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研究と批評.

災厄の理想郷ーー「災害ユートピア」と市民社会の臨界

 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染・拡大が止まらない。中国を発現とし、世界的に拡大し続け、様々な影響が出ていることは周知の事実だ。国内においてもマスクの品薄、そして卒業式や入学式、大規模なイベントやライブの自粛を求めるよう政府は声明を出している。そして、それは経済活動に多大な影響を与えていることと同義であり、危機に乗じて新自由主義構造改革等の施工を目論む「惨事便乗型資本主義」である。まさに、竹中平蔵を典型とした「ショック・ドクトリン」だろう。

 かつての歴史的事象である「68年革命」の教示は、フランス等の先進資本主義国でもゼネストを数週間決起すれば、イデオロギーが揺らぎ革命の胎動を予感させたことにある。それは、疎外された主体性の回復を意図したものであった。だが、今回の新型コロナウイルスは、あくまでも偶発的(と言えるかは今回に関しては曖昧であるが)な災害である。確かに、資本主義社会に多大な影響を与えていることを鑑みれば革命と宣言できるかもしれない。だが、議論の余地は残されているだろう。

 

 かつてアナキストを自称する栗原康は、災害は革命だ、と高らかに宣言していた。栗原は、次のように言及している。

 

 

革命というのはなにも民衆が積極的にひきおこしたものばかりではない。ぜんぜんのぞんでいなくても不可避的におこってしまうことだってある。たとえば、いちばんわかりやすい例が、二〇一一年三月一一日の東日本大震災だ (『何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成』KADOKAWA, 2018) 

 

 

栗原は、革命とは新たな権力が立ち上がった瞬間に革命的ではないと言う。なるほど、栗原の論理はアナキストとして誠実である。3.11以降の社会運動の評価ではなく、震災によって政府やインフラが殆ど機能を果たさなかった点で革命なのだと。バクーニンは、「破壊への情熱は、同時に創造への情熱なのだ」と語っていた。確かに東日本大震災は、人為的ではなく偶発的な自然発生的現象ではあるが、市民が創造への情熱を駆られると同時に、クロポトキンが『相互扶助論』で語るように、人間やあらゆる生物には本能的に他者に対する相互扶助の機能が備えられていることの証左だったのである、と。そして、言うまでもなく3.11以降に脚光を浴びたレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』も栗原の論理と同様である。災害によって国家やインフラが機能しなくなった時、人間は暴力ではなく相互扶助的なユートピアを創造するのだ。

 一方で、栗原の何ものにも縛られないユートピア理論に対して、綿野恵太は異を唱える。綿野は、次のように言及している。

 

 

 栗原の論理はアナキストとして一貫している。では、こう問うことも許されるだろうか。大杉栄伊藤野枝ら多数のアナキストが殺害された関東大震災ははたして革命だったのか、と。1920年代初頭、労働運動の方針をめぐって「アナ・ボル論争」と呼ばれるマルクス主義アナキズムの思想的対立があった。(中略)通説によれば、理論的支柱だった大杉栄関東大震災の混乱のさなかに虐殺されたことでアナキズム陣営は力を失い、その結果日本ではマルクス主義の影響が強まったとされる。しかし、関東大震災アナキズムの思想的な敗北だったとしたらどうだろうか。(「震災は革命かーー栗原康のアナキズム関東大震災週刊読書人 論潮, 20180910掲載)

 

 

綿野は、関東大震災における虐殺を事例に、相互扶助による「自発性の暴走」を危惧している。それは、相互扶助の外部に存在するマイノリティの排除につながるのである。それは、3.11以降のファシズム的様相を帯びた「頑張ろう、日本」という不穏な空気感にも通底しているだろう。そもそも、なぜ東北地方を震源とした事象であるのに「日本」としたのか。中心を据えることによるロジックが震災復興を標榜した東京オリンピック開催まで一直線であることは明瞭である。他者との共生を美とする相互扶助概念には、安易に排除や差別に転回するロジックが内在している。それは、無意識の「災害ファシズム 」なのである。そこが、アナキズムの限界点だろう。アナキズムは、左/右のイデオロギーに御都合主義的に利用されてしまうのである。

 

 また、市民社会における「自由」と「平等」という擬制にも注視しなければならない。市民社会論には、資本主義における「下部構造」を凝視することができていない。おそらく市民の多くは「自由」と「平等」を欺瞞だと感じるのではないか。その最たる例は、PC(Political Correctness)だろう。絓秀実が、「PCとは資本主義を受け入れた上での心情的な疾しさ」と語るように、疚しい良心に耐えれぬ者は、排外主義に向かうしかない。2011年以降の市民運動の帰結が、レイシズムを掲げたトランプ政権を誕生させたことはその所作である。もはや、「自発性の暴走」を称賛できる時代ではないのだ。

 

 そして、言うまでもないが市民社会には「格差」問題が内在している。災害時に政府や企業等は、「速やかに安全な場所を確保してください」、「大規模なイベントは自粛してください」云々などの言説を垂れ流すわけであるが、そうした企業的主体の発言は、個々の「自己責任論」である。我々の「自己責任」は、政府・国家にとっての「無責任」というわけだ。

 こうした言説には経済的、または身体的に格差が残存すれば不可能性が内在している。それは、2011以降の社会運動のメルクマールの一人であったデヴィッド・グレーバーの「個人主義共産主義」にも指摘できることである。つまり、資本主義に構造化されている市民社会の格差をいかに解体し再構築することができるかであろう。3.11以降の市民主体的な「新しい社会運動」では、新自由主義イデオロギーに対抗することはできない。それは、政治に「政治」を対置するのではなく、「倫理」を対置するに過ぎないからだ。

 

 新型コロナウイルス(COVID-19)の流行が終息する気配は、今のところない。今後、エリートパニックを起こした政府の諸対応に、市民はいかなる反応をするのだろうか。ウイルスという見えない敵は、グローバルに越境していく。人類は、そうした敵を可視化されている「対象」へと反転するだろう。他者への人種主義的差別、ナショナリズムなどが過熱することは想像に容易い。表象されないウイルスがグローバルに拡大し、ナショナリズムが「グローバル」に進行するのだ。

 さて、今回の新型コロナウイルスの拡大は我々に何を教示してくれるのだろうか。おそらく、今回の事例も資本主義に回収されてしまうのだろう。災害は革命だ、と高らかに宣言したところで事象を主体的に組織化できる「党」も存在しない。レーニンが語る「外部注入論」が機能しえない。2011以降の政治的闘争における水平的・自律的な特異的な市民によるマルチチュードのように雲散霧消してしまうだろう。

 労働価値説は失効し、サッチャーの「社会は存在しない」という発言のように市場には存在しているが社会には存在していない。そのような社会で、いかに組織化は可能なのか。「自由」と「平等」の理念を元に、マルチチュードと叫ぶのは容易い。未曾有の災害で相互扶助の共同性が現出したとしても方法論がない。また、我々が直面している現実は、相互扶助的なユートピアではない。むしろ、我々が存在する市民社会には「暴力」へと回帰する可能性が内在していることに危惧しなければならない。我々に必要なのは、その「暴力」に立ち向かう組織的理論なのである。