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研究と批評.

〈共〉は革命的たりえるか ①

 政治経済学において「所有」概念は、中心的位置を占めている。冷戦崩壊以降、既成社会主義国家の崩壊によってマルクス主義は失墜し、効力を失った。そしてソ連や中国のような中央集権的な国家的所有の限界を明らかにした。そしてグローバル資本主義の支配は、私的所有の勝利を決定的にしたのである、と。

 しかし今日、私的所有とは何を意味しているだろうか。情報資本主義や認知資本主義は、所有概念の境界が曖昧化していると同時に、資本による収奪=収用も複雑になっていると言えるだろう。したがって政治経済学批判は、所有批判でなければならない。かつてマルクス/エンゲレスは『共産党宣言』で、「共産主義者は、その理論を、私的財産の廃止という一つの言葉に要約することができる」(マルクス・エンゲルス, 1951, 『共産党宣言岩波書店, pp.63-4.)と宣言している。

 

 アントニオ・ネグリ/マイケル・ハートは、資本主義における私的所有でもなければ、社会主義における公的所有でもない、共産主義における〈共〉を提起している。ネグリ/ハートは〈共〉を大きく二つに分類している。一つ目はエコロジー的な〈共〉であり、二つ目は生政治的な〈共〉である。これらの〈共〉は所有関係の外部に存在し、所有関係に敵対的である。そして、あらゆる形態の〈共〉には富の使用と富へのアクセスが管理運営されなければならないのである。

 ところがネグリ/ハートによれば、1970年代以降における資本主義的蓄積は生産過程の外部に依存し、搾取は〈共〉の収奪=収用を取るにいたったと指摘している。つまりは、〈共〉の脱社会化が進行しているのである。そして、このようなポスト産業資本主義においては、利潤とレントの境界が曖昧になる傾向がある。すなわちマルクスが想定したような工場内部を越えて、社会全体へ拡がった社会的協働を通して生産される〈共〉が富や価値の源泉になっているのである。

 しかしネグリ/ハートは、〈共〉の収奪=収用を否定的な一面だけでは捉えない。なぜなら生政治的生産において資本は、協働のための指示を行使できる割合が極めて小さいからである。認知労働や情動労働においては、資本の指令なしに自律的な協働が生成するのである。すなわち、協働に求められる知識や情動、コミュニケーション的手段は、労働者同士の生産過程の中で創出されるものであり、外部から支持できるものではない。したがって、〈共〉とは資本による収奪=収用や私有化の企図だけではなく、マルチチュードによる〈共〉の再領有と自律的な管理運営が鬩ぎ合う場所でもある。

 

 ネグリ/ハートのコミュニズム像は、現代資本主義の分析にとってもアクチュアルであると同時に多くの疑問も生じざるを得ない。少し議論を先取りするのであれば、ネグリ/ハートは、鏡像としての他者=自己しか見えていない。ネグリ/ハートは、成功の一面的な可能性しか捉えていない。失敗が「成功」に転覆する可能性もあるのではないか。では、なぜそのような捉え方しかできないのか。これは後述していくことになるだろうが、広義にはネグリ/ハートだけの問題ではないだろう。「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)が煩い続けている深刻な病なのである。

 本稿では、ネグリ/ハートの中心的概念である〈共〉、レント・金融資本を中心に検討していく。本稿は、来たるべきコミュニズムに向けての準備体操である。そして準備体操を終えたわれわれは、革命に向けて走り出すだけである。その先に待つゴールには、朝日からコミュニズムの微光が射し込むことだろう。

 

(続く)