水平線

研究と批評.

『草の響き』(斎藤久志)

人間を狂った生物とする考え方がある。実際、有機体が、確定的な生の方向=意味に従って、プログラムされたコースを歩んでいくとすれば、方向=意味の過剰を自然史的アプリオリとする人間は、放っておけばどちらを向いて走り出すかわからない、大変厄介な存在である。有機体が本来の意味で死を知らず、淡々と成熟し、生殖を行ない、ある時ふと生存を停止するだけであるのに対し、人間はあえて自殺することもある存在であり、また、毒キノコを例にとれば、有機体にとってそれが〈毒〉という機能的意味しかもたないのに対し、人間はその上に〈妖しい美しさ〉や〈まがまがしさ〉といった象徴的意味を塗り重ねずにはおかないのだと言えるだろう。(中略)してみると、人間はホモ・サピエンス(理性のヒト)である以前にまずホモ・デメンス(錯乱のヒト)なのだというモランの主張は、当然至極なものと言うことができる(浅田彰『構造と力ーー記号論を超えて』)。

 

 人間は過剰を抱えたまま、とりわけ象徴的意味の紐帯が緩みきったときの静態に耐えられなくなったとき、人間は一方向に走り出す。一方向への絶えざる前進とは、破局の絶え間ざる延期であり、安定の享受である。だからこそ人間は目的よりも先に、何ら絶対的基準を持たぬまま、ただより速く、より遠くまで進むことのみを念じてやまないのである。

 だが、このコードから逸脱するとき、人間は病理に陥る。それが近代社会における差異的体系の宿命だからである。それが今日、和雄(東出昌大)のような精神疾患としてあらわれているのである。

 とはいえ精神疾患の苦しみは、当事者とそれ以外の他者との間にあまりの断絶が生じている。奈緒(工藤純子)が「自分だけ傷ついているみたいな言い方しないで」と和雄に言い放つのも、医師が「こっちだって辛いんですよ」と和雄に諭すように言うのも何ら不思議ではない。彼/女たちは、どれだけ日々の中で苦しみを感受しようとも、市民社会のコードから逸脱していない、すなわちドゥルーズ的な捉え方ではなく、健常者/障害者という見方でしか社会を捉えていないからである。

 

 人は一度、鬱病パニック障害を患ったのであれば、完治することはないのかもしれない。それは抗うつ薬等で誤魔化しつつ、死ぬまで付き合わなければならない「寛解の連続」なのである。ただでさえ精神疾患者は医師と対話する時間も限られ、親密者とも意思疎通が疎外され、孤独が増大化する。残されたのは、抗うつ薬に頼るか、あるいは本作のように運動療法による「走る」ことを実践するぐらいだろう。

 ところで、「走る」ことと「言葉」は似ている。どちらも意味や目的を追い求め続けては追い越されざるをえないのだ。だからこそ終盤、和雄と奈緒との対話が、作中初めて真正面のショットで捉えられたシーンはあまりにも美しい。この瞬間にこそ抗うつ薬では解消できない、ラカンが定式化する「象徴界」の外部に張り付いたトラウマがほんの一瞬だけ言葉によって剥がれ落ちたシーンなのである。

 曇天の下、和雄は精神病棟から抜け出し裸足で走り出す。彰(Kaya)のように目の前の海に身を投げ出すのだろうか。あるいは、車の走る道路に飛び出すのだろうか。そうではないだろう。不気味な笑みを浮かべて走る和雄に希望を見出すことは「できない」。和雄が走り出した先が何処だかはわからない。だが/おそらくきっと、その先では何かが狂い、何かが正される。そして何かが動き出すのである。微かな「草の響き」を残して。