水平線

研究と批評.

『Cloud クラウド』(黒沢清)

 黒沢清の作品における「ホラー」とは何か。ホラーという意味をコンスタティヴになぞっては、黒沢映画を解釈することは困難だろう。本作をストーリーだけを追いかけては、評価が低くなるのは当然だ。

 

 主人公の吉井良介(菅田将暉)は、転売ヤーで日銭を稼いでいる。
 ところで現代資本主義における賃金とは何か。かつてマルクスは、資本とは無限に終わらない「価値増殖運動」であると見抜いた。すなわち、労働者の賃金と商品の価値の差額こそが「剰余価値」であると見抜いたのである。だからこそ資本家は、労働者の労働時間を可能な限り引き延ばそうとするのである。
 だが、現代における資本主義システムにおいて、マルクスが想定したような図式は崩壊していると言えるだろう。現代資本主義は、工場のような環境でなくても自由に働くことが可能だからである。吉井のような転売ヤーのように、である。
 しかし、この自由こそが現代資本主義の罠であろう。吉井がする転売ヤーのように、目的が分からなくなるのである。それは、まさに「物神崇拝」(マルクス)である。さらに、吉井のような独立資本家のような存在は、インターネット上の見えない他者に向かって、転売をするわけであり、まさに「命懸けの飛躍」(マルクス)なわけである。

 

 終盤、突如物語は、アクションになる。観客は、一体何を見せられているのだろうか、何をしているのだろうか、と戸惑うだろう。次から次へと現れる敵に対して銃を放ち、応戦する。それでも敵は次々と現れる。いくら「銃」を放っても、吉井に「自由」は訪れない。吉井が無自覚に搾取した他者は、数知れないのだ。ここに本作における「ホラー」の意味が明らかになることだろう。

 ラスト、吉井とパートナーである佐野(奥平大兼)は、車でどこへ向かうのだろうか。きっと目的地などないだろう。資本の終わりがないように、2人が乗る車はどこまでも走るしかないのだ。

ただ在ることについての覚書①

 「おまえは偉くないので死んでください」と発言するとき、それは批判する/されるべきである。

 人は病で死ぬとしても、その瞬間までしたいことをすればよいし、楽をするべきである。社会に漂う安楽死尊厳死を「良い死」(立岩真也)とする言説は徹底的に批判されるべきなのである。留保なしの生存を妨げる諸々の規範や価値が渦巻く社会で「生きたいなら生きる」を実現することこそが、この社会における任務である。生きていて「偉い」とは、この社会において、ただ「在る」ことを意味していると言えるだろう。

 

 では一方で次のような言説はどうだろうか。よく某政治団体などで聞くフレーズである。「あなたは生きているだけで価値がある」。一見、美しいマニュフェストに見えるかもしれない。

 だが、ここで言う「価値」とは何を意味するのだろうか。この社会で安易に「価値」があると他者に言い放つことは、無自覚な暴力性が孕んでいるのではないだろうか。

 かつてマルクスは、労働こそが価値を生成するとしていた(「労働価値説」)だが、形式的包摂から実質的包摂(マルクス)が支配する社会において「価値」とは、非常に複雑な容貌を帯びることになる。

 

 次章では、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハートなどの議論を参照にし、現代における「価値」について探究していきたいと考えている。そのことによって、いかに現代社会に無自覚に浸透する「あなたは生きているだけで価値がある」という言説を批判的に検討していきたい。

 

(続く)

 

 

波音

定刻通りにしか着かなかった電車も

 

いまでは憎くない。

 

乾いた涙では、きみの瞳は映らない。

 

言葉がなければ、すべてが恋や愛だったのかな。

 

孤独がなければ、あの愛は永遠だったのかもしれない。

 

神様に吹きかけた煙は届かない。

 

海とさようなら。

 

もう水平線のような美しさに戻ることはない。

 

誰もいない砂浜で響く波音だけが、ぼくの救いだった。

『REVOLUTION +1』(足立正生)②

暴力は国際関係においてしだいに疑わしくて確実とはいえない道具になってきたが、国内問題では、とくに革命においては、評判と魅力を獲得するにいたっている。新左翼の強烈なマルクス主義的レトリックは、毛沢東が宣言した「権力は銃身から生じる」というまったく非マルクス主義的な確信の着実な成長とぴったり符合する。たしかにマルクスは歴史における暴力の役割に気がついていたが、しかしこの役割はかれにとっては第二義的なものであった。古い社会の終焉をもたらすのは暴力ではなくて、その社会に内在するもろもろの矛盾なのだ(ハンナ・アーレント, 2000, 『暴力についてーー共和国の危機』p. 105.)。

 

暴力を否定する人でさえも、うすうす感じているように、また、実際に経験してきたように、決まりきったかのように見える状況を切断して新たに動かすのは、もとよりそれは多くの場合、不発や失敗に終わるのだが、死をはらむ暴力をめぐる出来事である。それは不幸なこと、原罪に近いことであるが、そのような状況が、国や地域によっては、あるいはむしろ、世界全体にあっては、現に成立してしまっていることは確かなことであり、われわれもまた、この世では、それに相応しい構えをとらなければならないのである(小泉義之, 2022, 「暴力革命について」pp.132-3, 鈴木創士 編, 2022, 『連合赤軍ーー革命のおわり革命のはじまり』所収.)。

 

 本来人間とは法=正義なしに放置されるのであれば、互いに殺し合う本性をもっている。しかし近代社会への進展によって人間は、自由で平等な個人として社会に参画し、法=正義の原則を自ら制定して服従する。これが民主制=市民社会である。

 だが逆に言えば、民主制の内包には多くの条件が含まれていることを意味する。すなわち〈民主制の担い手〉(小泉義之)の条件を満たさない者は、囲いの外部に排除されて〈残された者〉(小泉義之)になるのである。小泉は次のように述べている。

 

民主制=領域国家は、〈残された者〉を外延的に確定する装置によって、〈残された者〉についてのたんなる観念体系が、誰かのことを表示し、誰かについて概念化している、と信じさせる。他方、人は、自分は〈残された者〉ではない〈残り者〉であると信じ、同時に、民主制の観念体系が自分のことを表示し、自分について概念化していると信ずる。人は、自分は〈残り者〉であるが故に〈民主制の担い手〉であると信ずるのだ。そして人は、〈残された者〉に対して共通のロゴスとパトス(sensus commnis)を抱く者を同類と信ずる。こうして民主制の理念は降臨して領域国家となる(小泉義之, 2010, 『「負け組」の哲学』pp.82-3)。

 

 以上から導きだせる一つの解は、次のことである。それは、民主制と国家の関係を切断する主体は、民主制に内包された者ではないということである。国家に正義を期待できないのであれば、誰かが国家権力に対して暴力で臨まざるをえないし臨まなければならないのである。

 終盤、達也の妹は(前迫莉亜)カメラ目線で民主主義の大切さを説く。だが、三島由紀夫が語っていたように民主主義とは暗殺である(たとえば中島一夫「暗殺と民主主義」を参考にせよ)。中島も指摘するように「議会制民主主義によって保障されている『言論の自由』は常にすでに危ういもの」なのである。ここに達也(タモト清嵐)の立場を思考=志向する余地があり、戦後の平和共存路線をいかに思考する余地があるだろう。

 

 社会が、あるいは政治が加速する時代において総合的決断するための時間は多く与えられるわけではない。だからといって、独裁的あるいは英雄的解決を信じることは危機の深刻化を招きかねない。とはいえ、達也のように「銃」弾を撃ったところで「自由」が到来するわけではない。

 ラスト、達也の姿勢は言葉以前の母親の母胎=母胎回帰のようである。だが社会、政治は言葉から逃げることはできない。最終解決のない「居心地の悪さ」と付き纏うことでしか、政治は可能ではなく、成功もしない。このことは未来の政治においても変わることはないのである。

 

 

『REVOLUTION +1』(足立正生)①

ドゥルーズは、革命について歴史的反省を繰り返す知識人を罵倒していた。レーニンの秘密文書がどうの、レーニン主義の政党がどうの、前衛主義や代行主義がどうの、革命的暴力の暴走がどうの、反省したい者はいつまでもやっているがいい。しかし、銘記すべきは、いつの時代にも、革命を必要としている人間、革命なくしては自由に生きていけない人間、革命を命がけで求めている人間がいるということだ。そんな人間には、反省している暇などない。断固として、いつか無力な者になる人間の立場に立つこと、無力な者を代行する立場に立つこと、レーニンのように、遠くからではあれ、無力な者に訴えることだ(小泉義之, 『「負け組」の哲学』p.60.)

 

 政治には、どうしても「居心地の悪さ」が付き纏う。不可知な他者と言葉を持ち、それゆえ善悪についての価値判断を下す他者と共に生きるということは、自己の思い描く世界像が実現できないことを思い知るからである。

 われわれは連合赤軍日本赤軍などの新左翼東アジア反日武装戦線による一連の暴力革命的行為を歴史的事実として知っている。われわれは暴力は悪であり、市民社会に帰属する人々の同質性に基づく自由で平等な個人による民主主義的実践こそが政治を変革する唯一の方法だと信じて疑わない。

 だが民主主義は自由と平等を前提としていると同時に、「不平等」を本質的に伴うものである。すなわち民主主義的実践とは、包摂と排除の構造が本質的に内在しているのである。

 

 2022年7月8日午前11時31分、奈良市近鉄大和西大路駅北口前の路上で放たれた銃弾は「革命」とまでは言えないが、われわれの想像力の彼方へと連れて行った。だが無論、あの行動を美化するつもりは毛頭ない。それでも、あの直接行動は「何か」を変えたのである。

 事件後にメディアに飛び交った多くの言葉は「暴力は許さない」、「民主主義を守ろう」といった言説であった。聞き飽きたフレーズである。小泉義之は、次のように指摘している。

 

 たしかにウェブ上には、一部のストリートには、政治や民主主義があったかもしれない。その限りで〈一を二に割る〉ことはあったかもしれない。しかし、一度でも、公的で社会的な諸機関が割れたことがあったか。にもかかわらず、これまであれほど公共的なものや政治的なものや民主主義的なものを称揚してきた人びとが、それに愛想をつかし始めているのである。(中略)

 私自身は、現在の分極化は、必ずしも深度の深くない対立であるからこそ収拾されてしまうとも考えているが、そんなことより肝腎なことは、やはり〈一を二に割る〉ことである。デモクラシーがいまだ価値ある政治的スローガンであるとするなら、あらゆる機関や組織を現実的に割ることこそがデモクラシーの始まりであると言わなければならない。〈公共〉の一を二に割らなければならない。一が二に割れ四分五裂する場が〈公共〉であると、多に割れても一を保つ場が〈公共〉であると言ってきた人びとにこそ、現実に〈公共〉を割ってみせてもらわなければならない(小泉義之, 2013, 「巻頭号: やはり嘘つきの舌は抜かれるべきであるーーデモクラシーは一度でも現われたか」『情況 別冊思想理論第3号ーーテクノロジーテクノクラシー・デモクラシー』所収. pp.10-1)。

 

 小泉の指摘は、現在まで持続している現象である。議会制民主主義は金権政治であり、機能不全である。それでもとりわけリベラル左派は民主主義の病に取り憑かれていると言えるだろう、民主主義のオルタナティブの想像=創造ができないのである。それは「不可能性の時代」(大澤真幸)、「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)とも言い換えることも可能だろう。

 川上達也(タモト清嵐)が若い女(森山みつき)と作中で、THE BLUE HEARTSの「未来は僕等の手の中」を歌う。だが「打ちのめされる前に 僕等打ちのめしてやろう」と叫んだところで、現代資本主義は資本蓄積のために自己の身体まで資本による「実質的包摂」(マルクス)を遂行する。フーコーは次のように指摘している。

 

 経済人とは交換を行う相手などではありません。経済人とは企業体であり、ひとり企業家なのです。どこまでこれがあてはまるのかといえば、実のところ、あらゆる新自由主義型の分析は、交換相手としての経済人を自分自身にとっての企業家としての経済人にその都度置き換えようとするのです。みずからにとって自己の資本であり、みずからにとって自己の生産者であり、みずからにとって収入源という存在に。

 

 作中からも明らかであるように達也は、「失われた30年」を過ごした世代である。達也はいくつもの資格を取得している。にもかかわらず達也は、派遣社員として職を転々とする。アダム・スミスが想定したホモ・エコノミクスからゲイリー・ベッカーたちシカゴ学派による新自由主義経済への転換は、世代間格差による自己価値をも決定するかのようである。

 

 ではわれわれには、政治を変革する民主主義的実践が虚無に覆われているのであれば、直接的暴力でしか解決策を示すことはできないのだろうか。そもそもわれわれにとって「暴力」とは何なのか。革命の終わりに「革命」の始まりを問い直すことは、未来の破滅の過程において新しい事態をもたらす唯一の行為である。

 

(続く)

  

 

『PLAN75』(早川千絵)

崩壊の過程としての生を肯定すること、それは何よりも「老いてあること」或いは「老いつつあること」を肯定するに他ならない。言うまでもなく、「老い」とは可視的な、そして内在的な経験としてある不可避な崩壊の過程そのものだからである。「老い」は死への敗北の予兆などではない。「老い」は純粋化された生の過程そのものなのである。老いは生への全面的肯定そのものなのである。生への肯定は老いをも含めて肯定する優しさではなく、厳密に言えば、老いそのものを肯定する身振りなのである。と言うのも、たぶん、生とは「老いの過程」に他ならないからである(丹生谷貴志, 1996『死体は窓から投げ捨てよ』p.21.)

 

 「増えすぎた老人の皺寄せを若者が受けるような仕組みを変えて欲しい」。冒頭、若者のモノローグから始まり、若者は自ら銃で自殺する。本作は、75歳以上が自らの生死を選択できる「プラン75」という架空の制度を媒介に翻弄される人々を描いた近未来の作品である。だが、はたして本作は近未来の話で済むのだろうか。われわれは「プラン75」という制度のない社会を生きているが、生産性のない者は社会から排除させようといった無言の脅迫があるのではないか。

 かつてマルクスが想定した労働者は、工場の生産ラインで従事する労働者であった。だがフォーディズムからポスト・フォーディズムの転換は、労働の量だけではなく実存的な質を要求するようになった。つまりはフーコーが提起していた自分自身の企業家としてのホモ・エコノミクスの再定義、すなわち「人的資本家」として生存することを要求したのである。そしてポスト・フォーディズムの転換とは、資本が男女平等に作用することを意味する。ホテルの清掃員として働いていたミチ(倍賞千恵子)の同僚が勤務中に倒れてしまい、ミチを含む高齢労働者がまとめて解雇されるのは何ら不思議ではない。自らの主体性は自分自身で生産しなければならないのだ。

 

 高齢者たちは次々に「プラン75」に加入していく。なぜこれほどまでに計画的な死を望もうとするのか。生と死は、ただその瞬間に「ある」だけではないのか。計画的な「死」を実現させようとする要因とは何なのか。

 確かなことは新自由主義的な経済成長に内在する、ケアに反する実践が市民の福祉を保障することよりも優先されてきたということである。すなわちケアとは自己責任であり、社会が引き受けるものではないというメッセージである。ケア・コレクティヴは、次のように言及している。

 

コミュニティ資源の削減、人々よりも利益を優先する文化、そして、個人としての自己にのみ関心を集中させようとする社会的・政治的な景観は、民主主義を高めるためのコミュニティでのつながりを育成していくことが、これまで以上に難しくなったことを表しています。このようなケアのない世界は、共有されたアイデンティティを排除と憎悪に基づかせる、悪名高いケアしないコミュニティが成長する肥沃な土壌を生み出します。その典型例は、ミソジニストのインセルと、白人のナショナリスト集団です。それだけでなく、ケアしないコミュニティは、人間の成長を促すための社会給付ではなく、取り締まりや監視への投資に集中します。そして、ケアのなさがあまりに多くの生活領域を支配するようになり、コミュニティにおけるつながりが極端に弱くなると、ケアを支える好ましい社会基盤として、家族が登場するのはよくあることです(ケア・コレクティヴ『ケア宣言ーー相互依存の政治へ』pp.29-30.)。

 

 コミュニティの削減によるケア領域の縮減は、最終的に「家族」の支えに助けれられる。これは現実社会でも起きていることだろう。同時に家族の支えによるケアは、介護殺人という無惨な結末にも多々なる。

 だが本作が秀逸なのは、ミチをはじめ「家族」の存在が物語の後景に斥けられていることである。本作は、徹底的に家族の物語に回収されることを避けている。家族の物語にすることは社会的制度の不合理を隠蔽するのである。

 

 物語が進むにつれ市役所の「プラン75」申請窓口で働くヒロム(磯村勇斗)や死を選択した老人たちに"その日”が来る直前までサポートするコールセンタースタッフの瑤子(河合優実)の心情が徐々に変化していく。「プラン75」という制度は誰が作ったかわからない、どこに抗っていいのかわからないのだ。レヴィナスは、自己は他者との関係性を通じてのみ構築されるため、われわれは倫理的に他者のケアを強いられると論じた。またデリダは「異人」への無制限の歓待という倫理を提唱した。

 コレクティヴは「乱行的なケア」という概念を提唱している。コレクティヴは次のように言及している。

 

同様な精神で私たちもまた、乱行的にケアしなければなりません。乱行的なケアを称賛することによって、私たちは、行き当たりばったりに、あるいは無頓着にケアすることを意味しているのではありません。行き当たりばったりも無頓着も両方とも、実は孤立化したままの新自由主義的で資本主義的なケアであり、悲惨な帰結をもたらします。私たちにとって、乱行的なケアとは、最も親密な者から最も遠い者まで、ケアする関係を再定義するよう外に向かって拡散する倫理なのです。それは、もっと多くのケアを、現在の水準からすれば実験的で拡張的な方法で、実践することを意味しています。私たちは、ケアに関するニーズ提供のあまりに多くを、あまりに長い間、「市場」と「家族」に頼ってきてしまいました。私たちにいま必要なのは、ケアについての、もっと包容力のある考え方なのです(ケア・コレクティヴ『ケア宣言ーー相互依存の政治へ』p.72.)。

 

 ヒロムや瑤子は、制度の中でしか他者を見てこなかった。だがミチやヒロムの叔父に接することで大きな制度の中で失われている個人の尊厳に、生の「傷痕」に初めて気づくことができたのである。

 

 ラスト、ミチは一人で施設を抜け出す。ミチは夕日を眺めながら「林檎の木の下で」を口ずさむ。ミチは何を思うのか。社会は無言で「あなたは必要のない人間だ」と脅迫し続けることだろう。だが、日々朝日が昇り夕日が沈むように、生と死はただそこに「ある」だけだ。われわれにとって、生とは「唯の生」(立岩真也)でしかないのである。

 

 

『すずめの戸締まり』(新海誠)

国民が家父長的部族として表象されるのでもなく、また民主制とか貴族制とかいった形式が可能であるような未発達の状態にあるものとして表象されるのでもなく、そうかといってまた、有機的組織を欠いたでたらめの状態にあるものとして表象されるものでもなくて、内部的に発展した真に有機的な総体として思惟される場合には、主権は全体の人格性として存在するのであり、そして人格性はその概念に適った実在性においては君主の人格として存在するのである(ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』中公クラシック, p.315.)。

 

 旅をする草太は扉の向こう側から訪れる災いを防ぐために、その扉を閉じ鍵をかける「閉じ師」として全国を旅する。この草太の姿からも示唆されるように、一人で全ての国民を救う(ような機能を表象する)姿は、まさに3.11以降における天皇の被災地訪問と重なり合うことだろう。 

 前作『天気の子』(2019)は、この世界=東京よりも「あなた」と「わたし」の選択によって2人の「世界」が変わる、いわゆる「セカイ系」に属する作品であった。だが本作『すずめの戸締まり』(2022)は、単なるセカイ系作品ではない。鈴芽は草太を救済する、と同時に鈴芽は「国民」も救済しなければならないんだ、と叫ぶ。実際、3.11以降における国内の空気は「否定」を許さないような「災害ファシズム」が蔓延していたと言えるだろう。そして災害による故郷喪失は、誰もが何かの救済を望んでいたであろう。

 

 物語終盤における草太からも明らかなように天皇とは何度でも生まれ変わり存続していく存在である。災害は一時的な「災害ユートピア」(レベッカ・ソルニット)を形成するだろう。だが、そのような「災害ユートピア」=市民社会は儚く、脆いものである。

 かつて津村喬は、天皇制を都市というパースペクティブにおける「差別の構造」と捉え、それはマイノリティを構造化して排除し、同時に抱え込んだものとしてみなしていた(津村喬, 1970年『われらの内なる差別』)。しかし、今日におけるPC(ポリティカル・コレクトネス)時代においては津村の差別論もPCへと回収され希薄化されていくことだろう。絓秀実は、次のように指摘している。

 

しかし、われわれの文脈で言えば、猪俣の天皇制批判を継承していたはずの津村的日常生活批判や差別論がPC(ポリティカル・コレクト)へと回収・転換され希薄化されていくにともなって、そこに込められていたはずの現代天皇制への問いも、同様に消失へと向かっているように見える。PCとは資本主義を受け入れた上での心情的な疾しさだから、資本主義や、そのなかで「構造化」されている天皇制についての批判は、当然にも後景化されるほかない(絓秀実, 2014『天皇制の隠語』)

 

 PCの邁進による「疚しい良心」に耐えられない者は、自ずと排外主義的に向かう。2011年以降の世界的ポピュリズムの勃興、本作にも度々表象されるSNS空間、その表象空間における言論の不自由は、そのことの証左である。だからこそ三島由紀夫は、言論の不自由を解消するために「文化概念としての天皇」を創出しようと努めたのだ。三島にとって「文化概念としての天皇」として言論の自由が確保されない限り差別の問題は解消されないと確信していたのである。

 ヘーゲルが『法の哲学』で指摘していたような「蓋」としての超越性≒「文化概念としての天皇」とは、本作における草太=閉じ師の役割であろう。実際、ダイジンによって草太は椅子に姿を変えられが、椅子の脚は一つ欠損して三本である。この欠損は、不能な「父」=「蓋」を象徴していると言える。

 

 ラスト、見慣れた人影が鈴芽の前から歩いてくる。草太だろう。鈴芽は「おかえり」と声をかける。たしかに草太は「存在」[Sein]しているのだろう。だがはたして草太は「実存」[Existentialismus]しているのだろうか。鈴芽が眺める坂道から、たしかに広がる海洋の彼方から幾千もの死者と生者の声が入り混じり風に乗って届くことだろう。