水平線

研究と批評.

『REVOLUTION +1』(足立正生)①

ドゥルーズは、革命について歴史的反省を繰り返す知識人を罵倒していた。レーニンの秘密文書がどうの、レーニン主義の政党がどうの、前衛主義や代行主義がどうの、革命的暴力の暴走がどうの、反省したい者はいつまでもやっているがいい。しかし、銘記すべきは、いつの時代にも、革命を必要としている人間、革命なくしては自由に生きていけない人間、革命を命がけで求めている人間がいるということだ。そんな人間には、反省している暇などない。断固として、いつか無力な者になる人間の立場に立つこと、無力な者を代行する立場に立つこと、レーニンのように、遠くからではあれ、無力な者に訴えることだ(小泉義之, 『「負け組」の哲学』p.60.)

 

 政治には、どうしても「居心地の悪さ」が付き纏う。不可知な他者と言葉を持ち、それゆえ善悪についての価値判断を下す他者と共に生きるということは、自己の思い描く世界像が実現できないことを思い知るからである。

 われわれは連合赤軍日本赤軍などの新左翼東アジア反日武装戦線による一連の暴力革命的行為を歴史的事実として知っている。われわれは暴力は悪であり、市民社会に帰属する人々の同質性に基づく自由で平等な個人による民主主義的実践こそが政治を変革する唯一の方法だと信じて疑わない。

 だが民主主義は自由と平等を前提としていると同時に、「不平等」を本質的に伴うものである。すなわち民主主義的実践とは、包摂と排除の構造が本質的に内在しているのである。

 

 2022年7月8日午前11時31分、奈良市近鉄大和西大路駅北口前の路上で放たれた銃弾は「革命」とまでは言えないが、われわれの想像力の彼方へと連れて行った。だが無論、あの行動を美化するつもりは毛頭ない。それでも、あの直接行動は「何か」を変えたのである。

 事件後にメディアに飛び交った多くの言葉は「暴力は許さない」、「民主主義を守ろう」といった言説であった。聞き飽きたフレーズである。小泉義之は、次のように指摘している。

 

 たしかにウェブ上には、一部のストリートには、政治や民主主義があったかもしれない。その限りで〈一を二に割る〉ことはあったかもしれない。しかし、一度でも、公的で社会的な諸機関が割れたことがあったか。にもかかわらず、これまであれほど公共的なものや政治的なものや民主主義的なものを称揚してきた人びとが、それに愛想をつかし始めているのである。(中略)

 私自身は、現在の分極化は、必ずしも深度の深くない対立であるからこそ収拾されてしまうとも考えているが、そんなことより肝腎なことは、やはり〈一を二に割る〉ことである。デモクラシーがいまだ価値ある政治的スローガンであるとするなら、あらゆる機関や組織を現実的に割ることこそがデモクラシーの始まりであると言わなければならない。〈公共〉の一を二に割らなければならない。一が二に割れ四分五裂する場が〈公共〉であると、多に割れても一を保つ場が〈公共〉であると言ってきた人びとにこそ、現実に〈公共〉を割ってみせてもらわなければならない(小泉義之, 2013, 「巻頭号: やはり嘘つきの舌は抜かれるべきであるーーデモクラシーは一度でも現われたか」『情況 別冊思想理論第3号ーーテクノロジーテクノクラシー・デモクラシー』所収. pp.10-1)。

 

 小泉の指摘は、現在まで持続している現象である。議会制民主主義は金権政治であり、機能不全である。それでもとりわけリベラル左派は民主主義の病に取り憑かれていると言えるだろう、民主主義のオルタナティブの想像=創造ができないのである。それは「不可能性の時代」(大澤真幸)、「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)とも言い換えることも可能だろう。

 川上達也(タモト清嵐)が若い女(森山みつき)と作中で、THE BLUE HEARTSの「未来は僕等の手の中」を歌う。だが「打ちのめされる前に 僕等打ちのめしてやろう」と叫んだところで、現代資本主義は資本蓄積のために自己の身体まで資本による「実質的包摂」(マルクス)を遂行する。フーコーは次のように指摘している。

 

 経済人とは交換を行う相手などではありません。経済人とは企業体であり、ひとり企業家なのです。どこまでこれがあてはまるのかといえば、実のところ、あらゆる新自由主義型の分析は、交換相手としての経済人を自分自身にとっての企業家としての経済人にその都度置き換えようとするのです。みずからにとって自己の資本であり、みずからにとって自己の生産者であり、みずからにとって収入源という存在に。

 

 作中からも明らかであるように達也は、「失われた30年」を過ごした世代である。達也はいくつもの資格を取得している。にもかかわらず達也は、派遣社員として職を転々とする。アダム・スミスが想定したホモ・エコノミクスからゲイリー・ベッカーたちシカゴ学派による新自由主義経済への転換は、世代間格差による自己価値をも決定するかのようである。

 

 ではわれわれには、政治を変革する民主主義的実践が虚無に覆われているのであれば、直接的暴力でしか解決策を示すことはできないのだろうか。そもそもわれわれにとって「暴力」とは何なのか。革命の終わりに「革命」の始まりを問い直すことは、未来の破滅の過程において新しい事態をもたらす唯一の行為である。

 

(続く)