水平線

研究と批評.

黄昏の水面ーー1-3-5、あるいは4-1-3の紙片

人間的な遊び=賭けにおける仮定は、〈善〉と〈悪〉に関するものであり、その遊び=賭けは、道徳性の学習である。そうした悪しき遊びのモデルは……パスカルの賭けである……神的な遊び=賭けはそれとはまったく異なっており……わたしたちにとってはもっとも理解し難く、表象=再現前化の世界において操ることのできない遊び=賭けである(ドゥルーズ『差異と反復』河出文庫)。

 

 人間は、偶然に耐えることができない。とはいえ必然に耐えれるほど慥かな存在でもない。だからこそ人間は「存在の耐えられない軽さ」から逃れるために、一つの手段として偶然と必然の間隙に確率論的な「必然性」を導入し物語を構築することで自己の存立を可能にしようとするのである。

 

 コロナ禍以降、競馬や競艇(ボートレース)の売り上げが過去最高を更新している(※1)。とりわけ競艇は競馬が基本土日開催であるのに対し、全国の会場で毎日のように開催されていることもあり、「2021年度は前年比114.1%の2兆3926億2126万1100円」(※2)と過去最高の売り上げを記録している。コロナ禍における巣篭もり需要など、誰もが思いつくような表層的な要因を指摘することは可能であるが、それだけでは不十分だろう。

 「賭け」とは一体何なのか。それは自己根拠化する社会、自己以外の規範が消失する社会において、自己が無限性の中で有限的な時間内において決断し構築した必然的な物語を他責化させることだといえる。それは、新自由主義的な自己責任時代における逃避場ともいえる。実際、競艇場ではレース開始前に「展示」というボートのモーター状態やボートのターン具合を観客が確認することのできる時間がある。この時間は、自-他の権力関係が明瞭になる瞬間である。

 

 レース毎の開始前の数十分は、誰もが格差なき平等であり一発逆転の可能性を孕んでいる(賭け金に格差が生じるのではないかと疑問が生じるかもしれないが、オッズ次第では100円が数十万になる可能性もある)。そして誰もが、自らが選択した数字の組み合わせに必然的物語を構築している。この時間はあまりに革命的な時間であり、新自由主義的ではない。

 とはいえ、当たり前だがレースに勝つ者はほんの僅かである。だが、ここで勝者/敗者という対立軸が成立するだろうか。自-他との間に何か差異があるのだろうか。こうした自己再帰的な勝/負の経験では、陰謀論的表象から抜け出せない。なぜなら超越論的な他者が不在であり、いくらでも操作可能だからである。これこそ近代以降の病であったはずである。

 

 さまざまな憶測や陰謀論が表象化される時代において、そして自己再帰的な時代においては、どこかで決断と確立を迫られる。なぜ「この数字」、「この対象」を「この今」選択したのか。ドゥルーズは、次のように言及していた。

 

理念的ゲームは、思考そのもののリアリティーである……[それは]各思考を分岐させ、「その都度」(toutes les fois)のために、「それぞれ」(chaque fois)を「一度に」(eu une fois)結びつける。というのは、すべての偶然を肯定すること、偶然を肯定の対象とすること、これをできるのは思考だけだからである(ドゥルーズ『意味の論理学』河出書房新社

 

 必然だと選択した数字の羅列が、当たったとき人間は驚愕に満ちる。これは矛盾である。なぜ、自己決断して選択した数字が当たって驚くことになるのだろうか。まさに賭け事、あるいは「賽の一振り」(マラルメ)とは、「自己」と「その瞬間」が驚愕に満ちた瞬間であることを教示してくれるのである。

 1-3-5、あるいは4-1-3か…。約4分間のレース中に響く歓声と怒声。ゴミ箱に山積みになった外れ舟券は、世界が偶然性でしか提示できないことのあらわれである。そして外れ舟券の数だけ、人間は明日の世界を引き受けるのである。

 

(※1)https://number.bunshun.jp/articles/-/853356#:~:text=2021年度、前年度比,を記録したボートレース%E3%80%82 

(※2)https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/900994/#:~:text=ボートレース振興会は,年度比増だった%E3%80%82