水平線

研究と批評.

『PLAN75』(早川千絵)

崩壊の過程としての生を肯定すること、それは何よりも「老いてあること」或いは「老いつつあること」を肯定するに他ならない。言うまでもなく、「老い」とは可視的な、そして内在的な経験としてある不可避な崩壊の過程そのものだからである。「老い」は死への敗北の予兆などではない。「老い」は純粋化された生の過程そのものなのである。老いは生への全面的肯定そのものなのである。生への肯定は老いをも含めて肯定する優しさではなく、厳密に言えば、老いそのものを肯定する身振りなのである。と言うのも、たぶん、生とは「老いの過程」に他ならないからである(丹生谷貴志, 1996『死体は窓から投げ捨てよ』p.21.)

 

 「増えすぎた老人の皺寄せを若者が受けるような仕組みを変えて欲しい」。冒頭、若者のモノローグから始まり、若者は自ら銃で自殺する。本作は、75歳以上が自らの生死を選択できる「プラン75」という架空の制度を媒介に翻弄される人々を描いた近未来の作品である。だが、はたして本作は近未来の話で済むのだろうか。われわれは「プラン75」という制度のない社会を生きているが、生産性のない者は社会から排除させようといった無言の脅迫があるのではないか。

 かつてマルクスが想定した労働者は、工場の生産ラインで従事する労働者であった。だがフォーディズムからポスト・フォーディズムの転換は、労働の量だけではなく実存的な質を要求するようになった。つまりはフーコーが提起していた自分自身の企業家としてのホモ・エコノミクスの再定義、すなわち「人的資本家」として生存することを要求したのである。そしてポスト・フォーディズムの転換とは、資本が男女平等に作用することを意味する。ホテルの清掃員として働いていたミチ(倍賞千恵子)の同僚が勤務中に倒れてしまい、ミチを含む高齢労働者がまとめて解雇されるのは何ら不思議ではない。自らの主体性は自分自身で生産しなければならないのだ。

 

 高齢者たちは次々に「プラン75」に加入していく。なぜこれほどまでに計画的な死を望もうとするのか。生と死は、ただその瞬間に「ある」だけではないのか。計画的な「死」を実現させようとする要因とは何なのか。

 確かなことは新自由主義的な経済成長に内在する、ケアに反する実践が市民の福祉を保障することよりも優先されてきたということである。すなわちケアとは自己責任であり、社会が引き受けるものではないというメッセージである。ケア・コレクティヴは、次のように言及している。

 

コミュニティ資源の削減、人々よりも利益を優先する文化、そして、個人としての自己にのみ関心を集中させようとする社会的・政治的な景観は、民主主義を高めるためのコミュニティでのつながりを育成していくことが、これまで以上に難しくなったことを表しています。このようなケアのない世界は、共有されたアイデンティティを排除と憎悪に基づかせる、悪名高いケアしないコミュニティが成長する肥沃な土壌を生み出します。その典型例は、ミソジニストのインセルと、白人のナショナリスト集団です。それだけでなく、ケアしないコミュニティは、人間の成長を促すための社会給付ではなく、取り締まりや監視への投資に集中します。そして、ケアのなさがあまりに多くの生活領域を支配するようになり、コミュニティにおけるつながりが極端に弱くなると、ケアを支える好ましい社会基盤として、家族が登場するのはよくあることです(ケア・コレクティヴ『ケア宣言ーー相互依存の政治へ』pp.29-30.)。

 

 コミュニティの削減によるケア領域の縮減は、最終的に「家族」の支えに助けれられる。これは現実社会でも起きていることだろう。同時に家族の支えによるケアは、介護殺人という無惨な結末にも多々なる。

 だが本作が秀逸なのは、ミチをはじめ「家族」の存在が物語の後景に斥けられていることである。本作は、徹底的に家族の物語に回収されることを避けている。家族の物語にすることは社会的制度の不合理を隠蔽するのである。

 

 物語が進むにつれ市役所の「プラン75」申請窓口で働くヒロム(磯村勇斗)や死を選択した老人たちに"その日”が来る直前までサポートするコールセンタースタッフの瑤子(河合優実)の心情が徐々に変化していく。「プラン75」という制度は誰が作ったかわからない、どこに抗っていいのかわからないのだ。レヴィナスは、自己は他者との関係性を通じてのみ構築されるため、われわれは倫理的に他者のケアを強いられると論じた。またデリダは「異人」への無制限の歓待という倫理を提唱した。

 コレクティヴは「乱行的なケア」という概念を提唱している。コレクティヴは次のように言及している。

 

同様な精神で私たちもまた、乱行的にケアしなければなりません。乱行的なケアを称賛することによって、私たちは、行き当たりばったりに、あるいは無頓着にケアすることを意味しているのではありません。行き当たりばったりも無頓着も両方とも、実は孤立化したままの新自由主義的で資本主義的なケアであり、悲惨な帰結をもたらします。私たちにとって、乱行的なケアとは、最も親密な者から最も遠い者まで、ケアする関係を再定義するよう外に向かって拡散する倫理なのです。それは、もっと多くのケアを、現在の水準からすれば実験的で拡張的な方法で、実践することを意味しています。私たちは、ケアに関するニーズ提供のあまりに多くを、あまりに長い間、「市場」と「家族」に頼ってきてしまいました。私たちにいま必要なのは、ケアについての、もっと包容力のある考え方なのです(ケア・コレクティヴ『ケア宣言ーー相互依存の政治へ』p.72.)。

 

 ヒロムや瑤子は、制度の中でしか他者を見てこなかった。だがミチやヒロムの叔父に接することで大きな制度の中で失われている個人の尊厳に、生の「傷痕」に初めて気づくことができたのである。

 

 ラスト、ミチは一人で施設を抜け出す。ミチは夕日を眺めながら「林檎の木の下で」を口ずさむ。ミチは何を思うのか。社会は無言で「あなたは必要のない人間だ」と脅迫し続けることだろう。だが、日々朝日が昇り夕日が沈むように、生と死はただそこに「ある」だけだ。われわれにとって、生とは「唯の生」(立岩真也)でしかないのである。