水平線

研究と批評.

『花束みたいな恋をした』(監督:土井裕泰・脚本:坂本裕二)

 終電を逃さなかったら出逢わなかった「かもしれない」ーー。「かもしれない」という複数の可能世界には、新自由主義による中間的な社会領域の喪失が、個人的領域と他者的領域の両者を媒介なく接続されることでリアリティを与える。そして、さらにこの可能世界にリアリティが内在しているように描くには、固有名が現実世界と複数の可能世界とを双方に架橋し媒介することで保証される。山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)から無数に発せられる、押井守天竺鼠、今村夏子、羊文学、きのこ帝国…という固有名の羅列でしかリアリティを把握できないのであれば、それは、「資本主義リアリズム」としての(不)可能性である。そうであれば、本作に対しての批評に必要なのは、資本主義の残酷さを論じるだけではなく、現実世界それ自体の可能性を捉え直すことに他ならない。

 

 終電を逃すことは、労働力の再生産を放棄するに等しい。だが、急進的インテリゲンチャであるはずの大学生にとっては、モラトリアムとして芸術や文学の知識を生産する時間でもあるだろう。終電を逃し、偶然出逢った麦と絹は、居酒屋で朝まで文学や映画などの話で盛り上がる。共通の話題を確認した二人は、その後付き合うことになる。

 二人の口からは、無数の固有名が発せられるが、それが他者にとっての優位性を示すことではない。ある日、麦の部屋に訪れた絹は、本棚を品定めし「ほぼうちの本棚じゃん」と呟く。そして、絹は、自分が所有していない、未読の本ではなく、これまで繰り返してきた愛読書に目を留める。その後のいくつかの場面からも明らかだが、二人は意識的に「同質性」を確認し合う。芸術一般が、社会から「疎外」されていない「かもしれない」と等価性を交換し続けることで同一性を確認し合っているのである。

 

 だが、物語が順風満帆に進むはずはない。「絹ちゃんあのさ、俺、就職するね」の一言で、絹と麦の関係性は急変する。

 新自由主義の時代は、資本が「社会」から撤退する過程である。資本は、社会の「外部」に利益を求め、生産過程から撤退する。「市民社会の衰退」(Michael Hards)において、社会にとって芸術は不必要である。そして、「時間稼ぎの資本主義」(Streeck Wolfgang)には、人的資本だけが残されることになる。実際に絹は、資格を獲得することで事務職に就職する。

 資本の総動員は、終電のように簡単には見逃してくれない。だが二人は、芸術一般が社会にとって不必要だとされていることぐらい薄々勘づいていることだろう。現在の大学では、自己を「惨忍な鈍感さ」で商品化するのであり、かつての「層としての学生」(武井昭夫)の過程は消滅している。

 

 事態が改善することなく、出会いから4年が経った冬、二人は、友人の結婚式に参加する。友人の結婚式にそれぞれ別れる決意を胸に参加した二人は、その晩に、思い出のファミレスで別れ話を始める。絹とは対照的に、麦は結婚をすれば事態が改善するのではないかと提案する。そのとき、二人の光景には、かつての二人を想起させるようなカップルが現れる。それを見た二人は、別れを決断する。

  そして、2020年現在、二人には新たな恋人ができていた。絹と麦は、同じカフェに居合わせ、言葉を交わすことなく店を後にするが、二人は背を向けたまま手を振っていた。

 

 二人が、結婚を拒否したのは、社会的包摂の否定であり、過去における記憶の高次的回復である。かつての二人は、互いの「交通」関係を通じて、疎外を回復した「個体的所有」であると同時に、同一性の調和であった。物語のラスト、二人は背を向けながら無言で手を振る。それは、本作の文脈で表現するのであれば、イヤホンのLとRから流れる音は別々であるが、一つの音楽を形成するように、自己と他者は、非-同一的な存在であるが、転変を繰り返すことで一つの類体となる総過程である。芸術を語っていたときの二人の記憶は、Googleストリートビューにも保存できない高次の記憶である。今日、芸術は、ブルジョアにもプロレタリアでもない小市民であるが、そこに「限界-前衛を担う党」(小泉義之)の萌芽を見出すのである。花束「みたいな」恋とは、決して花束には「なれない」ことがアプリオリとしてあるが、差延することで複数の同一と非-同一が二重化するのである。ラストの二人が、背を向けたまま手を振る場面に、この社会への微光を見出さず、何を見出すのだろうか。