水平線

研究と批評.

『スパイの妻』(黒沢清)

 黒沢清の映画では、たびたび内面の「空白性」が描かれている。福原優作(高橋一生)と聡子(蒼井優)の関係性においてもその萌芽は見て取れる。だが、この「空白性」から生じる「言語化不可能」、「理解不能」という解釈こそ黒沢映画の特徴でもあるだろう。いわば、それは黒沢自身の出発点ともなったホラー映画的表現を借用するのであれば「亡霊」的とも言えるだろうか。そもそも映画は「内面」の表象不可能性を帯びる表現装置であり、映像の具体的身体性にのみによって人間の営為は表象される。だが一方で、解釈不可能性を帯びるからこそ現実の絶妙なリアリティを発現し、どこまでも「亡霊」は回帰してくる。物語が進むにつれ優作と聡子の関係性が、どこか狂気じみながらも、スクリーンから外化された現実世界に侵略することも何ら不思議なことではない。

 

 本作における「スパイ」とは、「共産主義者」のメタファーなのだろう。それを示唆するかのように優作は、「僕はコスモポリタンだ」と発言している。戦中期という特殊な時代に国家に叛逆し、「正義」のために邁進する二人の姿は、小林多喜二などの共産主義者が「非転向」を慣行した姿と相似的である。

 また、本作を「夫婦の物語」と評するのは不適当と言えるだろう。「夫婦」というよりは、聡子は優作との幸福を追求していたと言えるかもしれないが、優作はどうか。優作は、家族という存在を否定するかのような印象をどことなく与えるのだ。「子供のいない夫婦」(佐々木敦)を描くのは、近年の黒沢清映画の特筆すべき点だが、本作ではさらにその点を発展させている。いわば、それは「無所有という所有」(マルクス)という不気味な家族像なのである。

 

 さて、しかし本作における歴史観には一定の批判が存在するようだ。まず、「帝国主義日本では日本人による反日の運動は現実には起こらなかった」(『映画芸術 473』「スパイの妻ーー良心的歴史修正主義を逆なでする」を参考せよ)のだ。であれば、本作は今日にも見られるような都合の良い歴史修正主義的作品であり、「「映画」らしい映画」に過ぎないのではないか。しかし、本作にはそうした歴史修正主義的経験を、さらなる「経験」に転回する余地が存在する。


 映画のラストスパートは、「戦後民主主義の虚妄に賭ける」(丸山眞男)かのように、スクリーンから外化されたわれわれに無数の「亡霊」が回帰してくる。ここで、再度「黒沢清による黒沢清論映画」(佐々木敦)であることを確認させられる。ラスト、聡子は一人、浜辺をよろめきながら駈けてくる。水平線から打ち寄せる波を背景に「1945年8月 終戦」の字幕が重ねられる。「8月革命説」(宮沢俊義)による戦後というパースペクティブは、水平線の彼方に「アメリカ」という意識を規定することだろう。だが、聡子が関東軍731部隊の存在や帝国陸軍満州で行っている所業を研究ノートや記録映像の内部でしか知ることはなかったように、現実はその「外部」に存在するのだ。であれば、映画内の出来事を映像の「外部」で経験している自ー他者に、その責任が生成されるのである。