水平線

研究と批評.

『三度目の、正直』(野原位)

幾千もの声をもつ多様なものの全体のためのただひとつの同じ声、すべての水滴のためのただひとつの同じ《大洋》、すべての存在者のための《存在》のただひとつのどよめき。それぞれの存在者のために、それぞれの水滴のために、そしてそれぞれの声のなかで、過剰の状態に、すなわちそれらを置き換えかつ偽装し、そしておのれの可動的な尖端の上で回りながら、それらを還帰させる差異に達したのであれば(ジル・ドゥルーズ, 『差異と反復(下)』河出文庫, p.351)。

 

 水平線から到来する無数の波の群れが交わす緊迫した、とはいえ希望も絶望もない力ないし可能態の「結果」としての海洋の光景を、そして海洋と無数の波との差異から生起する「永劫回帰」の交換を端緒とすべきである。ここから物語は始まるのである。

『ハッピーアワー』(2015)は、純(川村りら)を乗せた船が水平線の彼方を航海するであろう光景で終幕した。来たるべき水平線の彼方=未来は、7年後の『三度目の、正直』(2022)で結実したかのようである。

 

 われわれの生の過程は、崩壊の過程である。死を生の「外部」に据えることは平凡なニヒリストに過ぎない。だからこそ、あるいはしかし、われわれは生を全面的に肯定しなければならない。つまりは、崩壊の過程として老い果てる生を内在的な規則性として出発することが最低限の条件であることを確認しなければならないのである。なるほど、われわれは何のために生きるのかと問うのであれば、死ぬために生きるのである、と。

 とはいえ人間は、自己それ自体、「死の先駆」(ハイデガー)を目的に生きることに耐え難いことだろう。いや、自己のために生きることは変わることはないのかもしれない。だがしかし、死へ至る過程において、何のために自己のために生きるのか。レヴィナスは、次のように言及している。

 

「真の生活が欠けている」。しかし、私たちは世界に存在する。形而上学は、真の人生の不在のうちで出現して維持される。形而上学は、「他所」、「別の仕方」、「他者」に向かう(イマニュエル・レヴィナス, 『全体性と無限』岩波文庫, p.30.)。

 

 自己にとって真の人生とは何なのか。そのように問うとき、形而上学的欲望に駆動されて、真理を探究する。だが、そのような真理は自己の人生の中には存在しない。なぜなら、「真の人生とは何か」という問い自体が、自己のための人生から逃走したいという欲望の表出だからである。では、われわれは自己ではない、いかなる他者に真の人生を探求するのだろうか。

 人類の未来に関して、人類の子どもだけが未来における絶対的希望であるという議論が蔓延している。子どもとは、無条件に「歓待すべき他者」(デリダ)なのである、と。そうした「生殖未来主義」(エーデルマン)は未来と子どもを同一視している、そもそも未来=子どもは存在していないにもかかわらず、である。

 こうした「生殖未来主義」的な価値観は、月島春(川村りら)にも受け継がれている。さらにここで重要なのは春には、血縁の繋がった子どもがいないということである(パートナーの宗一朗の娘・蘭はいるが、カナダ留学のため出ていく)。だからこそ生き倒れた少年を見つけ、家まで連れて帰り「生人」(この名前は、後に春が流産した子どもに命名するはずであった名前であることが判明する)と名づけるのである。物語途中で、生人(本名は明であることが判明する)の実父が逢いに来ても春は、「生人」であることを譲らない。

 春にせよ実父にせよ、生人=明という対象にだけ関係性を求めている。しかし、忘れてはならないのは生人=明には現前する「人間」それ自体が存在しているということである。家族であれ、自己と他者の一方的で非対称的な関係は、縺れ合いながら複数の人間から生成される人類が現前するのではないのか。

 

 物語終盤、朝帰りになってしまった春と生人は日の出を見ようと電車の中で会話している。しかし、降車間際にマフラーを取りに戻った春は電車から降り損ね、先に降車した生人と離れ離れになる(このショットは『ハッピーアワー』のオマージュであろう)。そして、この日から生人との連絡は絶たれる。

 生人は暗闇に覆われた海にやってくる。雲に覆われた水平線をゆっくり見つめ、生人は目を閉じる。この瞬間に「三度目の、正直」というタイトルが回収されることだろう。「三度目」とは、父、母を超過した幾千なる自律的な子どもの決断である。「三度目の、正直」における「、」には、重層的な時間経過と幾度の留保、中断があることだろう。

 生人は、ゆっくりと瞼を開ける。朝日は射し込むだろうか。いや、きっと射し込むことだろう。タイトルの「、」の記号は消失し、同時に何かが始まるのである。この「何か」は決してわからない。生人が見つめる水平線の先=未来は、希望も絶望もない、しかし晴れやかな光景がただそこに「ある」のである。