かつて〈東アジア反日武装戦線〉(以下、「狼」)が、「虹作戦」(昭和天皇が乗った列車の爆破計画)を決行するはずであった鉄橋が幾度も表象される。だが、鉄橋の彼方は霞んで何も見えない。決して「狼」は、やってこない。「狼」は、絶滅したのだ。だが「狼」が、残した傷痕はどうか。「狼」は、われわれに無数に問いかける。「狼」は、われわれの傷痕に亡霊のように回帰してくることだろう。
冒頭の釜ヶ崎における日雇い労働者たちの場面からも象徴的であるように、「狼」が連帯を表明する労働者は、流動的労働者に限られている。あるいは、アイヌ、沖縄、朝鮮人民などである。さらに『腹腹時計』の記述には、マルクス=レーニンの名が登場しない。また、日本の労働者階級自体も帝国主義当事者として否定されている。このような特徴は、従来の左翼、あるいは新左翼にはない特徴である。
一方で、新左翼を含めた既成左翼からの批判も厳しかった。批判の要点としては、第一に、国家権力ではなく、企業に爆弾を仕掛けたところで革命には至らないということである。第二に、階級的視点である。「狼」の主張に基づく限り、被抑圧階級である労働者それ自体の存在を全否定することになり、労働者革命による革命を否定することになるのである。
しかし、既成左翼の批判は、的外れでしかないだろう。あくまで、この対立構図に準ずるのであれば、「狼」の論拠の方が闘争として正しい。なぜか。既成左翼は、「企業に爆弾を仕掛けたところで革命には至らない」と裁断するが、そうではない。「企業」それ自体を対象とすることにこそ革命的闘争としての意味があったのである。それこそが、68年5月を経て、70年代に「狼」の誕生を待望した所以だったのではなかったか。
フランス社会党内の少数派マルクス主義集団CERESの指導者であったJ・L・シャルティエは、70年代当時の権力の分節構造の特殊性に注目している。シャルティエの権力構造の分析を確認することは、国家独占資本主義論の揚棄、ブロック・ヘゲモニー概念の提起を試みるものである。
シャルティエによれば、独占資本の展開は、科学技術の導入による経済過程の操作化を通じて、企業権力を成立させている。そして、生産過程においてだけではなく、流通=分配過程、教育や医療などの労働力の再生産過程においても企業権力を普遍的に成立させている。この権力は、国家権力とは異なり、テレビ・ラジオなどの情報機関、交通諸機関、大学等教育研究機関、医療諸機関などにおいて日常的な諸種の抑圧として機能する。すなわち、こうした諸機関における被抑圧者であるはずの労働者自身が、当の諸機関の利用者を企業権力の操作対象にしているということである。そして、この企業権力の操作総体を法的に保障するのが国家権力である。そのため、権力は、国家権力によってだけでなく、複雑に分節した企業権力によっても構成されていることになる。
既成左翼は、権力を国家権力(公的権力)の一枚岩でしか捉えられていない。そうではなく、諸種の企業権力において権力を把握することは、企業を含む諸機関の労働者までもが、非集権化を通じて経済過程の制御や諸機関の意思決定に参加する可能性を拓くことなのである。このような現実認識は、冷戦崩壊以降から現在に至るまでの多国籍企業という組織形態をとった生産諸資本の循環過程が、「狼」の思想のようにグローバルとナショナルの次元で展開でしている実情にもアクチュアルなのである。
ところで最近、名古屋入管に収容中に死亡したスリランカ国籍の女性のニュースが報道された。彼女は、「ほんとうに、いま、たべたいです」という言葉を残して死亡したようだ。
「狼」が、起こした行動を肯定することはできない。しかし、同時に「狼」の思想を全否定することもできない。「狼」の問いかけは、当時よりも露骨に明確に、かつ自覚的に、当時とは異なる形で帝国主義を志向しているのではないだろうか。われわれは、決して「狼」の問いに答えることができていない。われわれは、無自覚の加害者のままであるという自己認識から始めなければ「狼」以後の世界を掴み取ることはできない。天皇制を含めた戦後日本の解体の内実を問わなければならないのである。