水平線

研究と批評.

左派ポピュリズムとプロレス

 今でも鮮明に覚えているーー。七月某日、つまらない老教授の講義を終え、毎日のルーティンのように決まった味のチェーン店の人工的な牛丼をかっ食い、急いで阪急線で梅田へ向かった。二年前に電車で倒れて以来、新快速や特急の電車は予期不安に襲われるが、あれ以来なんともない。薬も捨てた。それ以上にその日は、期待と不安、そして「どうせまた同じことの繰り返しだろう」というニヒリズムなどが脳内を忙しく駆け巡っていた。

 

 六年前、山本太郎は突如として政治の世界へ進出してきた。3.11による福島第一原子力発電所事故を経て、山本太郎は反原発運動に身を投じ、政治家としての活動の当初は、「反原発」政策だけであった。当時、若さぐらいしか取り柄のなかった無教養な私でさえ、山本太郎を小馬鹿にし、たまに政界に進出してはすぐに消える芸能人のように「どうせ口先だけのパフォーマンスなんだろ」と冷笑していた。

 2019年4月山本太郎は、小沢一郎共同代表率いる自由党を離党し「れいわ新選組」を設立した。そして、7月の参議院選挙では自らを犠牲にし、二人の重度障害者を政界に進出させた。今は、日本一有名な無職として全国ツアーで街頭演説などをしている。

 なぜ、新設されたばかりのれいわ新選組山本太郎は、多くの大衆に支持されるのか。それは、元芸能人だからか。それとも、演説の魅惑さなのか。はたまた、「一億総白痴時代」における大衆の政治に対しての無知からなのか。断じて、そうではない。れいわ新選組山本太郎の政策には、今までの日本の政治潮流にはなかった、新たな政治的流れがある。無論、問題点も数多く存在する。

 多くの政治学者が論ずるように山本太郎の政策は、欧州等の「左派ポピュリズム」に該当する。これは、従来の日本の政治潮流には存在しなかった。オキュパイ占拠運動のスローガンのように「私たちは99%」だ、と。山本太郎は何度も言う、「たとえ、何も生み出せなくても生きてていいんだよ」、「あなたには存在しているだけで価値がある」。あまりに陳腐で綺麗事な言葉に聞こえるかもしれない。しかし、生産性で物事を測られる社会で、この言葉には率直に感動したのだ。

 「左派ポピュリズム」の筆頭は、イギリス労働党の党首ジェレミー・コービンである。そして、スペインのポデモスやアメリカ民主党バーニー・サンダース、最近ではフランスの黄色いベスト運動などがそうであろう。具体的に政策の中身を確認していくと、中心にあるのはMMT(Modern Money Theory)に基づいた「反緊縮・リフレ」政策だと言える。新自由主義政策による犠牲者を救済するために消費税は廃止、法人税の累進性を導入し、社会保障や医療や教育などを充実させるという主張である。ただ、反緊縮論者の根底はそこに留まらず、財政の拡大で景気を刺激することで、雇用を拡大することまで含んでいることに注意しなければならない。

 ここまでの議論を聞けば、山本太郎の提唱する政策は、アベノミクスと同等なのではないかと疑問を抱く人もいるかもしれない。実際、れいわ新選組の支持者は、右派的政党からの支持者もいる。しかし、アベノミクスの三つの矢のうち第二の矢「機動的財政出動」を実行したのはほんの僅かであり、法人税率は年々引き下げられている。第一の矢「異次元金融緩和」に関しては「反緊縮」的と言えるが、財政出動のバランスが中途半端なため、機能不足と言えるだろう。故に、アベノミクス・安倍政権は、新自由主義的な緊縮政策と言える。

 しかし、一方で「反緊縮・リフレ」論は、周回遅れの短絡的な消費資本主義の論理ではないだろうか。バブル成長時代のノスタルジーの再現を欲望する。昨今の思想界隈でも話題の「加速主義」にも言えることだが、「資本主義」のイデオロギー内部でしか捉えることができていないことである。

 山本太郎の掲げる「反緊縮・リフレ」政策は、アイデンティティ・ポリティクスに凝り固まり、下部構造を忘却してしまったリベラル左派よりは評価できる。アラン・トゥレーヌが言う「新しい社会運動」以後、または絓秀実なら「華青闘告発」以後において、ジェンダーやマイノリティ問題に「空虚なフェティッシュ」としてアンガージュするしかない左派にとってはアイデンティティ・ポリティクスは必然なのだろう。

 誤解を与えたくないので一つ断っておくと、私はアイデンティティ・ポリティクスは必要ないと言っているのではない。ベタな言い方になるが、アイデンティティ・ポリティクスは非常に尊重するべきと考えているし、レイシストは許されるべきではない。他者が存在して私が存在するように、他者に寛容な社会が前提であると思っている。しかし、今のリベラルは多様性の「多様性」(それは、Political Correctnessと表現できるかもしれない)とも言うべき網に雁字搦めになっているのではないかと考えている。

 

 ここまで述べてきて元も子もないかもしれないが、私は本質的に議会制民主主義政治は不可能であり腐っていると思っている。私たちには、民主主義以上の政治的方法がないからしかたないが、山本太郎は議会制民主主義を信仰しすぎである。無論、国会議員の再選を目指しているのだから至極当然と言えば当然なのだが。

 以前、Twitterで革命家でありファシスト外山恒一が「山本太郎は、議会政治にはもったいない男」だと言っていた。それは、外山お得意の「ほめ殺し」なのかもしれない。だが、やはり革命家の嗅覚は鋭い。そう、私たちが探求しなければならないのは「革命」に他ならないからだ。

 「革命」を探求しているのに、議会制民主主義による可能性を模索するのは「転向」ではないかと批判を受けそうだ。しかし、明日の食事もいかに安く抑えるかどうかに悩み、不健康な毎日を過ごしていては「革命」を起こす気力も集中力も保つこともできない。そのためには、議会制民主主義は一つの手段であり、通過点である。

 至極退屈で、幼稚園児のお遊戯以下の議会政治においてれいわ新選組山本太郎の出現は、一つの可能性である。それは、民主主義においてなのか、革命においてなのか。その行く末の景色は、「政治的動物」であるが「動物化」した大衆の決断に委ねるしかない。