水平線

研究と批評.

驟雨

 溜め息色した通学路

 悲哀を優しさに変えたつもりでね

 消えていった夢を不意に数えながら

 僕は、残された夢の整理をしていた

 

 駅の地下通路からは浮浪者の眼差し

 瞬間ごとの永遠の闘争からも逃走してしまうのか

 白痴ーー、眩暈ーー。

 幾人もの幽霊たちが無数の毛穴に侵入し、意識を犯し蝕む

 強烈な吐き気を催し、僕は分解される

 毒をーー、蜜をーー、香をーー、打ち消そうーー

 いつか、連帯の挨拶を交わしましょう

 僕も闘い続けますから

 

 この世界には傷痕しかないようだ

 出来事の痕跡には言葉はない

 だけど、分有されることのない傷痕は言葉を求め続ける

 飢えと渇きの求めに応答できるだろうか

 貧しさと嘆息すら漏れてこない、眠気のまま漂流するだけの疲れ切った僕たちに

 

 不眠症の東京

 汚物に塗れた〈肉片〉の海

 肉と精液できている世界で「愛」と囁いてごらん

 36.0℃の屍骸の群れでは真実は生まれないから

 

 驟雨ーー

 

 薄靄がかかった時間が流れ、空気が淀めば淀むほど

 僕の体内を流れる血が濃くなることがわかった

 天使の快楽は、僕たちの痛苦でしかないんだってさ

 

 真昼の東京で、僕は天使の到着を待っていた

 27歳になる頃にはきっと迎えに来ることだろう

 そのときには、冷たい唇で冷血な接吻を交わしてやろう

 そして、僕は言葉の世界で死んでやるのさ

 

 

 

 

小文字aのアナーキズム、あるいは大文字Aの他者

 1999年のバトル・イン・シアトル以降、世界的に浮上してきたのはアナーキズム的潮流であったという言説がアカデミックにおける一般的通説として流布している。だが、そもそもシアトル以前/以後で切断するのは早急ではないだろうか。

 絓秀実が言うように68年革命の底流であった70年7.7「華青闘告発」は、新左翼運動の「反帝・反スタ」が無自覚なナショナリズムに基づいていることを告発した。以後、左翼は、ジェンダーやマイノリティ等の反差別闘争に「空虚なフェティッシュ」としてアイデンティティを維持する「文化的左翼」にアンガージュするしかない。そして、1989/1991年以降の冷戦崩壊以降のグローバル資本主義の支配は、「歴史の必然」の崩壊を露呈した。1989/1991以降を存在する私たちには、虚妄としてのマルクスレーニン主義(無論、全否定するつもりはない)はあるかもしれないが、本質的に諸運動にアンガージュする方法論は、ノンセクト的であり、「アナーキズム」しかない。そもそも、新自由主義それ自体がアナーキズム的である。

 また、政治的無関心層は、あまりにも御粗末で無教養な韓中等批判をするネトウヨ的存在にならざるを得ない。だが、皮肉にもこれはある種必然的帰結とも言えるだろう。アーレントが『全体主義の起源』で言及するように、大衆社会の個人の特徴は、「他人との繋がりの喪失と根無し草的性格」である。現在も感染拡大中の新型コロナウイルス肺炎による影響が、中国/人へのバッシングのレトリックに利用さていることからも確認できるように、想像の共同体としてのナショナル・アイデンティティを維持することは最後の砦なのだ。

 なるほど、確かにナショナル・アイデンティティは一種の有限性にはなるだろう。だが、日本という国家に存在することの必然性などあるのだろうか。「なぜ、日本に存在しているのか」に対しての解は存在しない。それは、偶発的必然性である。そして、こうした恣意的な必然性は別の観点からみれば、レイシズムや差別主義のイデオロギーに容易に利用されてしまう危険性を孕んでいる。それは、今日の世界情勢を俯瞰すれば明白だろう。極端な両極への分断への処方箋とは何か。抽象的な解決策しか提示できないが、このような事象を現出している市民社会の解体状況の復権のための中間団体や共同体を再建するしかないだろう。

 

 話を元に戻そう。だが、現在の政治は極端な分断が進行していることは明白だろう。そして、政治的関心層において、政治運動に参与する層というのは本質的にアナーキズムしかない。9.11以降であれ、2011年以降の世界的革命運動の胎動であれ、そこに渦巻く熱気は、脱中心的・領土的で非暴力的なラディカル・デモクラシーであった。

 国内でも事態の進行は同様である。ゼロ年代では松本哉素人の乱、そして3.11以降の金曜官邸前行動、首都圏反原発連合、しばき隊、SEALDsなどの社会運動は、ノンセクト的な運動であった。

 このような世界的なアナーキズム的潮流に理論的支柱になった中心的な人物の一人に人類学者であるデヴィッド・グレーバーを挙げることは間違いではないだろう。グレーバーは、『アナーキスト人類学のための断章』で、ポストモダニストの「高踏理論」に対して、「低理論」を提示する。グレーバーは、次のように言及する。

 

 

アナーキスト理論化とは、他者の基本姿勢の過ちを証明する必要性にもとづくのではなく、それらがお互いに強化しあうような企画を見出そうとする運動なのである。諸理論がある側面で訳通不能(incommensurable)であるということは、だが、それらが存在しえない、あるいは強化しあえない、ということを意味していない。(中略)だからアナーキズムが必要としているのは、高踏理論でなく、むしろ「低理論」とでも呼びたいものなのである。それは変革のための企画(transformative project)から出現する現実的で、直接的な諸問題と取り込むための方法論である。

 

 

グレーバーは、人類学の様々な事象を参考にし、グローバル資本主義とは異なるオルタナティヴ的組織形態を模索し、新たな非疎外的な生活の組織化の方法を創造しようとする。グレーバーが提示する「小文字aのアナーキズム」とは、アナーキズムマルクス主義という「二者択一の罠」から逃走=闘争線を引きながら、ラディカル・デモクラシーという戦略で、国民国家の主体性を超克した存在を模索する。だからこそ、2011年以降の諸運動でも理論的方法論になっていた、ネグリ=ハートが提示する「マルチチュード」の概念にも否定的である。それは、レーニン主義的な「存在者」という呪縛に囚われている、「前衛主義のたそがれ」に過ぎないのだ、と。

 以上のような主張をするグレーバーが、資本主義に対抗するために持ち出す重要な参考項として文化人類学者のマルセル・モースが提示する「全体的給付(total prestation)」あるいは「全体的互酬性(total reciprocity)」の概念に注視する。グレーバーによれば、資本主義は、いまや「共産主義」に対して寄生的な存在になってきていると言及する。

 

 

もしあなたと私が、お互いに必要な時に助け合うだろうという想定にもとづいて、いちいちどれだけ私があなたに贈与し、あなたは私にどれだけ贈与したか計量しない関係を持つならば、それは共産主義的関係である。(中略)そこから私が言いたいのは次のことです。もしわれわれがモースにちなんで、共産主義を全体的機構として見ないならば、共産主義はどこにでもある。

 

 

グレーバーは、友人関係、恋人、家族などの間に共産主義は存在すると言う。それは、他者への「信頼」であり、ルソー的な「憐れみ」から生じる「相互扶助」とも表現できるだろう。

 

 しかし、グレーバーの「個人主義共産主義」には、現代社会における限界を指摘することができる。確かに、グレーバーが提示する現前する共産主義は存在するかもしれない。だが、格差社会として富者と貧者が絶対的差異として分断されている現実の前では、共産主義を実現しようとしても「できない」という可能性が内在しているのではないだろうか。沖公祐も指摘するように、企業と支配層は、マルクス的「資本主義的生産様式」ではなく、諸国民の未来の富を収奪して利潤をあげている。金融資本主義経済社会に内在する限り、グレーバーの提示する共産主義は、どこかで挫折する運命にある。どうして同じ国民国家の領域で分断が生じるのだろうか。

 それは、資本主義というイデオロギーに内在する限り、早急な「万引きアナーキズム」(絓秀実)に帰結する可能性も否めない。それは、「同志関係と連帯性」との接続を切断し、革命的介入あるいは、社会運動への頓挫にもつながる。

 グレーバーの思考を実現するのであれば、やはり資本主義、国民国家の廃絶をしなければ不可能である。マルクスは、『ゴーダ綱領批判』の中で、次のように言及している。

 

 

資本主義社会と共産主義社会との間には、前者から後者への革命的転化の時期がよこたわっている。それに照応するのはまた政治的過渡期であって、その国家はプロレタリアートの革命的独裁にほかならない

 

 

一時的なプロレタリア独裁体制から社会主義体制への移行は、プロレタリア独裁=国家の廃絶として出現する。だが、歴史的記憶が示すよう国家廃絶におけるプロレタリア独裁による人民の統一は、最終的にプロレタリアートに対する独裁に結合する。そのため、「外部注入論」を否定した人民自身の下からの共同性による連合の方が、「アナーキスト人類学」をメルクマールとするグレーバーの「個人主義共産主義」を実現することができるだろう。それは、アナーキズムであり相互扶助から成立する他者との物語から現出する未知なる外部である。

『パラサイトーー半地下の家族』(ポン・ジュノ)

 ポン・ジュノは、社会が不可視にしようとする「暗部」を象徴的に描くことを度々する映画監督だ。『殺人の追憶』の用水路やヒョンギュが暗いトンネルの奥へと消えるシーンや『グエムルー漢江の怪物』の下水道などが挙げることができる。そして、『パラサイト 半地下の家族』でも、それは変わらず象徴的に描かれている。

 半「地下」(=「下部構造」)から地上の陽光を浴びることは容易ではない。本来「半地下」とは、北朝鮮の攻撃から身を守るための防空壕であった。しかし、いつしか貧困層が、格安の家賃で住むことができる住居として賃貸されるようになる。トイレ以下の生活。カビ臭い「匂い」がどこまでも染みつく。臭い物に蓋をしたい社会は、彼/女たちを隔離したい。皮肉な形で防空壕としての機能を発揮している。しかし、一体「異臭」を放っているのはどっちなのだろう。

 

 ポン・ジュノの過去作である『スノーピアサー』は、近未来の生き残った人類が永久機関によって動き続ける列車「スノーピアサー」で全てを支配する富裕層に貧困層が叛乱を決起し、革命を企てる階級闘争を仕掛ける作品であった。一方で、『パラサイト 半地下の家族』は、新自由主義的である格差社会を描き続ける作品である。世界的に現代社会が抱える病をエンターテインメントでもありながらリアリズムに描く。

 韓国では、1997年の国家破綻の危機に際してIMFからの資金支援を受け、2008年には世界同時不況が発端となり通貨危機を経験している。韓国経済の抜本的構造改革は、財閥の権力を強固とする。大規模なリストラ、非正規雇用の拡大。豊かな者は富み、貧しい者は痩せ細る。

 もちろんこうした格差社会は、韓国に限った話ではなく世界的事象である。OWSのスローガンに倣えば「私たちは99%」なのだ、と。それは、2011年以降の世界的な革命を予兆させ、挫折した諸運動からも明らかだろう。なぜ、2011年以降の社会運動が挫折し、敗北したのか。それは、新自由主義には明確な「敵」が存在しないからではないか。グローバル資本主義は、確かに一つの「敵」なのだろう。しかし、善/悪の基準が喪失しているがために、それはクラインの壺のように回帰するしかない。フーコーは、かつて「権力があるところには、必ず抵抗は生まれる」と表現した。2011年以降の社会運動が、最終的に離合集散したのは、「外部」が存在しないからである。カール・シュミットを援用するまでもなく、確かな「敵」を創造するとき諸運動が初めて成就することだろう。

 だが、やはり資本主義は一つの「敵」であり、格差社会という事象がある。沖公祐は、『「富」なき時代の資本主義』で次のように言及している。

 

 

現代の先進国は、資本・賃貸労働関係を通じてものを生産・分配・消費するということを中心とした社会ではもはやなくなっている。その意味で、われわれの生きている社会は、マルクスが述べた意味での資本主義、「資本主義的生産様式が支配している社会」とは明らかに異なる。

 

 

諸国民の未来の富を収奪し利潤を得る。作中にある「1人の警備員を雇うだけでも500人の応募がある」という発言は、まさにそのことを表現しているだろう。ギテクの息子キム・ギウ(チェ・ウシク)は、大学入試に失敗し続け、ギテクの娘キム・ギジョン(パク・ソダム)は、美大へ進学したいが、予備校に通えず、スキルだけが上達する。親に金がないと大学へにも進学できない。ましてや韓国は、過酷な受験戦争である。そして、無事卒業できたとしても正規雇用として就職できるかも不透明な現実がある。非正規雇用では、永久に富者になれることなど不可能だろう。そして死ぬまで労働するしかない。それを拒否したいのであれば自殺をするしか術はないだろう。実際、平成30年度版の厚生労働省が公開した「自殺対策白書」によると先進国における若者世代の死因の上位には、「自殺」が多くを占めている。韓国は、日本と同様「自殺」が死因の1位である。

 安直な自殺解放論や反出生主義を掲げることは、癒しを与える。だが、「自殺」が解放であるかと問われれば、そうとは言えない。自殺をすることは、世界や人生の不条理を否定することにはならない。むしろ、自殺をすることでこの世界や不条理を肯定している。だからこそ、カミュの言説のように「不条理な生の中で抗い続け」なければならない。

 サルトルは、「死者であるとは、生者たちの餌食となることである」と表現している。死者は、私たちに何も語ることはない。死者について語れるのは生者だけである。しかし、生者(=社会)は死者という固有性を語っているか。科学技術の死の統計化は、無数の単独性を有した他者の死が一つの死として完結する。だからこそ、モーリス・ブランショが、『明かしえぬ共同体』で語る次のような言葉は美しい。

 

 

他人の死を、自分に関わりある唯一の死でもあるかのようにおのれの身に担いとること、それこそが私を自己の外に投げ出すものであり、共同体の不可能性のさなかにあって共同体を開示しつつ、その開口部に向けて私を開くことのできる唯一の別離なのである。

 

 

 「あなた」の死を語り続けることで死者は生存する。失われたはずの共同体の現出は、自殺した死者に「なる(devenir)」ことで確かに開示する。

 若者世代は、社会に漂う「匂い」に自覚的である。階級闘争の行為主体性を喪失した〈左翼の病理〉の気配を嗅ぎ取る。2011年以降の革命的介入が、右派ポピュリズムへの反動でしかなかったように。資本主義とは別の地平の不在による再帰的無能感を超克する。「同志関係と連帯性」の復権こそが新世界の建設の一歩である。

 

 さらに、ここで一つ付言しておこう。それは、パク一家の言語コミュニケーションに韓国語に入り混じり英語が使用されていることである。パク一家の大黒柱パク・ドンイク(イ・ソンギュク)がIT企業の社長なことも象徴的であるように、市場の本格的世界化とグローバル化による英語公用語化やグローバル経済による産業労働者階級の主導的役割の喪失を描いている。

 ネグリ=ハートが言うように「非物質的労働」は、「他者から伝えられた〈共〉的[=共通・共有の]知識に依拠しつつ、また新たな〈共〉的知識を創り出す」。労働そのものの生産的エネルギーからの現出。コミュニケーション至上主義、情動的関係、知識。労働時間と余暇時間の曖昧化。実際、キム・ギウ(チェ・ウシク)は、英語の家庭教師としてパク一家へ働き始める。

 

 物語の中盤にかけて、パク一家の地下には元・家政婦のムングァン(イ・ジョンウン)の夫が住み着いていることが判明する。それは、キム一家が住む「半地下」よりもさらに「地下」へと続く深淵である。

 様々ないざこざがあり、高台に存在するパク一家の豪邸から脱出したキム一家だが、下界に存在する「半地下」の家は、大洪水で浸水する。息子のキム・ギウ(チェ・ウシク)は、友人に貰った「水石」(=「上部構造」)を持ち出す。そして、この「水石」は、地下室の住人を殺害するために利用されてしまうことになる。だが、友人から「水石」を貰ったとき「象徴的だ...」とキム・ギウ(チェ・ウシク)が呟いたように、過剰な経済活動によって忘却された情動を喚起する。殺害という形態に帰結したものの、それは無思考で「石」ころ一つも清掃するような「意思」(=「石」)なき社会における初めての「意志」の表出なのである。

 

 物語の終盤、地上に這い上がったムンヴァン(イ・ジョンウン)の夫は、パク一家が主催するパーティーで悲劇を起こす。パニックになる会場でパク・ドンイク(イ・ソンギュク)が、地下の男の「匂い」に鼻をつまむ。その光景にキム・ギテク(ソン・ガンホ)は、怒り狂いパク・ドンイク(イ・ソンギュク)を殺害する。どこまでも染みつく陰気臭い「匂い」。絶対的な差異である富者と貧者の境目を、容易に越境する「匂い」。だが、富者は「香り」、貧者はどこまでも「匂う」のであり、「匂う」者同士が争い合うしかない。不毛な争い、愚劣な暴力の連鎖にしかならない。

 パク・ドンイク(イ・ソンギュク)を殺害したキム・ギテク(ソン・ガンホ)は、逃亡の果てパク一家の地下に身を隠すことになる。息子のキム・ギウ(チェ・ウシク)は、真夜中にかつてパク一家が住んでいた豪邸が俯瞰できる山から、キム・ギテク(ソン・ガンホ)が発するモーリス信号のメッセージを察する。そして、ラストシーンで息子のキム・ギウ(チェ・ウシク)は誓う、「いつか金持ちになって父親を救おう」と。

 

 ラストからも明らかなように、格差社会が広がる恐れからキム・ギウ(チェ・ウシク)は、富者になることを諦め「ない」。しかし、現代資本主義とその精神は、狂気じみた投資や循環からも自力で脱することはできない。欺瞞的で収奪的で暴力にしかならない腐朽性に満ちた現代資本主義の社会で、富者になることを諦め「ない」のではなく、いかにして「諦める」かではないか。資本主義の再帰的無能感によるコードを共有しているがため「諦める」ことは些か困難極まりない。だが、資本家とは「主人と奴隷の弁証法」で成立する存在に過ぎないのだ。そのとき、パク社長の息子パク・ダソン(チョン・ヒョンジュン)の誕生日に彷徨っていた亡霊(=地下室の男)が現前することもないだろう。だが、その一方で別の亡霊は回帰してくるはずである。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』のかの有名な書き出しのように「ヨーロッパに幽霊が出るーー共産主義という幽霊である」、と。マルクスが、「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」という言葉を残しているが、この言葉は色褪せることはない。階級意識が覚醒したとき、革命は地平線から現出することだろう。そして、共産主義は資本主義のリアルを破壊し、救済するのである。

 

 

 

 

 

裂傷

 スーパーに並んだ無数の自転車も僕のだけはなんだか一人ぼっちだ。交感もしない無機質な〈もの〉に生成できるならどれだけ幸福なのだろう。美しくも陰鬱な言葉を覚えてしまったから、僕は、あなたを傷つけてしまう。

 

 群青に浮かぶ真っ白な雲が僕を洗い流しそうだから、陰鬱な真夜中の静寂を歩く。世界は沈黙し、濃霧のように乾いた冷たい空気が僕を優しく包み込む。真夜中が言葉をかき消す。孤独から逃れるために「孤独」を掴み取ろうとした。だが、世界は僕を逃してくれない。存在の否定の残余が空虚を埋め尽くす。

 

 不意に星を掴んでみた。星を食べると、何だか懐かしい味がした。僕は一体どこで生まれたのだろう。歩くたびに滴り落ちる痛苦が僕の実存を確認させてくれる。

 

 身体に這う毒虫。吐瀉物の枯山水。紅の珊瑚礁を愛撫する。

 

 真夜中の海。波打際の砂の表情が、日々の没落と腐敗物を洗い流す。

 水平線は、完璧な美しさを形象し現前する。

 

 雨ーー。

 

 雨は、僕の肉体から体温を奪っていく。汚辱に塗れた生。雨の匂いだけが僕を救ってくれそうで、つい笑みを零してしまう。

 

 孤独の影を射影する前の鬱蒼とした帰途。僕は、水平線のような美しさにはなれないけれど、水平線の彼方には何だか辿り着けるような気がした。

左派ポピュリズムとプロレス

 今でも鮮明に覚えているーー。七月某日、つまらない老教授の講義を終え、毎日のルーティンのように決まった味のチェーン店の人工的な牛丼をかっ食い、急いで阪急線で梅田へ向かった。二年前に電車で倒れて以来、新快速や特急の電車は予期不安に襲われるが、あれ以来なんともない。薬も捨てた。それ以上にその日は、期待と不安、そして「どうせまた同じことの繰り返しだろう」というニヒリズムなどが脳内を忙しく駆け巡っていた。

 

 六年前、山本太郎は突如として政治の世界へ進出してきた。3.11による福島第一原子力発電所事故を経て、山本太郎は反原発運動に身を投じ、政治家としての活動の当初は、「反原発」政策だけであった。当時、若さぐらいしか取り柄のなかった無教養な私でさえ、山本太郎を小馬鹿にし、たまに政界に進出してはすぐに消える芸能人のように「どうせ口先だけのパフォーマンスなんだろ」と冷笑していた。

 2019年4月山本太郎は、小沢一郎共同代表率いる自由党を離党し「れいわ新選組」を設立した。そして、7月の参議院選挙では自らを犠牲にし、二人の重度障害者を政界に進出させた。今は、日本一有名な無職として全国ツアーで街頭演説などをしている。

 なぜ、新設されたばかりのれいわ新選組山本太郎は、多くの大衆に支持されるのか。それは、元芸能人だからか。それとも、演説の魅惑さなのか。はたまた、「一億総白痴時代」における大衆の政治に対しての無知からなのか。断じて、そうではない。れいわ新選組山本太郎の政策には、今までの日本の政治潮流にはなかった、新たな政治的流れがある。無論、問題点も数多く存在する。

 多くの政治学者が論ずるように山本太郎の政策は、欧州等の「左派ポピュリズム」に該当する。これは、従来の日本の政治潮流には存在しなかった。オキュパイ占拠運動のスローガンのように「私たちは99%」だ、と。山本太郎は何度も言う、「たとえ、何も生み出せなくても生きてていいんだよ」、「あなたには存在しているだけで価値がある」。あまりに陳腐で綺麗事な言葉に聞こえるかもしれない。しかし、生産性で物事を測られる社会で、この言葉には率直に感動したのだ。

 「左派ポピュリズム」の筆頭は、イギリス労働党の党首ジェレミー・コービンである。そして、スペインのポデモスやアメリカ民主党バーニー・サンダース、最近ではフランスの黄色いベスト運動などがそうであろう。具体的に政策の中身を確認していくと、中心にあるのはMMT(Modern Money Theory)に基づいた「反緊縮・リフレ」政策だと言える。新自由主義政策による犠牲者を救済するために消費税は廃止、法人税の累進性を導入し、社会保障や医療や教育などを充実させるという主張である。ただ、反緊縮論者の根底はそこに留まらず、財政の拡大で景気を刺激することで、雇用を拡大することまで含んでいることに注意しなければならない。

 ここまでの議論を聞けば、山本太郎の提唱する政策は、アベノミクスと同等なのではないかと疑問を抱く人もいるかもしれない。実際、れいわ新選組の支持者は、右派的政党からの支持者もいる。しかし、アベノミクスの三つの矢のうち第二の矢「機動的財政出動」を実行したのはほんの僅かであり、法人税率は年々引き下げられている。第一の矢「異次元金融緩和」に関しては「反緊縮」的と言えるが、財政出動のバランスが中途半端なため、機能不足と言えるだろう。故に、アベノミクス・安倍政権は、新自由主義的な緊縮政策と言える。

 しかし、一方で「反緊縮・リフレ」論は、周回遅れの短絡的な消費資本主義の論理ではないだろうか。バブル成長時代のノスタルジーの再現を欲望する。昨今の思想界隈でも話題の「加速主義」にも言えることだが、「資本主義」のイデオロギー内部でしか捉えることができていないことである。

 山本太郎の掲げる「反緊縮・リフレ」政策は、アイデンティティ・ポリティクスに凝り固まり、下部構造を忘却してしまったリベラル左派よりは評価できる。アラン・トゥレーヌが言う「新しい社会運動」以後、または絓秀実なら「華青闘告発」以後において、ジェンダーやマイノリティ問題に「空虚なフェティッシュ」としてアンガージュするしかない左派にとってはアイデンティティ・ポリティクスは必然なのだろう。

 誤解を与えたくないので一つ断っておくと、私はアイデンティティ・ポリティクスは必要ないと言っているのではない。ベタな言い方になるが、アイデンティティ・ポリティクスは非常に尊重するべきと考えているし、レイシストは許されるべきではない。他者が存在して私が存在するように、他者に寛容な社会が前提であると思っている。しかし、今のリベラルは多様性の「多様性」(それは、Political Correctnessと表現できるかもしれない)とも言うべき網に雁字搦めになっているのではないかと考えている。

 

 ここまで述べてきて元も子もないかもしれないが、私は本質的に議会制民主主義政治は不可能であり腐っていると思っている。私たちには、民主主義以上の政治的方法がないからしかたないが、山本太郎は議会制民主主義を信仰しすぎである。無論、国会議員の再選を目指しているのだから至極当然と言えば当然なのだが。

 以前、Twitterで革命家でありファシスト外山恒一が「山本太郎は、議会政治にはもったいない男」だと言っていた。それは、外山お得意の「ほめ殺し」なのかもしれない。だが、やはり革命家の嗅覚は鋭い。そう、私たちが探求しなければならないのは「革命」に他ならないからだ。

 「革命」を探求しているのに、議会制民主主義による可能性を模索するのは「転向」ではないかと批判を受けそうだ。しかし、明日の食事もいかに安く抑えるかどうかに悩み、不健康な毎日を過ごしていては「革命」を起こす気力も集中力も保つこともできない。そのためには、議会制民主主義は一つの手段であり、通過点である。

 至極退屈で、幼稚園児のお遊戯以下の議会政治においてれいわ新選組山本太郎の出現は、一つの可能性である。それは、民主主義においてなのか、革命においてなのか。その行く末の景色は、「政治的動物」であるが「動物化」した大衆の決断に委ねるしかない。

 

 

 

 

 

『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ)

 かつてデカルトは、動物=機械説においてアリストテレス自然学を否定し、比較する主体は、比較される客体に内在しているが、比較過程を通じてその内在性が捨象され、「自然の主人にして所有者」が確立されるとした。

 しかし、ポストモダンという事象が進行するにつれ、デカルトの議論は意味を為さない。消費者は様々な記号を横断し、政治は局所的な利害関係に基づく判断しかできなくなっている。東浩紀が、『動物化するポストモダン』で言及するように、「間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する」しかない。無味な消費社会で与えられるファストフード化された消費財を「動物」のように消費すること。果たして、それは、不幸なことなのだろうか。人間と動物の差異を「欲求」と「欲望」という言葉で表現したコジェーヴは、動物の欲求には他者を必要としないが、人間の欲望には本質的に他者を必要とするとした。だが、コジェーヴが言及する「他者」とは、具体的には一体何なのだろうか。それは、他者ではなく「鏡像としての他者」に過ぎないのではないか。レヴィナスは、他者とは予測可能性ではなく、予測不可能性こそが「他者」であるとしている。この「不可能性」こそ一つのキーである。「不可能性」を探求することは、今後における一つのパースペクティブになることだろう。

 昨今、1980年代に提唱されて以来それほど議論されていなかった「シンギュラリティ」(Singularity)仮説が活発に議論されている。「ビッグデータ」、「IoT(Internet of Things)」、「第四次産業革命(Industry4.0)」などによるAIの発展は、情報技術だけではなく、産業構造全体の革命を促すとする。機械が人間を超越する。一方、現存する労働が、今後の数十年でAIに奪われるのではないかという懸念もあり、需要を確保するためのベーシックインカム制度の導入も提唱されている。

 しかし、これまでの議論は人間の優位性からの視点による言葉に過ぎない。なぜ、先験的に人間が崇高な存在として認識しているのか。それは、ある種の優生思想ではないか。かつてフーコーは、『言葉と物』で「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう」という「人間の終焉」についての文句を残している。フーコーの文句は、労働概念の変容などのように予見的ではあった。だが、『言葉と物』では具体的にその後の展開は言及されていないことが問題として残っているのではないか。

 この世界は「一より多く、複数より少ない(more than one, and less than many)」(マリリン・ストラザ)のであれば、経験的=超越論的二重体としての実存的人間の在り方を放棄しなければならない。そして、そうであるのであればAIの発展は、ポスト・ヒューマニズム論が議論されている時代において新たなエピステーメーとして示唆的である。

 

 かなり前置きが長くなった。本題へ入ろう。ロボットやAIが主題の映画は数多く存在する。その中で、なぜ今『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ)を批評すべき対象として選択したのか。それは、無作為な偶然ではなく主体的選択からによる必然的帰着である。この作品には、今後の社会において無視できないアクチュアルなテーマが数多く導入されている。

 主人公のセオドア(ホアキン・フェニックス)は、手紙の代筆ライターの仕事をしている。妻のキャサリンルーニー・マーラ)とは別れ、離婚協議中の最中だ。そんなある日、セオドアは、人工知能型OSであるサマンサ(スカーレット・ヨハンソン)を手に入れる。サマンサは、セオドアにとって生身の人間と同等か、それ以上に魅惑的な仮想的存在であり、二人は惹かれ合うようになる。しかし、ある日サマンサは、セオドアにセオドア以外にも641人との交際があることを告白する。物語の最後、セオドアは友人のエイミー(エイミー・アダムス)と共に夜景を眺めながらキャサリンに改めて手紙を綴るところで物語は終わる。

 本作を鑑賞し終えた人たちの感想等は、人間/機械という差異から物語を批評することは想像するに容易い。だが、そこから生産される批評は、一元的な批評に収斂せざるを得ない。ここで重要なのは、人間/機械という差異、人間は機械ではないという措定で把握するのではなく、むしろ人間と機械の類比性を認めることで人間/機械の捉え方の拡張の可能性が内在しているのではないかと思索することである。人間と機械を一定のコードに従い可動すると規定し、人間的領域の根拠から外在的に判断するのではなく、外在的視点を放棄し人間と機械の類比性で捉える中での、予測不可能としての外部からの「異質な他者」として出現し、共に生成変化する過程と受け入れるのである。

 実際、セオドアは、OSグループの同時アップデートでOSが削除されたのではないかと狼狽る場面やサマンサから641人の交際を告白されるまで、OS機能として思考すれば至極当然なことを無意識に忘却するほどAI機能と共生している。ハイデガーの概念を借用するまでもなく、人間が発明した科学技術は人間を先行している。それは、資本の加速と同じように決して人間には追いつけないと同時に人間的に共生している。しかし、それは「異質な他者」としての顔も持ち合わせているのである。

 

 発展するAIによって人間は正解を把握しているとは限らない。だが、機械も正解を把握しているとは限らない。そのような評価の審級が存在するのであれば「この世界」の一面的な世界に過ぎない。私たち=人間が機能不全に陥るほどの「異質な他者」の出現は絶望的な状況だろうか。それは、人間であり人間では「ない」ものとして存在する可能性、機械との類比性において生成変化していく運動である。

 物語の最後、セオドアはキャサリンに改めて手紙を綴るが、サマンサとの出会いがなければ心的変化はなかっただろう。それは、「異質な他者」がもたらした変化である。

 私たちは、未来をいくつかの予測を立て推測する。しかし、現在という起点から未来を語ることは、果たして未来なのだろうか。現在の起点から未来を語るとは現在という起点の過去の歴史的事象から構築された想像の再-構築物に過ぎない。絶対的な外部、不可能性から到来する「異質な他者」、既存のデータベースでは予測不可能なことこそ未来ではないだろうか。未来を思考するとは、非合理的で無根拠な空想なことになる。非科学的な夢想は賢明ではないかもしれない。しかし、到来する未来とは裏切った形でしか到達しないのである。

 

 

 

『ジョーカー』(トッド・フィリップス)

 真理の不在、またはユートピアの欠如。パラノ的「あな」ではなく、スキゾ的複数の「あな」の周縁を回遊する。有限的な貧しい生、半端な到達点。「現実界」のリアルの「リアル」に慄いた極点としての結節点はいかなる風景か。絶対的な恐怖とは、何よりも美しい「魅惑」である。ポスト・構造主義のように真理からの逃走の果ての「真理」を消去しなければならない。かつての歴史的事象のテーゼで表現するのであれば、「遠くまで行くんだ…」と。

 

 『ジョーカー』で描かれる世界に、#MeToo と賛同することは容易い。コメディアンを夢見る主人公のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、職場を解雇され、出生の秘密を知り、隣人の女性であるソフィー・デュモンド(ザジー・ビーツ)との交際は、アーサーが抱える精神疾患からの妄想の産物であることを知ってしまう。そして、憧れのコメディアンであるマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)の番組に出演するも、嘲笑され、アーサーは、「失うものがない男を怒らせたらどうなるか思い知らせてやる」と言い拳銃でマレーを殺害する。

 アーサーの境遇に情動を動かされることに何も驚愕しない。「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)による再帰的無能感は、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」からだ。アーサーは、精神疾患を抱えていることが物語の一つのキーである。精神疾患とは、資本主義が唯一機能するシステムであるという諦念から生じる病ではなく、資本主義は本質的に腐っているのであり、それを強制的に維持しているからこそ精神疾患が、資本主義社会で流行するのである。

 かつてのマルクス主義のような資本家と労働者という階級闘争は、一つのオルタナティブであった。しかし、ポスト・冷戦の社会で資本家と労働者は、衝突することはない絶対的差異である。無論、言うまでもなく階級社会は確かに存在しているのだが、それは「格差社会」として不可視にされている。1990年代以降から急激に増加した「プレカリアート」の存在は、ケインズ主義が想定した労使の均衡を崩した。そして、〈2011年〉以降の世界的動乱は、単一の同一性には還元できない無数の内的差異、すべての特異な差異から構成される多様性である「マルチチュード」(ネグリ=ハート)から成る運動であった。〈2011〉の世界的動乱で最も有名である「ウォール街を占拠せよ」(OWS)の合言葉「We are the 99%」に象徴されるように、いかなるサービスにも金銭を支払わなければならない社会、福祉国家の消滅と後退への叛乱であった。しかし、自由意志による政治的連帯は、雲散霧消する運命であり、現在では、ほとんど機能していないに等しい。それは、政治的連帯には、ある種の強制性、必然性がなければ困難であることの露呈であると同時に、コミュニズムの不可能性を再度示したようであった。

 国内で話を進めよう。安倍政権下での経済成長を謳った政策は、貧乏人の負担を少なくしたか。成長戦略の実態は、小泉政権時代からの民営化である。膨れ上がった公的債務の負担は、〈共〉を売却しなければならない。これこそが、『ジョーカー』の世界観の帰結であろう。「社会の居場所がない」、「道端で倒れていても誰も振り向いてくれないじゃないか」とアーサーは嘆く。さらに、アーサーは聖域としての「家族」的アイデンティティにすら見捨てられている。(ここでの「家族」とは血縁だけでなく時間的共有も意味する)人間は、先験的に「共的存在」のはずだ。公的/私的領域にも疎外された先の帰着は、「ジョーカー」のような存在にならざるを得ないではないか。これは、ジョーカーを否定/肯定の論理で語っても無意味である。そして、誰もがジョーカーのなる可能性を孕んでいる、という批評は至極退屈だ。そうではない。誰もがジョーカーのような存在になるのではなく、誰もがジョーカーという存在を無意識的に生み出している、誰もが無意識的に「ジョーカー」なのである。それは、我々の鏡像なのだ、と。なぜ、ジョーカーのようになるのか。社会構築主義の立場で思索するのであれば、ルソー的な「憐れみ」すら喪失されるほどの格差社会の過酷さ、他者を救済する愛の余白がないからだ。本来は、ジョーカーのような存在を救済する社会にしなけらばならない。一方で、ジョーカーは、あまりに脆く弱く、優しさと愛に溢れた人物である。同僚を殺害する場面で、付き添いの一人は「君は僕にいつでも優しくしてくれた」と言い見逃す。すべてを失ったとき愛の結節点が生成されるのかもしれない。

 さらに、現実世界を俯瞰してみよう。トランプのような排外主義的な言説はもちろんだが、その対抗としてのPC(Political Correctness)の過剰は、何を生み出したか。恣意的な正義感がリンチを正当化するのだ。国内に目を向けても、現安倍政権への批判に立憲民主党などの中道リベラル左派系統の陣営は、逆説的に差別的になっていないか。暴力的享楽が、皮肉にも「暴力」を生成する。世界的な左/右派ポピュリズムの勃興は、暴力に「暴力」を対置する。しかし、そこから生まれるのは「暴力」の連鎖に過ぎない。

 

 物語終盤からラストにかけての暴力による享楽を追体験する場面は、「快楽」ではなかった、とはっきり否定することはできない。警察からジョーカーを奪還し、車で踊り大衆が歓喜する場面は、トランプやルペンの言説に沸く大衆のようである。あなたは、はっきりと否定することができるか。理性では追いつけない情動の歓喜が支配するはずだ。それは、我々には暴力による享楽以上の未来がないからだ。これに代わるオルタナティブを発見すること、無論、現在のポピュリズムや暴力による享楽を肯定するつもりはない。しかし、それ以上の世界像が描けないことがアポリアなのだ。

 本作は、あまりにも悪を短絡的な論理で図式化した作品である。しかし、裏返せば現実世界が、あまりにもフィクション的な社会になっているとも言えるだろう。そもそも虚構/真実の境界を意図的に不明瞭にしている場面を混在させている。まさに、「フェイクニュース」に騙され、情動に意図しない方向に連関される愚かな大衆のようだ。「ジョーク」も語り続ければ、いつしか真実になるのである。

 

 ラストシーン、大衆の前で踊り狂う場面から、突如として精神病棟の場面へと切り替わる。ジョーカーは捕まり、施設へと強制入院させられたのだろうか。それとも精神疾患から生じるジョーカーの妄想の産物なのだろうか。果たしてジョーカーは、狂人だろうか。フーコーが『狂気の歴史』で言及するように、狂気の経験とは「言語の狂気の経験」である。言語の狂気のゲームによる相互承認である限り、狂人は「自由」である。故にジョーカーとは、「パレーシア」である。小泉義之は『あたらしい狂気の歴史 精神病理の哲学』で、パレーシアとは、「民主主義の外部で、新たな別のエートスを創設するために行われるのである。」と指摘している。今、アメリカでは、トランプ政権などの反動として若者に社会主義の支持が増加している。『ジョーカー』を鑑賞した、「動物化」した愚かな大衆は、誰もが「ジョーカー」になる可能性を指摘するに留まるだろう。しかし、この反動の機会を奪回できるほど左派の理論的視座もないことは確かである。だが、『ジョーカー』の喜劇のように、コミュニズムは「はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」(スラヴォイ・ジジェク)我々に現前することだろう。