水平線

研究と批評.

2022-01-01から1年間の記事一覧

『PLAN75』(早川千絵)

崩壊の過程としての生を肯定すること、それは何よりも「老いてあること」或いは「老いつつあること」を肯定するに他ならない。言うまでもなく、「老い」とは可視的な、そして内在的な経験としてある不可避な崩壊の過程そのものだからである。「老い」は死へ…

『すずめの戸締まり』(新海誠)

国民が家父長的部族として表象されるのでもなく、また民主制とか貴族制とかいった形式が可能であるような未発達の状態にあるものとして表象されるのでもなく、そうかといってまた、有機的組織を欠いたでたらめの状態にあるものとして表象されるものでもなく…

『草の響き』(斎藤久志)

人間を狂った生物とする考え方がある。実際、有機体が、確定的な生の方向=意味に従って、プログラムされたコースを歩んでいくとすれば、方向=意味の過剰を自然史的アプリオリとする人間は、放っておけばどちらを向いて走り出すかわからない、大変厄介な存…

黄昏の水面ーー1-3-5、あるいは4-1-3の紙片

人間的な遊び=賭けにおける仮定は、〈善〉と〈悪〉に関するものであり、その遊び=賭けは、道徳性の学習である。そうした悪しき遊びのモデルは……パスカルの賭けである……神的な遊び=賭けはそれとはまったく異なっており……わたしたちにとってはもっとも理解…

『三度目の、正直』(野原位)

幾千もの声をもつ多様なものの全体のためのただひとつの同じ声、すべての水滴のためのただひとつの同じ《大洋》、すべての存在者のための《存在》のただひとつのどよめき。それぞれの存在者のために、それぞれの水滴のために、そしてそれぞれの声のなかで、…

『ニトラム/ NITRAM』(ジャスティン・カーゼル)

「でも、気がくるっている人のところには行きたくないです」とアリス。 「そりゃあ、しょうがないだろう」とネコ。「ここじゃあ、みんな気がくるってるんだ。おれもくるっている。君もくるっている。」 「どうしてわたしがくるっているってわかるんです?」…

〈共〉は革命的たりえるか ③

レントとは本来、地代や不労所得を意味する概念である。マルクスは、『資本論』において生産過程の内部で生産された価値を生産過程の外部から収奪する仕組み、すなわち地代について記している。マルクスは『資本論』最終章「諸階級」において次のように記し…

〈共〉は革命的たりえるか ②

ネグリ/ハートは私的/公的ではなく、私的/公的の外部に存在する〈共〉こそがコミュニズムを実現すると幾度も指摘している。〈共〉には、エコロジー的〈共〉と生政治的〈共〉があったが、ネグリ/ハートは生政治的な〈共〉を中心に論じている。ネグリ/ハートの…

〈共〉は革命的たりえるか ①

政治経済学において「所有」概念は、中心的位置を占めている。冷戦崩壊以降、既成社会主義国家の崩壊によってマルクス主義は失墜し、効力を失った。そしてソ連や中国のような中央集権的な国家的所有の限界を明らかにした。そしてグローバル資本主義の支配は…

言葉と身体の臨界ーー濱口竜介論序説 ③

言葉とは身体であり、身体とは言葉である。自己と他者が内面に所有する言葉が、「声」として発せられると、そこには意味に還元することのできない余剰を孕み持つ。そのような「生の声」は、「言語の物質性」として存在論的次元を現前し、そのような言葉によ…