水平線

研究と批評.

2021-01-01から1年間の記事一覧

言葉と身体の臨界ーー濱口竜介論序説 ②

濱口竜介の作品は、身体と言葉の随伴性を基軸に据えなければ作品を解釈することはできない。まずは、濱口作品における身体性から確認していくことにしよう。 『ハッピーアワー』(2015)は、「重力」=他者関係の変化が、自己の変化と並行する。「重心」を生…

言葉と身体の臨界ーー濱口竜介論序説 ①

我々の世界は映画である。我々は映画としての世界に住み着いている。いや、正確に言わねばならない。映画の登場人物たちはその映画の中に住み着いているのではなく、取り囲まれ、貫かれ、配置され、話させられ、見させられるものとして取り込まれている。我…

『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介)

濱口竜介の作品は、いつも物語の「先」、あるいはその「外部」を求めてしまう。『ハッピーアワー』(2015)のラストが、神戸を旅立った純(川村りら)を乗せた船が水平線を航海しているショットで終わるのであれば、『寝ても覚めても』(2018)は、丸子亮平…

『キャラクター』②(永井聡)

「お前は、狂っている」と客体を名指しするとき、名指しをした主体が理性的存在であるという根拠は一体何だろうか。われわれは、他者を「狂気」と定義することのできる言語の狂気性こそを問われなければならないのではないか。あるいは理性的言語を駆使する…

『キャラクター』①(永井聡) 

リアリズムが作品のどこかに表象されることによっての経験がリアリティを与えるのか。あるいは、フィクション内におけるリアリズムが、現実世界の「リアリズム」を形成しているのか。このような問いは、あまりに馬鹿げていると、あるいはそのような問いは成…

『きみが死んだあとで』(代島治彦)

地獄への道が善意で敷き詰められているなら、悪意で敷き詰めないと天国への道は開かれないのかもしれない。しかし、この世界は、天国でも地獄でもない。煉獄である。この世界では、地獄への道と天国への道は反転可能になっている。この世界は、悪を活用して…

『狼をさがして』(キム・ミレ)

かつて〈東アジア反日武装戦線〉(以下、「狼」)が、「虹作戦」(昭和天皇が乗った列車の爆破計画)を決行するはずであった鉄橋が幾度も表象される。だが、鉄橋の彼方は霞んで何も見えない。決して「狼」は、やってこない。「狼」は、絶滅したのだ。だが「…

『花束みたいな恋をした』(監督:土井裕泰・脚本:坂本裕二)

終電を逃さなかったら出逢わなかった「かもしれない」ーー。「かもしれない」という複数の可能世界には、新自由主義による中間的な社会領域の喪失が、個人的領域と他者的領域の両者を媒介なく接続されることでリアリティを与える。そして、さらにこの可能世…

『れいわ一揆』(原一男)

2019年の参議院選挙での、れいわ新選組の躍進は神風が吹いているのではないかと「誤認」させるほどの瞬間風速であった。それは、まさに「れいわ旋風」であり、一定数の市民を熱狂させることに成功したと言えるだろう。 しかし、成熟した秩序ある中間団体なき…