水平線

研究と批評.

『REVOLUTION +1』(足立正生)②

暴力は国際関係においてしだいに疑わしくて確実とはいえない道具になってきたが、国内問題では、とくに革命においては、評判と魅力を獲得するにいたっている。新左翼の強烈なマルクス主義的レトリックは、毛沢東が宣言した「権力は銃身から生じる」というまったく非マルクス主義的な確信の着実な成長とぴったり符合する。たしかにマルクスは歴史における暴力の役割に気がついていたが、しかしこの役割はかれにとっては第二義的なものであった。古い社会の終焉をもたらすのは暴力ではなくて、その社会に内在するもろもろの矛盾なのだ(ハンナ・アーレント, 2000, 『暴力についてーー共和国の危機』p. 105.)。

 

暴力を否定する人でさえも、うすうす感じているように、また、実際に経験してきたように、決まりきったかのように見える状況を切断して新たに動かすのは、もとよりそれは多くの場合、不発や失敗に終わるのだが、死をはらむ暴力をめぐる出来事である。それは不幸なこと、原罪に近いことであるが、そのような状況が、国や地域によっては、あるいはむしろ、世界全体にあっては、現に成立してしまっていることは確かなことであり、われわれもまた、この世では、それに相応しい構えをとらなければならないのである(小泉義之, 2022, 「暴力革命について」pp.132-3, 鈴木創士 編, 2022, 『連合赤軍ーー革命のおわり革命のはじまり』所収.)。

 

 本来人間とは法=正義なしに放置されるのであれば、互いに殺し合う本性をもっている。しかし近代社会への進展によって人間は、自由で平等な個人として社会に参画し、法=正義の原則を自ら制定して服従する。これが民主制=市民社会である。

 だが逆に言えば、民主制の内包には多くの条件が含まれていることを意味する。すなわち〈民主制の担い手〉(小泉義之)の条件を満たさない者は、囲いの外部に排除されて〈残された者〉(小泉義之)になるのである。小泉は次のように述べている。

 

民主制=領域国家は、〈残された者〉を外延的に確定する装置によって、〈残された者〉についてのたんなる観念体系が、誰かのことを表示し、誰かについて概念化している、と信じさせる。他方、人は、自分は〈残された者〉ではない〈残り者〉であると信じ、同時に、民主制の観念体系が自分のことを表示し、自分について概念化していると信ずる。人は、自分は〈残り者〉であるが故に〈民主制の担い手〉であると信ずるのだ。そして人は、〈残された者〉に対して共通のロゴスとパトス(sensus commnis)を抱く者を同類と信ずる。こうして民主制の理念は降臨して領域国家となる(小泉義之, 2010, 『「負け組」の哲学』pp.82-3)。

 

 以上から導きだせる一つの解は、次のことである。それは、民主制と国家の関係を切断する主体は、民主制に内包された者ではないということである。国家に正義を期待できないのであれば、誰かが国家権力に対して暴力で臨まざるをえないし臨まなければならないのである。

 終盤、達也の妹は(前迫莉亜)カメラ目線で民主主義の大切さを説く。だが、三島由紀夫が語っていたように民主主義とは暗殺である(たとえば中島一夫「暗殺と民主主義」を参考にせよ)。中島も指摘するように「議会制民主主義によって保障されている『言論の自由』は常にすでに危ういもの」なのである。ここに達也(タモト清嵐)の立場を思考=志向する余地があり、戦後の平和共存路線をいかに思考する余地があるだろう。

 

 社会が、あるいは政治が加速する時代において総合的決断するための時間は多く与えられるわけではない。だからといって、独裁的あるいは英雄的解決を信じることは危機の深刻化を招きかねない。とはいえ、達也のように「銃」弾を撃ったところで「自由」が到来するわけではない。

 ラスト、達也の姿勢は言葉以前の母親の母胎=母胎回帰のようである。だが社会、政治は言葉から逃げることはできない。最終解決のない「居心地の悪さ」と付き纏うことでしか、政治は可能ではなく、成功もしない。このことは未来の政治においても変わることはないのである。