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研究と批評.

〈共〉は革命的たりえるか ③

 レントとは本来、地代や不労所得を意味する概念である。マルクスは、『資本論』において生産過程の内部で生産された価値を生産過程の外部から収奪する仕組み、すなわち地代について記している。マルクスは『資本論』最終章「諸階級」において次のように記している。

 

労賃、利潤、地代をそれぞれの収入源泉とする単なる労働力の所有者、資本の所有者、土地所有者、つまり賃金労働者、資本家、土地所有者は、資本主義的生産様式を基礎とする近代社会の三大階級をなしている(Marx 1972: 892)。

 

 労賃と利潤とは異なり、土地所有者は土地の希少性であることにより資本家との間で剰余価値を分け合う権利を持つ。地代は生産過程に外的な収入カテゴリーであり、希少性だけを根拠に剰余価値を収奪する。そしてこのような事態が生じたのには、共有から私有への移行が、土地レントを発生させたということである。つまりは、将来見込まれるレント総額の割引現在価値が、土地の価値である。

 しかしネグリ/ハートは、レントを生政治的生産に基づくポスト産業資本主義の中で働く〈共〉の捕獲装置として捉え直そうと試みている。そして生政治的生産に基づくポスト産業資本主義においては、「利潤がレント」になる傾向があると指摘している。なぜならポスト産業資本主義においては、マルクスが想定したような工場を越えて社会全体へと拡がった協働のネットワークを通して生産される〈共〉が富や価値の源泉となっているからである。

 ネグリ/ハートが、レントや金融資本に関して言及している箇所を引用する。

 

工場では、資本家が指示する計画や規律に従って労働者が協働するが、採取では、資本が直接的には組織していない社会的協働から価値が生じる。この意味で社会的協働は相対的に自律している。このように、採取が新たなかたちで中心を占める事態は、利潤からレントへの歴史的移行の中に位置づけられる。産業[=工業]資本家は労働に規律を課し、利潤を求めて搾取を行なったが、レント取得者は〈共〉を採取し、生産にはほとんど関与せずして既存の富を蓄積していく(アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート, 2022, 『アセンブリ岩波書店, p.227)。

 

最後に、今日においてはグローバルな統治形態、換言すれば、分散型の多層的な〈帝国〉が姿を現しつつあるが、そうした〈帝国〉の目的は、貨幣を生の形態として、また労働と搾取の生政治的制度の形態として組織すること(そして、階級社会の再生産にとって必要な政治的管理を確立すること)にある。国民国家、とくに支配的な国家群は、このように現出しつつある統治形態の中で不可欠の機能を果たしているが、たとえ多国間で協力したところで、それらの国家が主権的な管理を〈帝国〉に対して行使することはできない。それどころか、金融市場は今日、世界貨幣に近づきつつあるものを創出する上での鍵となっている。この貨幣は、社会的生全体から生み出される価値を抽出し、採取し、そして生政治的に搾取することにもとづいている(同上, pp.255-6)。

 

 ネグリ/ハートによれば、レント取得者は〈共〉を採取し、生産にほとんど関与せず既存の富を蓄積する。そして金融資本は、生政治的に搾取することに基づいている。かつてネグリ/ハートは『マルチチュード』において、金融資本の特徴を二点指摘していた。第一は「貨幣を媒介にした高度の抽象化によって、広大な労働領域を表象できる」(アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート, 2005, 『マルチチュード岩波書店, p.152)という点。第二は「金融資本とは、私たちにとって未来の〈共〉的生産能力を全般的に表象するものとして機能している」(同上, p.152)という点である。そしてネグリ/ハートは、金融資本がマルチチュードコミュニズム両儀的であれ、次のように展望していた。

 

金融資本が未来に向けられ、広大な労働領域を表象するものだとすれば、逆説的にではあれ、そのなかに出現しつつあるマルチチュードの姿を、たとえ逆転し歪んだ形ではあっても、見出すことができるかもしれない。未来の生産性がますます〈共〉になることと、それを統制するエリートの数がますます少なくなることの矛盾は、金融において極限に達する。いわゆる資本の共産主義ーーすなわち資本が労働をいっそう広範な社会化へと駆り立てることーーは、両儀的にではあるがマルチチュード共産主義を指し示しているのである(同上, 153)。

 

皮肉なことに、強大な抽象化の力が働いている金融の世界は、マルチチュードの〈共〉的な社会的富と、未来へと向かう潜勢力の両方が表現された格好の例だが、その表現は私的所有とごく少数の人間がコントロールを握ることによって歪められている。私たちの課題は、人類の遺産を管理運営し、食糧、物質的な財、知識、情報その他あらゆる形態の富の未来における生産を指揮するために、男も女も労働者も移民も貧者も、マルチチュードの全要素を巻き込んだ〈共〉の道筋を見出すことにある(同上, 196)。

 

 逆説的ではあれネグリ/ハートは、金融資本に表象される広大な労働領域がマルチチュードによるコミュニズムの可能性を見出している。だがいまは、私的所有と少数の人間によって歪められているだけである、と。

 しかし未来を思考=志向するためには、現在を起点に考えなければならないのではないか。ネグリ/ハートは、生政治における社会的協働は〈共〉を生産すると指摘していた。なぜなら知的能力などが投下されるからである。そして、このような〈共〉は私的所有として囲まれれば囲まれるほど生産性を下げるのである、と。

 だが知識や能力が未来において、いわばレントの回収として機能する根拠はどこにあるのだろうか。奨学金を背負った〈借金人間〉(ラッツァラート)でしかない学生が、確実に利潤を生む根拠はどこにあるのだろうか。ネグリ/ハートは真剣に考えてはいない。ネグリ/ハートは、あまりに表面的なリアルしか見ていないのである。

 

 ところでネグリ/ハートは、所有なき〈共〉においては主体性は所有によって規定されないとしている。マクファーソンが「所有的個人主義」と提起していた主体性は失効しているのだと批判するのである。ではネグリ/ハートは、主体性をいかに捉えているのか。ネグリ/ハートは次のように言及している。

 

〈共〉における主体性は、所有にではなく、他者との、そして他者に開かれた相互作用に基礎を置いている。主体性は所有によってではなく依存によって、あるいはより適切には、共同存在、共同行為、共同創造によって定義されるのである。主体性そのものが社会的協働から生じるのだ(アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート, 2022, 『アセンブリ岩波書店, p.150)。

 

 ネグリ/ハートによれば、他者との繋がりこそが主体性を確立する。だが他者間の相互作用やコミュニケーションは、あまりに崩壊しているとも言えるだろう。自己と他者の間には無数の亀裂が生じているのである。たとえば、SNS空間における差別的言説はいかに捉えればいいのか。ネグリ/ハートに即せば、それも〈共〉なのである。このような言説はますます支配的になっているだろう。ネグリ/ハートたちコミュニストは為すべき抵抗ができているだろうか。ネグリ/ハートは、失敗から生起する「成功」を排除しているのである。

 ではなぜネグリ/ハートは、そのような展望しかできないのか。それはネグリ/ハートは、資本主義、すなわち〈帝国〉の内部から革命を展望しているからだろう。つまりは、そこには相互的に通じ合える他者しか存在しないのである。

 ネグリ/ハートは〈帝国〉、生政治的社会においては、絶えず「新しい主体性」が生起し続けるのだとしている。だが、「新しい主体性」など誕生しようがあるのだろうか。新しい主体性が創造するには他者では不十分ではないか。ネグリ/ハートは、他者とのコミュニケーションや協働が〈共〉を生成すると言う。だが、コミュニケーション新たな主体性を創造するというよりも、内部の既製品、あるいは鏡像としての他者を再生産する程度のものだろう。はたして〈共〉は革命的なのだろうか。

 とはいえネグリ/ハートの提起は、アクチュアルである。だがここまで言及してきた通り課題も山積みである。その課題を解決するのが、われわれコミュニストの使命である。その先に、「別の生」(フーコー)が誕生することだろう。