水平線

研究と批評.

裂傷

 スーパーに並んだ無数の自転車も僕のだけはなんだか一人ぼっちだ。交感もしない無機質な〈もの〉に生成できるならどれだけ幸福なのだろう。美しくも陰鬱な言葉を覚えてしまったから、僕は、あなたを傷つけてしまう。

 

 群青に浮かぶ真っ白な雲が僕を洗い流しそうだから、陰鬱な真夜中の静寂を歩く。世界は沈黙し、濃霧のように乾いた冷たい空気が僕を優しく包み込む。真夜中が言葉をかき消す。孤独から逃れるために「孤独」を掴み取ろうとした。だが、世界は僕を逃してくれない。存在の否定の残余が空虚を埋め尽くす。

 

 不意に星を掴んでみた。星を食べると、何だか懐かしい味がした。僕は一体どこで生まれたのだろう。歩くたびに滴り落ちる痛苦が僕の実存を確認させてくれる。

 

 身体に這う毒虫。吐瀉物の枯山水。紅の珊瑚礁を愛撫する。

 

 真夜中の海。波打際の砂の表情が、日々の没落と腐敗物を洗い流す。

 水平線は、完璧な美しさを形象し現前する。

 

 雨ーー。

 

 雨は、僕の肉体から体温を奪っていく。汚辱に塗れた生。雨の匂いだけが僕を救ってくれそうで、つい笑みを零してしまう。

 

 孤独の影を射影する前の鬱蒼とした帰途。僕は、水平線のような美しさにはなれないけれど、水平線の彼方には何だか辿り着けるような気がした。

左派ポピュリズムとプロレス

 今でも鮮明に覚えているーー。七月某日、つまらない老教授の講義を終え、毎日のルーティンのように決まった味のチェーン店の人工的な牛丼をかっ食い、急いで阪急線で梅田へ向かった。二年前に電車で倒れて以来、新快速や特急の電車は予期不安に襲われるが、あれ以来なんともない。薬も捨てた。それ以上にその日は、期待と不安、そして「どうせまた同じことの繰り返しだろう」というニヒリズムなどが脳内を忙しく駆け巡っていた。

 

 六年前、山本太郎は突如として政治の世界へ進出してきた。3.11による福島第一原子力発電所事故を経て、山本太郎は反原発運動に身を投じ、政治家としての活動の当初は、「反原発」政策だけであった。当時、若さぐらいしか取り柄のなかった無教養な私でさえ、山本太郎を小馬鹿にし、たまに政界に進出してはすぐに消える芸能人のように「どうせ口先だけのパフォーマンスなんだろ」と冷笑していた。

 2019年4月山本太郎は、小沢一郎共同代表率いる自由党を離党し「れいわ新選組」を設立した。そして、7月の参議院選挙では自らを犠牲にし、二人の重度障害者を政界に進出させた。今は、日本一有名な無職として全国ツアーで街頭演説などをしている。

 なぜ、新設されたばかりのれいわ新選組山本太郎は、多くの大衆に支持されるのか。それは、元芸能人だからか。それとも、演説の魅惑さなのか。はたまた、「一億総白痴時代」における大衆の政治に対しての無知からなのか。断じて、そうではない。れいわ新選組山本太郎の政策には、今までの日本の政治潮流にはなかった、新たな政治的流れがある。無論、問題点も数多く存在する。

 多くの政治学者が論ずるように山本太郎の政策は、欧州等の「左派ポピュリズム」に該当する。これは、従来の日本の政治潮流には存在しなかった。オキュパイ占拠運動のスローガンのように「私たちは99%」だ、と。山本太郎は何度も言う、「たとえ、何も生み出せなくても生きてていいんだよ」、「あなたには存在しているだけで価値がある」。あまりに陳腐で綺麗事な言葉に聞こえるかもしれない。しかし、生産性で物事を測られる社会で、この言葉には率直に感動したのだ。

 「左派ポピュリズム」の筆頭は、イギリス労働党の党首ジェレミー・コービンである。そして、スペインのポデモスやアメリカ民主党バーニー・サンダース、最近ではフランスの黄色いベスト運動などがそうであろう。具体的に政策の中身を確認していくと、中心にあるのはMMT(Modern Money Theory)に基づいた「反緊縮・リフレ」政策だと言える。新自由主義政策による犠牲者を救済するために消費税は廃止、法人税の累進性を導入し、社会保障や医療や教育などを充実させるという主張である。ただ、反緊縮論者の根底はそこに留まらず、財政の拡大で景気を刺激することで、雇用を拡大することまで含んでいることに注意しなければならない。

 ここまでの議論を聞けば、山本太郎の提唱する政策は、アベノミクスと同等なのではないかと疑問を抱く人もいるかもしれない。実際、れいわ新選組の支持者は、右派的政党からの支持者もいる。しかし、アベノミクスの三つの矢のうち第二の矢「機動的財政出動」を実行したのはほんの僅かであり、法人税率は年々引き下げられている。第一の矢「異次元金融緩和」に関しては「反緊縮」的と言えるが、財政出動のバランスが中途半端なため、機能不足と言えるだろう。故に、アベノミクス・安倍政権は、新自由主義的な緊縮政策と言える。

 しかし、一方で「反緊縮・リフレ」論は、周回遅れの短絡的な消費資本主義の論理ではないだろうか。バブル成長時代のノスタルジーの再現を欲望する。昨今の思想界隈でも話題の「加速主義」にも言えることだが、「資本主義」のイデオロギー内部でしか捉えることができていないことである。

 山本太郎の掲げる「反緊縮・リフレ」政策は、アイデンティティ・ポリティクスに凝り固まり、下部構造を忘却してしまったリベラル左派よりは評価できる。アラン・トゥレーヌが言う「新しい社会運動」以後、または絓秀実なら「華青闘告発」以後において、ジェンダーやマイノリティ問題に「空虚なフェティッシュ」としてアンガージュするしかない左派にとってはアイデンティティ・ポリティクスは必然なのだろう。

 誤解を与えたくないので一つ断っておくと、私はアイデンティティ・ポリティクスは必要ないと言っているのではない。ベタな言い方になるが、アイデンティティ・ポリティクスは非常に尊重するべきと考えているし、レイシストは許されるべきではない。他者が存在して私が存在するように、他者に寛容な社会が前提であると思っている。しかし、今のリベラルは多様性の「多様性」(それは、Political Correctnessと表現できるかもしれない)とも言うべき網に雁字搦めになっているのではないかと考えている。

 

 ここまで述べてきて元も子もないかもしれないが、私は本質的に議会制民主主義政治は不可能であり腐っていると思っている。私たちには、民主主義以上の政治的方法がないからしかたないが、山本太郎は議会制民主主義を信仰しすぎである。無論、国会議員の再選を目指しているのだから至極当然と言えば当然なのだが。

 以前、Twitterで革命家でありファシスト外山恒一が「山本太郎は、議会政治にはもったいない男」だと言っていた。それは、外山お得意の「ほめ殺し」なのかもしれない。だが、やはり革命家の嗅覚は鋭い。そう、私たちが探求しなければならないのは「革命」に他ならないからだ。

 「革命」を探求しているのに、議会制民主主義による可能性を模索するのは「転向」ではないかと批判を受けそうだ。しかし、明日の食事もいかに安く抑えるかどうかに悩み、不健康な毎日を過ごしていては「革命」を起こす気力も集中力も保つこともできない。そのためには、議会制民主主義は一つの手段であり、通過点である。

 至極退屈で、幼稚園児のお遊戯以下の議会政治においてれいわ新選組山本太郎の出現は、一つの可能性である。それは、民主主義においてなのか、革命においてなのか。その行く末の景色は、「政治的動物」であるが「動物化」した大衆の決断に委ねるしかない。

 

 

 

 

 

『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ)

 かつてデカルトは、動物=機械説においてアリストテレス自然学を否定し、比較する主体は、比較される客体に内在しているが、比較過程を通じてその内在性が捨象され、「自然の主人にして所有者」が確立されるとした。

 しかし、ポストモダンという事象が進行するにつれ、デカルトの議論は意味を為さない。消費者は様々な記号を横断し、政治は局所的な利害関係に基づく判断しかできなくなっている。東浩紀が、『動物化するポストモダン』で言及するように、「間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する」しかない。無味な消費社会で与えられるファストフード化された消費財を「動物」のように消費すること。果たして、それは、不幸なことなのだろうか。人間と動物の差異を「欲求」と「欲望」という言葉で表現したコジェーヴは、動物の欲求には他者を必要としないが、人間の欲望には本質的に他者を必要とするとした。だが、コジェーヴが言及する「他者」とは、具体的には一体何なのだろうか。それは、他者ではなく「鏡像としての他者」に過ぎないのではないか。レヴィナスは、他者とは予測可能性ではなく、予測不可能性こそが「他者」であるとしている。この「不可能性」こそ一つのキーである。「不可能性」を探求することは、今後における一つのパースペクティブになることだろう。

 昨今、1980年代に提唱されて以来それほど議論されていなかった「シンギュラリティ」(Singularity)仮説が活発に議論されている。「ビッグデータ」、「IoT(Internet of Things)」、「第四次産業革命(Industry4.0)」などによるAIの発展は、情報技術だけではなく、産業構造全体の革命を促すとする。機械が人間を超越する。一方、現存する労働が、今後の数十年でAIに奪われるのではないかという懸念もあり、需要を確保するためのベーシックインカム制度の導入も提唱されている。

 しかし、これまでの議論は人間の優位性からの視点による言葉に過ぎない。なぜ、先験的に人間が崇高な存在として認識しているのか。それは、ある種の優生思想ではないか。かつてフーコーは、『言葉と物』で「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう」という「人間の終焉」についての文句を残している。フーコーの文句は、労働概念の変容などのように予見的ではあった。だが、『言葉と物』では具体的にその後の展開は言及されていないことが問題として残っているのではないか。

 この世界は「一より多く、複数より少ない(more than one, and less than many)」(マリリン・ストラザ)のであれば、経験的=超越論的二重体としての実存的人間の在り方を放棄しなければならない。そして、そうであるのであればAIの発展は、ポスト・ヒューマニズム論が議論されている時代において新たなエピステーメーとして示唆的である。

 

 かなり前置きが長くなった。本題へ入ろう。ロボットやAIが主題の映画は数多く存在する。その中で、なぜ今『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ)を批評すべき対象として選択したのか。それは、無作為な偶然ではなく主体的選択からによる必然的帰着である。この作品には、今後の社会において無視できないアクチュアルなテーマが数多く導入されている。

 主人公のセオドア(ホアキン・フェニックス)は、手紙の代筆ライターの仕事をしている。妻のキャサリンルーニー・マーラ)とは別れ、離婚協議中の最中だ。そんなある日、セオドアは、人工知能型OSであるサマンサ(スカーレット・ヨハンソン)を手に入れる。サマンサは、セオドアにとって生身の人間と同等か、それ以上に魅惑的な仮想的存在であり、二人は惹かれ合うようになる。しかし、ある日サマンサは、セオドアにセオドア以外にも641人との交際があることを告白する。物語の最後、セオドアは友人のエイミー(エイミー・アダムス)と共に夜景を眺めながらキャサリンに改めて手紙を綴るところで物語は終わる。

 本作を鑑賞し終えた人たちの感想等は、人間/機械という差異から物語を批評することは想像するに容易い。だが、そこから生産される批評は、一元的な批評に収斂せざるを得ない。ここで重要なのは、人間/機械という差異、人間は機械ではないという措定で把握するのではなく、むしろ人間と機械の類比性を認めることで人間/機械の捉え方の拡張の可能性が内在しているのではないかと思索することである。人間と機械を一定のコードに従い可動すると規定し、人間的領域の根拠から外在的に判断するのではなく、外在的視点を放棄し人間と機械の類比性で捉える中での、予測不可能としての外部からの「異質な他者」として出現し、共に生成変化する過程と受け入れるのである。

 実際、セオドアは、OSグループの同時アップデートでOSが削除されたのではないかと狼狽る場面やサマンサから641人の交際を告白されるまで、OS機能として思考すれば至極当然なことを無意識に忘却するほどAI機能と共生している。ハイデガーの概念を借用するまでもなく、人間が発明した科学技術は人間を先行している。それは、資本の加速と同じように決して人間には追いつけないと同時に人間的に共生している。しかし、それは「異質な他者」としての顔も持ち合わせているのである。

 

 発展するAIによって人間は正解を把握しているとは限らない。だが、機械も正解を把握しているとは限らない。そのような評価の審級が存在するのであれば「この世界」の一面的な世界に過ぎない。私たち=人間が機能不全に陥るほどの「異質な他者」の出現は絶望的な状況だろうか。それは、人間であり人間では「ない」ものとして存在する可能性、機械との類比性において生成変化していく運動である。

 物語の最後、セオドアはキャサリンに改めて手紙を綴るが、サマンサとの出会いがなければ心的変化はなかっただろう。それは、「異質な他者」がもたらした変化である。

 私たちは、未来をいくつかの予測を立て推測する。しかし、現在という起点から未来を語ることは、果たして未来なのだろうか。現在の起点から未来を語るとは現在という起点の過去の歴史的事象から構築された想像の再-構築物に過ぎない。絶対的な外部、不可能性から到来する「異質な他者」、既存のデータベースでは予測不可能なことこそ未来ではないだろうか。未来を思考するとは、非合理的で無根拠な空想なことになる。非科学的な夢想は賢明ではないかもしれない。しかし、到来する未来とは裏切った形でしか到達しないのである。

 

 

 

『ジョーカー』(トッド・フィリップス)

 真理の不在、またはユートピアの欠如。パラノ的「あな」ではなく、スキゾ的複数の「あな」の周縁を回遊する。有限的な貧しい生、半端な到達点。「現実界」のリアルの「リアル」に慄いた極点としての結節点はいかなる風景か。絶対的な恐怖とは、何よりも美しい「魅惑」である。ポスト・構造主義のように真理からの逃走の果ての「真理」を消去しなければならない。かつての歴史的事象のテーゼで表現するのであれば、「遠くまで行くんだ…」と。

 

 『ジョーカー』で描かれる世界に、#MeToo と賛同することは容易い。コメディアンを夢見る主人公のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、職場を解雇され、出生の秘密を知り、隣人の女性であるソフィー・デュモンド(ザジー・ビーツ)との交際は、アーサーが抱える精神疾患からの妄想の産物であることを知ってしまう。そして、憧れのコメディアンであるマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)の番組に出演するも、嘲笑され、アーサーは、「失うものがない男を怒らせたらどうなるか思い知らせてやる」と言い拳銃でマレーを殺害する。

 アーサーの境遇に情動を動かされることに何も驚愕しない。「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)による再帰的無能感は、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」からだ。アーサーは、精神疾患を抱えていることが物語の一つのキーである。精神疾患とは、資本主義が唯一機能するシステムであるという諦念から生じる病ではなく、資本主義は本質的に腐っているのであり、それを強制的に維持しているからこそ精神疾患が、資本主義社会で流行するのである。

 かつてのマルクス主義のような資本家と労働者という階級闘争は、一つのオルタナティブであった。しかし、ポスト・冷戦の社会で資本家と労働者は、衝突することはない絶対的差異である。無論、言うまでもなく階級社会は確かに存在しているのだが、それは「格差社会」として不可視にされている。1990年代以降から急激に増加した「プレカリアート」の存在は、ケインズ主義が想定した労使の均衡を崩した。そして、〈2011年〉以降の世界的動乱は、単一の同一性には還元できない無数の内的差異、すべての特異な差異から構成される多様性である「マルチチュード」(ネグリ=ハート)から成る運動であった。〈2011〉の世界的動乱で最も有名である「ウォール街を占拠せよ」(OWS)の合言葉「We are the 99%」に象徴されるように、いかなるサービスにも金銭を支払わなければならない社会、福祉国家の消滅と後退への叛乱であった。しかし、自由意志による政治的連帯は、雲散霧消する運命であり、現在では、ほとんど機能していないに等しい。それは、政治的連帯には、ある種の強制性、必然性がなければ困難であることの露呈であると同時に、コミュニズムの不可能性を再度示したようであった。

 国内で話を進めよう。安倍政権下での経済成長を謳った政策は、貧乏人の負担を少なくしたか。成長戦略の実態は、小泉政権時代からの民営化である。膨れ上がった公的債務の負担は、〈共〉を売却しなければならない。これこそが、『ジョーカー』の世界観の帰結であろう。「社会の居場所がない」、「道端で倒れていても誰も振り向いてくれないじゃないか」とアーサーは嘆く。さらに、アーサーは聖域としての「家族」的アイデンティティにすら見捨てられている。(ここでの「家族」とは血縁だけでなく時間的共有も意味する)人間は、先験的に「共的存在」のはずだ。公的/私的領域にも疎外された先の帰着は、「ジョーカー」のような存在にならざるを得ないではないか。これは、ジョーカーを否定/肯定の論理で語っても無意味である。そして、誰もがジョーカーのなる可能性を孕んでいる、という批評は至極退屈だ。そうではない。誰もがジョーカーのような存在になるのではなく、誰もがジョーカーという存在を無意識的に生み出している、誰もが無意識的に「ジョーカー」なのである。それは、我々の鏡像なのだ、と。なぜ、ジョーカーのようになるのか。社会構築主義の立場で思索するのであれば、ルソー的な「憐れみ」すら喪失されるほどの格差社会の過酷さ、他者を救済する愛の余白がないからだ。本来は、ジョーカーのような存在を救済する社会にしなけらばならない。一方で、ジョーカーは、あまりに脆く弱く、優しさと愛に溢れた人物である。同僚を殺害する場面で、付き添いの一人は「君は僕にいつでも優しくしてくれた」と言い見逃す。すべてを失ったとき愛の結節点が生成されるのかもしれない。

 さらに、現実世界を俯瞰してみよう。トランプのような排外主義的な言説はもちろんだが、その対抗としてのPC(Political Correctness)の過剰は、何を生み出したか。恣意的な正義感がリンチを正当化するのだ。国内に目を向けても、現安倍政権への批判に立憲民主党などの中道リベラル左派系統の陣営は、逆説的に差別的になっていないか。暴力的享楽が、皮肉にも「暴力」を生成する。世界的な左/右派ポピュリズムの勃興は、暴力に「暴力」を対置する。しかし、そこから生まれるのは「暴力」の連鎖に過ぎない。

 

 物語終盤からラストにかけての暴力による享楽を追体験する場面は、「快楽」ではなかった、とはっきり否定することはできない。警察からジョーカーを奪還し、車で踊り大衆が歓喜する場面は、トランプやルペンの言説に沸く大衆のようである。あなたは、はっきりと否定することができるか。理性では追いつけない情動の歓喜が支配するはずだ。それは、我々には暴力による享楽以上の未来がないからだ。これに代わるオルタナティブを発見すること、無論、現在のポピュリズムや暴力による享楽を肯定するつもりはない。しかし、それ以上の世界像が描けないことがアポリアなのだ。

 本作は、あまりにも悪を短絡的な論理で図式化した作品である。しかし、裏返せば現実世界が、あまりにもフィクション的な社会になっているとも言えるだろう。そもそも虚構/真実の境界を意図的に不明瞭にしている場面を混在させている。まさに、「フェイクニュース」に騙され、情動に意図しない方向に連関される愚かな大衆のようだ。「ジョーク」も語り続ければ、いつしか真実になるのである。

 

 ラストシーン、大衆の前で踊り狂う場面から、突如として精神病棟の場面へと切り替わる。ジョーカーは捕まり、施設へと強制入院させられたのだろうか。それとも精神疾患から生じるジョーカーの妄想の産物なのだろうか。果たしてジョーカーは、狂人だろうか。フーコーが『狂気の歴史』で言及するように、狂気の経験とは「言語の狂気の経験」である。言語の狂気のゲームによる相互承認である限り、狂人は「自由」である。故にジョーカーとは、「パレーシア」である。小泉義之は『あたらしい狂気の歴史 精神病理の哲学』で、パレーシアとは、「民主主義の外部で、新たな別のエートスを創設するために行われるのである。」と指摘している。今、アメリカでは、トランプ政権などの反動として若者に社会主義の支持が増加している。『ジョーカー』を鑑賞した、「動物化」した愚かな大衆は、誰もが「ジョーカー」になる可能性を指摘するに留まるだろう。しかし、この反動の機会を奪回できるほど左派の理論的視座もないことは確かである。だが、『ジョーカー』の喜劇のように、コミュニズムは「はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」(スラヴォイ・ジジェク)我々に現前することだろう。

 

 

 

あいちトリエンナーレ2019 ーー「表現の不自由展・その後」試論

 あいちトリエンナーレ2019「情の時代」内の企画展「表現の不自由展・その後」は、開催から3日足らずで中止に追い込まれる事態となった。政治的プロパガンダにしか見えないとされた作品に検閲や弾圧、市民からの抗議が殺到し、止むを得ずの判断だった。しかし、事態は収束の気配もなく、いまだにSNSなどでは議論が絶えることはない。こうした事態に、何人かのアーティストは、他の企画展に展示している作品を取り下げるなどの声明を発表し、表現における「不自由」に抗し、「自由」を探求する姿勢を示している。

 しかし、「表現の不自由」における「自由」とは何なのだろうか。言うまでもなく、表現の「自由」が守られることは必須の前提である。(無論、そんなものは虚妄に過ぎない)だが、逆説的にも、その「自由」が、「不自由」によって成立しているという前提を忘却してはならない。彼/女たちの反抗は、中高生が校則を破り煙草を吸う程度に過ぎないのだ。それは、「自由」の目的化によって生じるジレンマである。かつて、エーリッヒ・フロムは、ナチズム時代の国民性を「自由からの逃走」と表現したが、今回の騒動の背景は、むしろ「不自由からの逃走」と言えるだろう。しかし、その逃走の果てに衝突するのは同様の「壁」に過ぎない。

 

 自由な芸術=表象が存在するのであれば、それは私的領域に閉じた自慰に過ぎない。資本主義制において芸術的価値が生じるのであれば、市場価値に容認されなければならないからだ。それは、芸術家がどれほど尖ったところで覆ることはない事実なのである。「表現の不自由展」の作品に対して、「税金の無駄遣い」といった類の批判があるが、そのような批判は、ひとまず「芸術」として価値を容認していることを意味するだろう。しかし、そもそもどのようにして芸術に資本的価値の境界は決定されるのか。資本主義制において芸術的価値は事後的に生成されるしかない。これは、資本主義制における芸術のアポリアでもある。「表現の不自由展」における批判は、芸術/政治という二項対立における「政治」の抹消である。つまり、芸術に「政治性」が介入すれば、芸術「ではない」ことを一連の騒動による炎上が意味している。それは、ベンヤミンに倣えば「礼拝的価値」から「展示的価値」の転移から生じる「アウラの凋落」による「政治の美学化」と言えるだろう。

 しかしながら、今回の騒動は、芸術「ではない」と簡単に済ますことができない複雑な因子が絡み合っている。それは、我々の身体性に染み付いた確かな「歴史的記憶」なのである。

 「表現の不自由展」は、「政治の美学化」を遂行した。しかし、「慰安婦像」と「昭和天皇の肖像」の炎上は、外部に「美学の政治化」として政治的アリーナを形成したのだ。無論、それは他者なき聖域としての闘技場である。

 1990年代のポスト・冷戦時代において、「南京大虐殺はなかった」、「慰安婦問題は、国内外の反日勢力の陰謀」などの歴史修正主義や、自由主義史観に依拠した「新しい歴史教科書を作る会」が発足した。彼/女たちの論証は、左/右の軸ではなく、純粋な歴史観の探求は、必然的に「情」に帰着するに他ならない。そして、その最後の砦こそが「天皇」である。近年、リベラル派知識人(e.g. 内田樹宮台真司)の「天皇制」支持への転向は、象徴的でもある。

 

 本芸術祭の芸術監督である津田大介は、現代を「情の時代」というコンセプトを銘打った。しかし、「情の時代」は現代に限った話では、もちろんない。「表現の不自由展・その後」で再び可視化されたのは、左/右でもないつもりの一市民の一連の反応こそが「表現の不自由展・その後」を成功させたという事実である。「慰安婦像」や「天皇」に、パブロフの犬のように「情」を刺激され「不自由」化するのである。我々が、いまだに半封建的な前近代的な未熟な後進国に存在していることの露呈である。「情の時代」の持続を断ち切るには、「天皇制」を問わなければならない。そのとき、「情の時代」は一つの切断点となり、オルタナティブとしての「持続」が開始されることだろう。

 

 

『生きてるだけで、愛。』(関根光才)

 「生きてるだけで」なんて簡単に言えない。その生きる「だけ」がどれほど困難な社会なのだろう。寧子(趣里)のように躁鬱による過眠症は、なかなか他者に理解されることはない。そんなものは甘えだ、楽しければ治るよ、と。だが、「生きる」ことを生きる「だけ」と本心で言える人など存在するのだろうか。躁鬱などによる病でなくても、「内なる差別」から生きることは、苦痛となることもある。それは、「市民」という同質性の論理から零れ落ちた「異質なもの」として排除されている。在日外国人の処遇には、手続きの困難さや煩雑さなど問題が山積みである。また、障害者にとっては、健全的な肉体そのものが権力である。資本主義社会による労働=力の単純な図式は、「力」のあるものを正義とし、障害者や高齢者を「悪」とし隔離収容するのである。それは、どれだけシステムが整えられ、マイノリティのための政治をメルクマールにしても逃れられない事実なのである。だからこそ、小泉義之『生殖の哲学』の次の引用は美しい。

街路が自動車によってではなく車椅子や松葉杖で埋められているほうが、よほど美しい社会だと思う。痴呆老人が都市の中心部を徘徊し、意味不明の叫びを発する人間が街路にいるほうが、よほど豊かな社会だと思う。

 この価値転倒こそ「AI」化する社会にはない「愛」ではないか。どれだけシステムを改良しても、それは内部での改革に過ぎない。ゲーデルの「不完全性定理」のように、AIによる形式化の果てには、形式化不可能な部分に必然的に衝突する。この形式化不可能な部分を捨象するだけでいいのだろうか。だからこそ、小泉義之が言及する価値転倒こそサバルタンによる「革命」なのである。

 

 話を作品に戻そう。だが、これほどまでに「生きる」ことを「だけ」と簡単に宣言できない事象が顕在していることを確認することができたことだろう。腐りきった社会で、タイトルの「愛」を感受するのは、虚妄なのかもしれない。

 作品に登場する寧子(趣里)と津奈木(菅田将暉)も腐った社会で「生きる」ことに翻弄されている。寧子(趣里)は、躁鬱による過眠症で市民社会になかなか参与できない。また、津奈木(菅田将暉)は、文学という夢を諦め、出版社で下劣なゴシップ記事を執筆している。

 この二人が、なぜ同棲を始めたのか、なぜ魅了されたのか。その点に関しては具体的な描写はない。しかし、ここに本作品における核心があるのではないだろうか。

 

 愛を言葉で語ることに意味があるのだろうか。おそらく、「ある」と答えることが大半だろう。確かに、それは一義的には誤りではない。だが、愛を言葉で語れば語るほど、「愛は愛である」というトートロジーに帰着する。しかし、そうであるから故に逆説的だが言葉で語るしかないのだ。それは、愛や言葉を捨象した時に必然的に衝突する空虚さに他ならない。寧子(趣里)が、アルバイト後の食事の場で「ウォシュレットの怖さ」を語って、誰にも共感されないように、愛を言葉で語ったところで伝わらないのかもしれない。しかし、だからこそ愛を言葉で語るしかないのだ。それが、どれほど空虚だとしても。

 「わたし」が「あなた」を愛する理由は、本質的に説明することはできない。言語哲学の歴史的潮流では、固有性は他者の性質についての記述に還元できるとされてきた。しかし、クリプキたちによる批判によって、それは誤りであることが現在までの通説である。固有性は、対象を指し示しているだけであり、空虚なフェティッシュである。そして、それは他者への愛についても同様ではないだろうか。

 性質は、愛の理由にはならない。選別された性質が愛の理由であれば、それは、ルネ・ジラールが言う「欲望とは他者の欲望」の問題と同義である。つまり、愛にとって重要なのは「この私」の「この」(this-ness)、つまり「単独性」(singularity)なのである。

 

 物語終盤、寧子(趣里)は、津奈木(菅田将暉)に「こんな私のどこが好きだったか言ってくれる?」と問いかける。この場面の一連の流れで寧子は、服を脱ぎ捨て全裸状態であるが、津奈木(菅田将暉)が「全裸じゃなきゃだめ?」と問い、寧子(趣里)が「全裸じゃなきゃだめ」と答えることからも「単独性」を象徴的に表現していると言えるだろう。津奈木(菅田将暉)は、数秒間言葉を詰まらせ、答える。だが、その答えはその場の言葉に過ぎなかったのだろう。同一性がすでに差異性であるのであれば、差異は相対化されることはない。私が他者=差異性であるため、他者は私にとっての絶対的な差異として立ち現れる。愛という絶対的不可能性の体験。だが、この不可能性こそが愛を成立させているのである。この場面が描き出していることは、愛とは事後的に生成する物語であるということだ。相手が何者であれ、理由がどうであれ、「この」相手から離れることができないこと。これこそ「愛」なのだ。

 最後、二人が言葉なしで抱き合いながら「ほんの一瞬分かり合えて生きている」場面は、生きる「だけ」で疲弊してしまう社会における、決して形式化することのできない絶対的な外部としての美しすぎるほど瞬間的な「愛」の現前である。それは、波打ち際の砂の表情のように、明日になれば儚く消失してしまう脆さだろう。しかし、この永続することはない時間に、「。」をつけることで、この「愛」は、消失されることなく、表象され続けるのだ。

 

『ファイト・クラブ』と『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー)

 映画が、作品のどこかでリアリズムを帯びるのであれば、それとも「世界は概念で出来上がっているから、作品は否応なくリアリティを有してしまう」(小泉義之)のであれば、デヴィッド・フィンチャー監督による『ファイト・クラブ』(1999年)と『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)ほど、その時代を決定的に象徴する鏡像的作品は存在しないと言える。『ファイト・クラブ』が公開した1999年が、オカルティズム的な年であれば、『ソーシャル・ネットワーク』が公開した2010年は、タイトルの通り「SNS」(Social Network Survice)の時代である。

 

 『ファイト・クラブ』と『ソーシャル・ネットワーク』は、確かにその時代の一つの鏡像的作品であった。しかし、二つの作品は単独に完結した作品ではない。『ファイト・クラブ』は、『ソーシャル・ネットワーク』へと飛躍している。いわば「続編」と位置付けることが可能だと宣言することができる。二つの作品には、あるアナロジーを抽出することができる。それは、我々がリアリズムで冒されている一つの「病」である。

 

 『ファイト・クラブ』は、終始として「死」を意識させる。冒頭から、死が身近に迫った人々のセラピーのシーンから始まり、「ファイト・クラブ」での殴り合い、手の甲に焼印etc. といくつものシーンを抜粋することができる。我々は、「死」を忘却し生きる。しかし、我々は「死」を完全に忘却しているわけではない。「死」は、「この」身体に、実存的存在の必然として認識している。我々は、「死」の不安から他者との空疎で頽落的な「空談」(ハイデガー)で不可視にしているに過ぎない。それは、『ファイト・クラブ』で描かれる資本主義システムの必然としての高度消費文明の「物」に支配されることで幸福を享受する哀れな「動物」のように、何の疑問も抱かない「畜群」(ニーチェ)である。

 「死」という深淵が、広がる時、「死」という自己にとっての固有性が自意識によって認識されたとき「本来的共存在」へと覚醒する。それは、物語終盤にかけて「ファイト・クラブ」という共同体が、真理を体現する「党」へ献身するかのような様相を帯びることからも明らかである。固有的な単独性を抹消(実際に、主人公には固有名はなく「私」と表現されている)し、「党」としての連帯を求めるのである。資本主義システムにおける有限性と無限性の闘いに、必然的に敗北するしかない、「疎外」されるしかない運命である「孤独な現存在」として忘却する先験的な「共存在」の最終手段としての「党」という形態なのである。

 

 一方、『ソーシャル・ネットワーク』は、『ファイト・クラブ』とは作風は異なり、2010年=テン年代を象徴するリアリズム的な作品である。冒頭、マーク・ザックバーグが、恋人のエリカに一方的なコミュニケーションを仕掛ける場面は、現在のSNSの風景を象徴的に表現している。複数の世界性が浮遊する言語空間において還元不可能な意味の複数性に衝突する。そのような「郵便-誤配」(=郵便的超越論性)は、SNSにはいまや存在しない。それは、「島宇宙化」した空間であり、予測可能性な鏡像的他者である。いわば、複数的な「幽霊」は回帰することはない。しかし、本質的にSNSは、「郵便的超越論性」の表象空間である。そのような意味で『ソーシャル・ネットワーク』は、『ファイト・クラブ』とは対極的である。『ファイト・クラブ』では、「死」を自覚することでハイデガー的であり、単独性としての運命であった。しかし、『ソーシャル・ネットワーク』では、「デッド・ストック」として「手紙は宛先に届かないこともありうる」(デリダ)。つまり、象徴空間に構造化されない行方不明の可能性(=幽霊)が内在しているのである。

 

 では、二つの作品を比較することで浮かび上がってくる「病」とは、一体何なのか。それは、「連帯」の不可能性という事態である。『ファイト・クラブ』の公開した1999年は、日本ではオウム真理教といったカルト集団による事件から数年経った年である。「ファイト・クラブ」の連帯形態とは、超越論的連帯である。「世界の脱呪術化」による世界で、カルト的な「宗教」に没入することで連帯を求めたのだ。無論、それは、「第三者の審級」が失墜した、虚妄としての「アイロニカルな没入」に過ぎない。1989/1991年の崩壊からの必然的帰結とも言えるだろう。

 一方、SNSは、連帯の革命を起こすことに成功したのだろうか。『ソーシャル・ネットワーク』の物語を鑑賞すれば、それが革命の挫折であることが認識できる。『ソーシャル・ネットワーク』で描かれるSNSが理想とした連帯とは異なり、作品内でのリアルな連帯が破綻している。マーク・ザッグバーグが複数の訟訴を抱え込んでいることからも明らかだろう。SNSによる連帯が、リアルな社会では破綻せざるを得ないことを象徴的に描いている。また、『ソーシャル・ネットワーク』は、ノンフィクションのように描かれているが、フィクション性が多く介入している(無論、ノンフィクションであろうと映画には必然的にフィクション性は介入する)。ノンフィクションであると錯覚するのは、SNSの連帯が、まるでリアルな連帯と錯覚するかのようなことを象徴的に描いているかのようである。SNSは、「誤配」ではなく、排外主義的にならざるを得ない。それは、政治や社会運動がSNSと不可分になった現在の世界情勢の兆候を俯瞰してみれば言うまでもない。

 

 「連帯」の不可能性という観点から二つの作品に介入することで、二つは断絶した一つの独立した作品ではないことを確認してきた。それは、「連帯」の不可能性という観点から連続した一つの作品であり、「続編」なのだと。または、1989/1991年から現在までの連続性と捉えることも可能である。

 しかし、大きな問題が一つ残されている。それは、二つの作品のラストシーンである。『ファイト・クラブ』では、「私」はマーラーと共に崩れゆく資本主義の象徴である金融街のビル群を眺めながら、「全てが良くなる」と発言し幕を閉じる。一方、『ソーシャル・ネットワーク』は、裁判中のマーク・ザックバーグが、元恋人のエリカにFacebookで友達申請を送り、幕は閉じる。

 一体何が問題なのか。それは、「わたし」と「あなた」というセカイ系のようなロマン主義的な帰結にならざるを得ないことである。『ファイト・クラブ』のラストの「全てが良くなる」とは、何を根拠に言っているのだろうか。たかが金融街のビル群を爆破しただけである。何年も経てば、新たな金融街のビル群は創設され、資本主義システムはますます発展していることだろう。一方、『ソーシャル・ネットワーク』のラストも同様の問題意識だろう。つまり、他者という「異質なもの」を排除すればいい、「わたし」と「あなた」が連帯することができたらいい、と。「この」世界で、自己にとっての最大限の合理主義的な生き方を模索しようと。 

 1989/1991年以降の「想像力=創造力」の限界が、二つの映画には凝縮されている。グローバル資本主義の「外部」へと飛躍することができる「想像力=創造力」の喪失。我々が、それを獲得するには、過去の歴史的遺産を脱構築するしか術はないことだろう。