水平線

研究と批評.

『すずめの戸締まり』(新海誠)

国民が家父長的部族として表象されるのでもなく、また民主制とか貴族制とかいった形式が可能であるような未発達の状態にあるものとして表象されるのでもなく、そうかといってまた、有機的組織を欠いたでたらめの状態にあるものとして表象されるものでもなくて、内部的に発展した真に有機的な総体として思惟される場合には、主権は全体の人格性として存在するのであり、そして人格性はその概念に適った実在性においては君主の人格として存在するのである(ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』中公クラシック, p.315.)。

 

 旅をする草太は扉の向こう側から訪れる災いを防ぐために、その扉を閉じ鍵をかける「閉じ師」として全国を旅する。この草太の姿からも示唆されるように、一人で全ての国民を救う(ような機能を表象する)姿は、まさに3.11以降における天皇の被災地訪問と重なり合うことだろう。 

 前作『天気の子』(2019)は、この世界=東京よりも「あなた」と「わたし」の選択によって2人の「世界」が変わる、いわゆる「セカイ系」に属する作品であった。だが本作『すずめの戸締まり』(2022)は、単なるセカイ系作品ではない。鈴芽は草太を救済する、と同時に鈴芽は「国民」も救済しなければならないんだ、と叫ぶ。実際、3.11以降における国内の空気は「否定」を許さないような「災害ファシズム」が蔓延していたと言えるだろう。そして災害による故郷喪失は、誰もが何かの救済を望んでいたであろう。

 

 物語終盤における草太からも明らかなように天皇とは何度でも生まれ変わり存続していく存在である。災害は一時的な「災害ユートピア」(レベッカ・ソルニット)を形成するだろう。だが、そのような「災害ユートピア」=市民社会は儚く、脆いものである。

 かつて津村喬は、天皇制を都市というパースペクティブにおける「差別の構造」と捉え、それはマイノリティを構造化して排除し、同時に抱え込んだものとしてみなしていた(津村喬, 1970年『われらの内なる差別』)。しかし、今日におけるPC(ポリティカル・コレクトネス)時代においては津村の差別論もPCへと回収され希薄化されていくことだろう。絓秀実は、次のように指摘している。

 

しかし、われわれの文脈で言えば、猪俣の天皇制批判を継承していたはずの津村的日常生活批判や差別論がPC(ポリティカル・コレクト)へと回収・転換され希薄化されていくにともなって、そこに込められていたはずの現代天皇制への問いも、同様に消失へと向かっているように見える。PCとは資本主義を受け入れた上での心情的な疾しさだから、資本主義や、そのなかで「構造化」されている天皇制についての批判は、当然にも後景化されるほかない(絓秀実, 2014『天皇制の隠語』)

 

 PCの邁進による「疚しい良心」に耐えられない者は、自ずと排外主義的に向かう。2011年以降の世界的ポピュリズムの勃興、本作にも度々表象されるSNS空間、その表象空間における言論の不自由は、そのことの証左である。だからこそ三島由紀夫は、言論の不自由を解消するために「文化概念としての天皇」を創出しようと努めたのだ。三島にとって「文化概念としての天皇」として言論の自由が確保されない限り差別の問題は解消されないと確信していたのである。

 ヘーゲルが『法の哲学』で指摘していたような「蓋」としての超越性≒「文化概念としての天皇」とは、本作における草太=閉じ師の役割であろう。実際、ダイジンによって草太は椅子に姿を変えられが、椅子の脚は一つ欠損して三本である。この欠損は、不能な「父」=「蓋」を象徴していると言える。

 

 ラスト、見慣れた人影が鈴芽の前から歩いてくる。草太だろう。鈴芽は「おかえり」と声をかける。たしかに草太は「存在」[Sein]しているのだろう。だがはたして草太は「実存」[Existentialismus]しているのだろうか。鈴芽が眺める坂道から、たしかに広がる海洋の彼方から幾千もの死者と生者の声が入り混じり風に乗って届くことだろう。