水平線

研究と批評.

『カリスマ』(黒沢清)

 冒頭の徹夜続きの警察官である藪池(役所広司)の風姿がこの社会の「法則」を物語っているかのようだ。われわれは「労働力の所持者」(マルクス)であれ、労働の形式的従属・包摂は実質的に転化し「賃労働者がその固有性ー属性を失いつつある」(沖公祐)のであり「サーバント」化は免れないことだろう。いわば、資本から「疎外」=「物象化」されることは明瞭の論理であり、この社会は「刑務所」に等しい。

 

 警察官である藪池は、青年が起こした立て篭り事件で犯人と人質の両方を殺害してしまう。そこには青年の「世界の法則を回収せよ」という置き手紙が残されていた。

 心身共に深傷を負った藪池は、上司から休暇を明け渡され、とある森で「カリスマ」と呼ばれている木と出会う。だが、一本の「カリスマ」を巡って対立する闘争に巻き込まれることになる。

 対立の経過で、森全体か「カリスマ」のどちらかしか救えないことが判明する。そこで藪池は「両方救えないのか」と、あまりに純然で素直な発言をする。だが、われわれは何処か疾しさがありながらも「両方救えない」と決断し、「か」という疑心を斥けているのではないか。いわば藪池の発言は、現在も進行中の新型コロナウイルス禍におけるトリアージ問題や功利主義批判への一つの解答だろう。きたる自民党総裁選に出馬した菅義偉の「自助・共助・公助」発言のように、ケインズ・ベヴァレッジ型の国家介入とは異なる介入主義的国家、あるいはフーコーが『生政治の誕生』で聡明に洞察したように、市場を原理とする経済が自由主義の統治技術の延長上に国家介入を強化するとしたように、新自由主義以降に顕著な自由であり「不自由」な、無責任な「決断主義」への批判である。小泉義之は、ジョン・ハリスやレヴィナスの論考を徹底的に批判して次のように言う。

 

結局のところ、多くの生命倫理学者と同じく、ハリスにしても、誰かの生命を救うということを考えるときに、馬鹿げた想定を立ち上げながら、どうあっても犠牲の構造を導入しないと、何かを考えた気持ちになれないのである。これに対して、私は、人間の肉体を共有材と考え人間の必要性に応じて肉体を再分配するという「一般原則」から、犠牲の構造を引き算するべきだと考えている。(小泉義之, 2006, 『病いの哲学』筑摩書房, p. 135)

 

小泉は、ハリスやレヴィナスの論考は部分的で差別的であると斥ける。小泉は、徹底的な平等主義的観点から「人間の肉体は共有物であるとするポジション、人間は共に生き延びるべきであるとするポジション以外にありえない」(同上, 136)としている。いわば、一人を犠牲にできる社会は、全員を犠牲にすることが可能な社会であることへの応答である。

 

 一本の「カリスマ」を巡って様々な思惑によって求心的に作用する様相からも「カリスマ」とは「資本(家)」のメタファーなのだろう。神保美津子(風吹ジュン)が「他の植物がカリスマを拒絶するどころか惹かれ合う様にして(中略)麻薬でも打たれているかのように」と発言しているように、商品世界の「物神性」を体現している。そのため、そこから「疎外」されざるをえない人々は「疎外論」(=人間・自然主義マルクス主義)の立場を表明しているかのようである。疎外論は「本質からの疎外」という問題構成を取る、つまり人間という抽象的な「本質」を前提としている。だが、その「本質」は存在するのだろうか。「先験的な故郷喪失」(ルカーチ)ーー「カリスマ」が存在する森が「東京」の近隣であることは象徴的だーー、あるいは党の表象=代行機能は失墜しているのだから「ロマン的イロニー」でしかないだろう。神保美津子と娘の千鶴(洞口依子)がどれだけエコロジストを標榜し農本主義に回帰しようとも、それは「ない」のである。

 

 また「カリスマ」が一時的に喪失するなどにつれ森の秩序が乱れることから「カリスマ」とは、「天皇(制)」のメタファーであることも表象している。無論、「資本」と「天皇(制)」は相互補完的関係である。中島一夫は「天皇(制)」について次のように言及している。

 

だが、疎外が決して解消されないことは、ほかならぬ「天皇」の存在が示している。「天皇」とは、民衆の疎外が集積された「もの」だからだ。現在は、市民社会という擬制が弱体化し、その破れ目から「疎外(論)」が露わになっているので、それに即応して、にわかに「天皇(制)」が顕在化し主題化されているのである。「天皇」は疎外が解消されない証であり、「天皇制」とは半封建の残存ではなく、資本主義ー市民社会そのものが(半)封建的でしかないことを隠しきれていない「尻尾」である。それは、商品の物神性が、あるいは同じことだが、支配と隷属の関係からくる「疎外」がスライドした「もの」であり、資本主義が進行しても自然に解消されたりはしない。(中島一夫, 2020, 「疎外された天皇ーー三島由紀夫新右翼」『三島由紀夫1970』河出書房新社, p. 118)

 

 天皇とは空虚な「もの」である。物語の後半につれ藪池は二本目の「カリスマ」を発見する。「カリスマ」を孤独に守ってきた桐山直人(池内博之)は、「これ何の意味があるんだ」、「俺にはわからない」と不意に呟く。結局、美津子によると二本目の「カリスマ」は「偽物」であり、「ただの枯れ木」と判断される。だが、「カリスマ」とそれ以外の境界とは一体何か。言うまでもなく、それは戦後民主主義における象徴「天皇(制)」にも当てはまることだろう。

 

 藪池は一貫として「カリスマ」に参与する両陣営のどちらにも属すことはなかった。どこまでも中立性を保持するのは「まれびと」(折口信夫)的存在だからだろう。

 終盤、藪池は「カリスマ」を爆弾と銃で破壊する。藪池は、美津子に「これからが始まりです」と発言する。ここで「天皇」=「王殺し」が完了したことを示している。

 ラスト、藪池は森にある山の山頂から遠方に見える「東京」を静かに見つめている。「東京」は災害か、あるいは暴動による事件かで真っ赤に染まっている。それは「王殺し」ゆえの一時的なアナーキーの現出であろう。上司との電話で藪池は「今からそっちに向かいます」と静かに語る風貌は、疑いもなく真の「カリスマ」であり、世界の「法則」を回収するための「はじまり」である。