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研究と批評.

言葉と身体の臨界ーー濱口竜介論序説 ③

 言葉とは身体であり、身体とは言葉である。自己と他者が内面に所有する言葉が、「声」として発せられると、そこには意味に還元することのできない余剰を孕み持つ。そのような「生の声」は、「言語の物質性」として存在論的次元を現前し、そのような言葉によって、はじめて身体の変容が進行していく。

 かつてアガンベンは、「言葉において、言葉自体が言葉に従属したままにとどまることを止め、言葉として、言葉へと赴くようにするため」だと指摘していた。アガンベンは詩的言語を想定しているわけであるが、われわれの言葉は詩=故郷をもたない。言葉は、ただ意味もなく彷徨い続ける。だが、言葉は身体との臨界で別の「言葉」として懸けられる。

 

 『ハッピーアワー』(2015)の演者たちは、なぜあれほど抑揚を排した語りをするのか。『寝ても覚めても』(2018)の朝子(唐田えりか)は麦(東出昌大)に対して、なぜ最低限の言葉で愛を伝えるのか。『ドライブ・マイ・カー』(2021)の悠介(西島秀俊)は、なぜ役柄を演じることを「演じる」ように表象されているのか。

 濱口は、著書『カメラの前で演じること』(2015・左右社)において『ハッピーアワー』の演者たちにニュアンスを込めず、抑揚を排して読み上げるよう指示していることを明らかにしている。そして、そのような方法論を採用することで「テキストそのもののような、声」に生成する。濱口は、次のように語っている。

 

 彼女らは自分で自分の台詞を無色透明なまま「聞いて」覚える。芯の通った声自体、一つの判子のようであり、自分自身にテキストを判で押して行くようだった。彼女らもまたテキストを聞きながら、変わっていっているようだった。日常生活であれば、その言葉に付随してついてくるであろうニュアンスや抑揚を振り落とすことで初めて、その人がこんな声をしていたのか、と気づく。

 からだ独自のグルーヴ(揺らぎ)は保ちつつ、何度でも、正確に、どの箇所も同じ強さで、テキストを読み上げる。その調子が、脚本を伏せても保たれるようになる。目を閉じて聞くと本を読んでいるのか暗誦しているのかわからなくなるその頃に、声にはある一定の「厚み」が与えられるようだった。非常に安定した演者たちの声はまるで「テキストそのもの」のようだ。ただ、同時に、それは当然彼女たち自身の声である。剥き身の声とでも言うべきか。彼女たちもまた聞くことで変わる。繰り返される本読みの中でテキストを聞き取り、彼女たちは「テキスト的人間」になりゆくようだった。テキストがはらわたに落ちた状態とでも言おうか。それはテキストがテキストのまま、演者に保持されている状態であり、テキストと演者それぞれ別のもののまま、共存しているような状態だ(濱口 2015: 64)。

 

 以上のような濱口の演出法によって、自己が「自己」のための言葉を獲得する。「はらわた」に言葉が落とし込まれることで言葉に生命が宿るのである。

 『ハッピアワー』において、人間関係=「重心」の変化は、自己の変化と並行する。「重心」を生成するとき、そして「重心」が移動するとき自己の変容を問われるわけである。しかし、他者関係の全体に言葉が追いつくことはない。『ハッピーアワー』における四人それぞれは互いに試練を抱えていた。有馬温泉の場面は、象徴的である。

 有馬温泉の場面は、四人が揃う最後の場面である。ここで、四人は初対面かのように「はじめまして」と各々の自己紹介を始める。では、なぜ「はじめまして」なのか。四人は一連の出来事を経て、それぞれの「重心」が変化してきた。そして「重心」の変化は、それぞれの印象も変化させる。なぜなら、自己と他者はそれぞれの言葉と身体の調整のなかで初めて存在できる「演技的存在」(三浦哲哉)だからである。有馬温泉旅行に至るまでの過程において、各自が自己の「はらわた」に宿した言葉を所有していた。その言葉が、有馬温泉の場面で結実しているのである。そして「重心」の変化は、自己が「自己」のまま、新たな「自己」として変容させるのである。

 濱口の「はらわた」に落とし込まれた言葉という視点は、『ハッピーアワー』以後の作品においても重要な位置を占めている。『ドライブ・マイ・カー』においては、映画内において本読みの実践が大きな比重を占めている。また『寝ても覚めても』で、朝子(唐田えりか)が麦(東出昌大)に対して、最低限の言葉で愛を伝えるのは、「はらわた」における言葉の生成途中である。朝子が発する言葉の余白は、ラストの場面に結実するわけである。

 「はらわた」に落とし込まれた言葉は、必然的に身体に変容をもたらす。なぜなら、言葉が物質性を帯びて身体に現前するからである。そのような濱口の手法は、表象外の観客にも変容を求める。

 濱口作品のラストにおける登場人物たちの変容してきた姿は、いつも美しい。そして濱口作品のラストは物語の「先」、あるいは「外部」を探求していく。『ハッピーアワー』は、神戸を旅立った純(川村りら)を乗せた船が水平線の「先」を航海していく。『寝ても覚めても』は、丸子亮平(東出昌弘)と朝子が共に見つめる天野川の「先」の広大な海の景色で終わる。そして『ドライブ・マイ・カー』では、悠介の愛車をみさき(三浦透子)が「先」の見えない道路を運転する景色で終わる。では、表象「外」のわれわれ=観客はどうか。表象内で変容してきた登場人物たちと同様に、映画館の「外」に出たとき、確かな自己の変容を感受することだろう。

 

 言葉は故郷を失い、自己の身体は亡霊化するーー。そのような情況において人々が、濱口の作品を求めるのは必然的帰結である。いや、人々だけではない。社会もそのことに気づいているはずである。恐れずはっきりと断言するのであれば、こう言えるだろう。社会それ自体が濱口竜介を求めざるを得ないのである、と。