水平線

研究と批評.

『ニトラム/ NITRAM』(ジャスティン・カーゼル)

「でも、気がくるっている人のところには行きたくないです」とアリス。

「そりゃあ、しょうがないだろう」とネコ。「ここじゃあ、みんな気がくるってるんだ。おれもくるっている。君もくるっている。」

「どうしてわたしがくるっているってわかるんです?」アリスは言いました。

「そのはずだよ」とネコ。「さもなきゃ、こんなところに来ないだろ?」(ルイス・キャロル, 2010, 『新訳 ふしぎの国のアリス角川つばさ文庫, pp.105-6.)。

 

 かつてマーク・フィッシャーは、資本主義と精神疾患の関係について次のように問題提起していた。

 

この資本主義社会における「精神疾患の大流行」から示唆されるのは、資本主義が唯一機能しうる社会制度であるというよりも、それが本質的に機能不全であり、かつ機能しているという建前を維持するコストさえも非常に高い、ということではないだろうか(マーク・フィッシャー, 2018, 『資本主義リアリズム』堀之内出版, p.56)。

 

 フィッシャーの提起は重要である。フォーディズムからポスト・フォーディズムの移行、すなわち「生政治」(フーコー)、「感情労働」(ホックシールド)の時代においてますますリアルなことだからである。われわれは、マルクスが分析した商品だけでなく、「非物質的労働」(ネグリ/ハート)や不可知な他者の内面にまで心身を最大限働かせなければならないのである。

 資本主義それ自体が狂っているのであれば、このような社会において自己を維持するには、薬物やカフェイン、アルコールに依存するほかない。ニトラム(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)のように抗うつ薬に頼り、辛うじて日々を過ごし切る。そのような社会が、欺瞞的で収奪的で暴力的にならざるをえない、腐朽的な社会であろうと包摂されつつ生き延びるのである。

 とはいえニトラムは自己が他者とは異なり異常であることを認識している。だからこそニトラムは、「普通」の人々(とひとまずここでは定義しておこう)のようになろうと努力する。だが、正常/異常、理性/狂気といった単純な区別があまりに無益だと言えるだろう。というのも、個人に狂気や病、精神障害などの刻印をすることで資本主義システムは健常のように振る舞うからである。言うまでもなく、人間は狂っても病むのもよい。そもそも人間は本質的に狂ったり病んだりするものだろう。だが資本主義は、人間を都合よく狂わせたり、病を煩わせるのである。

 さらに生政治時代における労働は覚醒作用だけが必要なのではない。今日の労働はますますグロテスクな相貌を帯び、新たな局面に入っていると言える。今日の労働においては、ネグリ/ハートが指摘しているように労働時間と余暇時間の境界が曖昧化している。だからこそ心身は覚醒状態が持続せざるをえない状況が維持される。だが労働力再生産のためにはずっと覚醒しているわけにはいかない。だからこそ、チルドリンクのようなクールダウンするためのドリンクも流行しているのだろう。ますます自己は、薬物などに依存せざるをえないのである。

 

 とはいえ、ニトラムのように無差別に「銃」を乱射したところで「自由」が訪れるはずがない。腐朽的な社会で「不自由」であることを精査すること、逸脱から「逸脱」すること。「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)の悪夢から覚醒するとき、個人が有している「力能」は、リアルと「別の世界」、「別の生」(フーコー)の間隙に確かな銃弾を放つことだろう。その銃弾は、あまりに腐朽的な社会を貫く。その先の社会にこそ真の「自由」が展望できるのである。