊)は、なぜ自己の役を演じることを「演じる」ような人間像として表象されているのか。

 濱口は、カメラで撮影することに関して、次のように指摘している。

 

映像に撮られるということは「未来における無限の他者の眼差し」を向けられるということである。無限の時間はいずれ、人の不完全な知覚の総体を、カメラの完全な知覚へと漸近させていく。そのなかで被写体の「習慣」や「意に反した」語りを見出すまで、彼・彼女らのからだを隈なく見る者は必ず出てくる(濱口竜介, 2015, 『カメラの前で演じること』p. 29)。

 

 ディドロによれば、俳優の身体を操作しているのは「夢」の主体であった。そしてこの主体は、俳優と観客へ接続され、別の身体を現すのであった。一方で、映画は「カメラの前で演じること」を媒介として、表象から観客に伝わる。なぜ、俳優は「意に反した」語りをするのか。では、この自己はどうだろうか。観客とは、自らが無自覚な俳優なのではないか。自己とは、自己を演じることで、自己が自己のまま「他者」に生成変化することである。では、そのような自己=他者は、「言葉」を所有することが可能なのだろうか。

 

(続く)