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研究と批評.

〈共〉は革命的たりえるか ②

 ネグリ/ハートは私的/公的ではなく、私的/公的の外部に存在する〈共〉こそがコミュニズムを実現すると幾度も指摘している。〈共〉には、エコロジー的〈共〉と生政治的〈共〉があったが、ネグリ/ハートは生政治的な〈共〉を中心に論じている。ネグリ/ハートの『〈帝国〉』、『マルチチュード』、『コモンウェルス』に続く最新作『アセンブリ』から中心に〈共〉に関して言及している箇所を引用する。

 

しかしながら今日、労働の性質と条件は、マルクスが分析した産業形態からも、さらに、ロックの農業的・植民地的想像力からも根本的に変化している。現代の所有関係を究明するために、私たちはまず社会的生産・再生産の今日的諸形態に目を向ける必要がある。さしあたって、二つの重要な側面のみに言及さしてほしい。第一に、人々はかつてなくフレキシブルで、可動的で、不安定な協定において労働している。(中略)より重要なのは、大多数の人々が解雇と貧困の恒常的脅威の下で働いている、ということだ。第二に、労働は、コミュニケーション的ネットワークとデジタルな結びつきの世界に埋め込まれ、ますます社会的で、他者との協働に依拠するようになっており、それは産業配置、農業システム、その他すべての経済形態の隅々まで広がっている。資本は、言語、情動、コード、イメージを物質的生産過程に組み込んだ、協働的フローを通じて価値化されているのである(アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート, 2022, 『アセンブリ岩波書店, pp.134-5.)。

 

同様に、労働が社会化され、社会全体が価値化の領野になるとき、また、全員の知性、身体活動、文化的創造性、創発力が協働的に用いられ、共に社会を生産・再生産するとき、〈共〉は生産性の鍵となるのであり、反対に、私的所有は生産能力を妨げる桎梏となる。換言すれば、ますます明確になっているのは、所有財産からその主権的性格を剥ぎ取り、〈共〉へと変容させることは可能であるし、またそうしなければならない、ということだ(同上, pp.140)。

 

 ネグリ/ハートにとって、他者とのコミュニケーションそれ自体が〈共〉である。そして他者との協働は価値を形成する。だが、この社会的な価値はいかにして価値量として計量されるのだろうか。ここで注視すべきは、ネグリ/ハートは産業資本主義からポスト産業資本主義の移行を視野に捉えていることである。ネグリ/ハートは、非物質的労働において労働時間と余暇時間の境界が曖昧化すること、すなわち「労働価値説」(マルクス)が失効していることを感知している。だがネグリ/ハートは、労働価値説の無効化は「労働が社会化され、社会全体が価値化の領野になる」とも指摘している。すなわち、ポスト産業資本主義において〈共〉はますます生産的であると主張するのである。

 とはいえネグリ/ハートは、労働時間の計量を無視しているわけではない。ネグリ/ハートは、次のように言及している。

 

私たちが以前に論じたように、社会的生産に直面すると、資本はもはや価値を適切に計測できなくなる。少なくとも、これまで通りにはいかなくなる。もちろん、価値はもはや、デイヴィッド・リカードカール・マルクスが理論化したように、労働時間量で測ることはできない。だからといって、労働が資本主義社会の富の源泉ではもはやない、ということではない。そこはいまも変わらない。けれども、労働が生み出す富は計測できない(または、もはや計測できない)のである。知識や情報の価値、ケアや信用という関係、あるいは教育や医療サービスの基本的効果を計測することなどとうてい不可能だ。とはいえ、社会的な生産性や価値の尺度=計測は、資本主義的市場にとって、やはり欠かせないものである(同上, 221)。

 

 引用からも明らかであるようにネグリ/ハートは、労働価値の位置付けに迷走が見られる。さらにネグリ/ハートは、ポスト産業資本主義における労働者は「大多数の人々が解雇と貧困の恒常的脅威の下で働いている」と、すなわちネグリ/ハートが想定している労働者、つまりは非物質的労働者は低賃金で非正規雇用なのである。

 ネグリ/ハートは『〈帝国〉』、『マルチチュード』、『コモンウェルス』の三部作において幾度も生政治的生産における個人は、権力に抗する「力能」を有しているのだと力説していた。だが労働価値説という基軸が喪失することは、グロテスクな相貌を帯びた「人的資本のコミュニズム」(絓秀実)の実現をも意味することだろう。なるほど、ネグリ/ハートはそのような社会をさまざまな特異性から形成される「マルチチュード」として肯定するのだろう。だがはたしてマルチチュードは、労働価値説が喪失した状況下において労働を社会化することが可能なのだろうか。なぜなら、自己が労働力を所有を所有していない、他者=社会から評価されていないからである。

 さらに付言するのであれば、ネグリ/ ハートが想定するケア、感情、情動などを前提とする非物質的労働者は、いかなる瞬間に商品化するのだろうか。マルクスによれば、労働生産物とは「外的客体ないし物体」であり「労働生産物の商品の転化」である。

 マルクスに即するのであれば、非物質的労働は他者が心情的に満たされたとき、病が回復したときに商品として成立するのであろう。だが、それははたして商品なのだろうか。

 櫛田豊は、「サービス労働によって維持・形成された人間の能力を生産物とする」(櫛田豊, 2016, 『サービス商品論』桜井書店, pp.20-1.)とし、「人間の内部に存在する」(p.41)「人間の能力」を生産物だと名付けている。だが、「人間の能力」は「外的客体ないし物体」でもなく、労働生産物にはならないだろう。言うまでもなく、「人間の能力」に関しては質量も何も定義できない変動的なものだからである。

 ネグリ/ハートは資本主義を批判し、コミュニズムを展望している。だがネグリ/ハートの論議は、資本主義的権力に従属する帰結をもたらすのではないか。ネグリ/ハートは、非物質的労働が〈共〉を生産するのだと声高に叫ぶ。だが、人間にはケアや治療を拒否する権利もあるだろう。そこに「生政治における絶対的自由」(小泉義之, 2009, 「余剰と余白の生政治」『思想』, 岩波書店, p.34.)を求めなければならないだろう。

 さらにネグリ/ハートは、「労働が社会化され、社会全体が価値化の領野になるとき、また、全員の知性、身体活動、文化的創造性、創発力が協働的に用いられ、共に社会を生産・再生産するとき、〈共〉は生産性の鍵となる」と指摘していた。だが、「全員の知性、身体活動、文化的創造性、創発力」を発揮するには、それだけの自由時間が必要である。かつてマルクスは、自由時間の拡大によって、全面的に発達した諸個人が出現すると考えていた。すなわち資本主義の発展が、逆説的に資本主義を超克する主体を生み出すと考えていたのである。

 しかしネグリ/ハートは、マルクスとは異なり自由時間で形成した価値を資本の要請に従順である印象を与える。かつてドゥルーズは、コミュニケーション社会によってコミュニズムは以前ほどユートピア的ではなくなったと提起するネグリに対して、「言論とコミュニケーションはすみずみまで金銭に侵食されている」(ジル・ドゥルーズ, 2007, 『記号と事件』河出書房新社, p.352)とし、コミュニケーション社会が新たな資本の管理形態を要請すると指摘している。ゆえにドゥルーズは、「非=コミュニケーションの空洞や、断続機をつくりあげ、管理からの逃走をこころみること」(同上, p.352)ことが肝要なのだとするのである。

 

 かつての産業資本主義においては、労働価値説が有効であったからこそ労働組合などといった連帯が可能だったとの見方もできるだろう。だが無論、労働価値説を単に叫ぶだけでは非現実的である。ポスト産業資本主義時代において労働価値説とはそもそも何か、そのような価値量の層をいかに組織化することが可能なのかを思考=志向することがコミュニズムの第一歩なのである。

 

(続く)