水平線

研究と批評.

『寝ても覚めても』(濱口竜介)

 甘美でどこか頽廃的な美しい夢。人は誰しも忘れることのできない恋愛を経験している。罪の意識から新たな恋愛ができない人、過去の恋愛を忘れ去るために順次と恋愛に励む人。そこには無数の物語が存在する。だが、それらの経験は過去の記憶における中心的事象の表象化=再現前化である。全ては、それへの演劇化に過ぎない。かつての忘却することのできない耽溺な「夢」の上演=再現性である。

 

 朝子(唐田えりか)が、大阪・国立国際美術館で開催されていた「牛腸茂雄 Self and Others」展を鑑賞するところから物語は始まる。その帰途、同じ空間で鑑賞していた麦(東出昌大)と言葉を交わすことなく不条理に付き合うこととなる。決して映画は、現実の鏡像ではない。映画に内在する現実性が現実の現実性を発現しているとも限らない。だが、現実と虚構世界の断片が交差する瞬間を共有することがなければ、それは稚拙で退屈な印象を拭えないことは確かだろう。

 恋愛における自ー他(Self and Others)の関係性は恣意的な主観性の産物に過ぎない。対象の愛する理由を言葉で説明すればするほど、それはどこか嘘っぽさを纏うと同時にトートロジーに帰結するしかない。脆く、儚くーー作中の「爆竹」のようにーー綻びる運命でしかないだろう。それは、複数の他者との対比の中から選別された性質が愛する原拠とするからである。だからこそ、朝子と麦の交際の生起は言葉を介在することはなかった。それは、一見すると不条理演劇のようであるかもしれない。だが、むしろ自ー他における魅惑のリアルさとはこちらではないか。疎外されることのない「唯一者」であり、有限の経験的な他者から無限の超越的な他者の変貌としての証左である。

 恋愛とは、カフカの『城』のように対象の周縁を遠心的に作用するしかない。前作『ハッピーアワー』が、「重心」(=「中心」)を探求しながらも必然的に均衡と転倒を反復ーーフェリー乗り場で純が桜子の息子と「重心」を合わせようとする場面はなんと美しいことかーーするしかなかったように、全ての「重心」が揃うことはない。しかし、である。だからこそ逆説的に対象を言葉で語るしかないのではないか。それは、決して終結することのない営為だろう。だが、それこそが対象に求心的に作用する唯一の方途ではないか。序盤の朝子は、麦に対して「かっこいい」、「かわいい」と最小限の言葉で表現をするが、それはこのような文脈で理解すべきである。

 その後、麦は忽然と姿を消す。二年と、少し後経過して舞台は東京に移る。東京のカフェで働いている朝子は、ある日偶然にも麦と相似している丸子亮平(東出昌大)と出会う。困惑しながらも朝子と亮平は、宿命であるかのように惹かれ合い、離別したりを繰り返す。朝子は、亮平の形象に麦を投影し、彼の幻影を消去することができない。そのためか当初の朝子は、ほとんどギャラリーに展示されている写真、カフェの窓に反射する鏡像である亮平の形相しか認識することができていない。

 ここでも、やはり言葉よりは「身体」の接触に重点を置いているように描出されている。ギャラリーの入場口前で脈絡もなく突然朝子が、亮平の頬に触れるシーンや、亮平が勤務する非常階段で互いに頬を触れながら見つめ合うーーここでも非対称な鏡像として機能しているーーシーンは、言葉では確かな実存を確かめることができないからこそ、等価関係として「身体」に触れ合うのである。

 

 ところで、本作は原作とは決定的な差異がある。それは、2011年の東日本大震災の描写を反映していることである。ある日、朝子の友人であるマヤ(山下リオ)から招待されたイプセン原作『野鴨』の舞台を鑑賞しようと亮平(東出昌大)は訪れるが、開演前に地震が襲い中止となる。作中で明確な時間表記を確認することはできないが、昼公演であり定時の開演前であることから東日本大震災が発生した14時46分との信憑性は高いと推測することは可能だろう。また濱口竜介は、2011年から2013年にかけて「東北記録映画三部作」を制作していることから3.11以後の作家の一人としてカテゴライズされていることからも瞭然である。

 しかし、そのような3.11以前/以後という言葉で分節することは記号として機能し、至便性に長けてはいる。一方で、現象の時間的・空間的・社会的な深遠さを捨象してしまう危険性を内在していることもまた事実である。それは、事象の特権化を促し、作家の連関性を喪失してしまう。前作『ハッピーアワー』のラストシーンは、あかり(田中幸恵)が勤務していた病院の屋上から神戸の街と海の壮観がどこまでも広がっていたが、「神戸」という舞台設定は偶然的なのだろうか。濱口は、不可視であれ意図的に1995年の阪神淡路大震災を描写していたのではないか。であれば、本作との連続性も発露してくる。『ハッピーアワー』のラストが海の彼方、作品の「外部」を志向するかのような印象を与えるかもしれないが、そうではない。濱口は、徹底的に「象徴界」の内部で論理的に思考する作家である。そうでなければ日本映画史上類を見ない5時間17分の『ハッピーアワー』というーー「言語」を徹底的に思考したーー傑作を生み出すことは不可能だっただろう。「言語」(=「コミュニケーション」)を徹底的に思考したからこそ、必然的に5時間17分という長尺の作品になったのだ。3.11以降、急速に「象徴界」の外部としての「現実界」に触れようと、超越的あるいは超越論的な諸原理やイデオロギーに回帰しようとする了見が見受けられる。だが、後述する本作のラストからも瞭然とすることであるが、濱口の作品内におけるある種の「告白」を看取できるまでは時間はかからないことだろう。

 

 作中における震災以後、亮平と朝子はレンタカーで東北の被災地とボランティア活動として関係性をもつことになる。そしてそれ以後、朝子にモデル兼俳優として活躍している麦の形象が幾度も回帰してくる。亮平の大阪への転勤が決定し、引っ越し前日の友人たちとの食事の場で麦は忽然と朝子の前に現前する。そして、そのまま麦と朝子は友人たちの前から去っていく。

 麦の祖父が所有する別荘へ向かう帰途、仙台の手前で車中泊をする。麦は「海がみたかった」と発言し、続けて「この向こう本当に海なの?」と堤防の向こうを目指す。だが、朝子は共に駆け出すことはない。朝子は、「これ以上、先に行かれへん」と発言し、「亮平の元へ戻らないと」と麦に告げる。この場面において「寝ても覚めても」というタイトルの意味が鮮明に回収されることとなる。それは、朝子が亮平への「愛」に再び目「覚め」たというあまりに素朴で質素な解釈ではない。そうではなく、ここで朝子はようやく「麦」=「故郷」が存在しないことーー東京から出発する前に麦は「俺の代わりはいくらでもいるから」とスマホを壊しているのは示唆的だろうーーを認知することができたのである。東日本大震災による津波福島第一原子力発電所の事故は、東北の土地を喪失する、いわば「故郷喪失」の感情に根ざしている。だが近代以降において、故郷とは「ロマン的イロニー」であり「先験的な故郷喪失」の形式にならざるをえないのだ。麦と別れ朝子は「寝ても」/「覚めても」の境界を越境するかのように一人で堤防を登り、その先の海をじっと見つめる。数秒間、映し出された朝子は、どこか不安と希望が混在した表情をしている。だが、その表情に真直な「決意」を読み取ることができるだろう。

 

 麦と別れ、朝子は大阪にいる亮平のもとへと向かう。だが亮平は、朝子を追い返し、家に閉じこもる。必死に叫ぶ朝子に、亮平は捨てたと嘘をついていた飼い猫のジンタンを無言で差し出し、扉を閉める。だが家の鍵は閉められてなく、朝子は二階にいる亮平のもとへ向かう。亮平は、無言で受け入れ「俺は、きっと一生お前のこと信じへんで」と告げる。「絶対」ではなく「きっと」信じないとすること。たった三文字の「きっと」にどれだけの意味が込められているのだろうか。決して『マノン・レスコー』のような物語ではなく、と同時にそれは二人だけの物語ではないことだろう。

 ラスト、二人は目の前を流れ行く天野川の先をじっと見つめる。河川には同一性がない。生成変化を繰り返し、同一の形象を形成しないからこそ美しい。ラストの二人の並びは、冒頭の「牛腸茂雄 Self and Others」におけるポートレートの反復である。水かさが増した河川の不穏な雰囲気のように二人の表情に笑顔はない。二人の視線は、ポートレートのように交差することもない。二人は、一体どこを見つめているのだろうか。視線の先の河川の行き着く先は、一つの調和した広大な海だろう。未来において二人の視線が交差することはないのかもしれない。愛とは「太陽と番った海」(Arthur Rimbaud)である。だが、二人が残してきた愛の「証拠」は、たしかにそこに「ある」のだ。

 

 

ツイッター・デモ、あるいは催涙ガス

 どうやらツイッター・デモに人民は、賭けたようだ。事の経過は、国会で審議が開始した検察庁法改正案への抗議であるらしい。「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグが、現時点でTwitterという表象空間に470万件以上(5.11時点)ツイートされている。炎上を覚悟の上で、多くの文化人や芸能人も声をあげているためメディアにも注目されている様子だ。

 SNSを号令にデモが勃発するのは、2011年以降の問題であろう。世界的には、アラブの春からウォール街を占拠せよ運動まで抵抗の火花は飛び散っていた。また、国内では3.11以降の反原発運動、そして2015年の反安保法制におけるSEALDsがイデオローグである。

 だが、2011年以降の一連の政治的闘争は無力であった。何も変わらなかった。残されたのは、その反動としての右派ポピュリズムの強権性だけである。絓秀実も指摘するように持続不可能性であったのは、「場所」を欠いた運動であったからであろう。カール・シュミットも語るように「ノモス」をつかさどるのは「土地」だからである。「土地」に依拠しないパルチザンは存在不可能なのだ。

 

 2011年以降の政治的闘争を肯定的に評価するつもりはない。だが、良くも悪くも広場で集会を慣行し、そこをオキュパイーー金曜官邸前行動のようにーーしたことは少なからずデモであった。であれば、今回のコロナ禍におけるツイッター・デモとは、何をもって「デモ」としているのだろうか。もちろん、災害の渦中で権力を濫用するのはお決まりであり個人的にも「反対」である。そして、Twitterに表象され可視化されることで初めて認知することもできた。だが、石破茂の発言でもあるようにデモとは「テロ」のはずである。たとえ、仮構空間に何百・何千万と抗議の言葉が表象されたとしても何が恐怖なのか。それは、社会を反映していると言えるのだろうか。手書きのプラカードではなく、均質の活字体の言葉で一体なんの意味があるのか。全くもって緊張感がないのである。芸能人の政治的発言が炎上するかどうか以前に政治的に腐朽しているのである。彼/女たちにとって、それは瞬間的で非ー歴史的なーーどれだけ本気で批判したとしてもーー祝祭でしかないのである。だから、何度も同じ過ちを繰り返すのである。無論、人民に迎合するリベラル派の病理もここにあると言えるだろう。

 

 ところで、かつてSNSの「弱いつながり」に可能性を語っていた東浩紀は、株式会社ゲンロンカフェを創設して今年で10周年を迎えるそうだ。ゲンロン以後かつての思想から反省的に、あるいは脱構築的に思想を再編成してきた。近年、SNSに批判的な姿勢を表明しながら人民と離別しつつ誤配されるゲンロンカフェというーーネット空間とは異なる自律空間ーー組織を作り上げてきた。「外山恒一×東浩紀ーーコロナ時代に政治的自由は可能なのか?」を鑑賞したが、ツイッター・デモに賭けるぐらいであれば、リアルな空間に組織を構築してきたーー批判的であろうとーー東に賭けるべきだろう。だが、一方で近年「観光客の哲学」で展開してきた思想は、今後のコロナ情勢でどのように総括するのだろうか。そのようなジレンマへの解答にどう答えるのかに期待したい。

大義を求めよーーパンデミック、資本、階級

 「ウイルスの独白」(https://hapaxxxx.blogspot.com/2020/03/blog-post_30.html?spref=tw&m=1)によると、ウイルスとは「生の連続体」であり「知性」を内在した「救世主」である。続けてこう語る。「わたしのおかげで、みなさまは経済をとるか生きるかという分岐点に立つことができました」と。

 ところが、現実はーーウイルスの意図したものとは異なりーー「経済」を選択した。そもそも、大衆にとってこのような二択自体が成立することはない。なぜなら、「生きる」ことこそが「経済」を維持することだからだ。無論、それは資本主義社会なのだからと答えればそれで議論はおしまいだろう。しかし、事態はもっと深刻ではないか。

 今回の騒動において、休業補償や現金の一律給付を待望する声が多い。また、イギリスでは一時的なベーシックインカム(以下、BI)の検討という報道は記憶に新しい。無論、これらの政策は一時的であれ実施すべきではあるかもしれない。だが、一方でこれらはシステムを再生産するに過ぎない。新自由主義が「反」革命的である所以は、自由と創造性を統治にしたことだが、それは同時に「人的資本」として支配することであり、「生きさせる=息させる」システムだからである。どちらにせよ国家に依存的なのだ。この点においてリベラルは、国家(=政府)を批判しながら国家に依存するというジレンマに陥り、袋小路に入っているようにも見える。

 また今回の騒動において再び、反緊縮・リフレ政策やMMT(Modern Money Theory)理論が持て囃されているようだが、これは資本主義が自助では稼働できないことの症例ではないのか。資本主義はインフレから始まり、国債の発行、民間への負債の付け替えで延命してきた。そして、2008年のリーマンショック以降は、中央銀行(「量的緩和政策」)と国家によって延命してきた。シュトレークの言葉で表現するのであれば「時間稼ぎの資本主義」の現れである。

 「自由と平等のできちゃった結婚」の破綻が鮮明になり、宇野弘蔵の「流通滲透視角」における労働価値説のリアリティは崩壊している。新自由主義的資本主義は、「外部」に利益を求め、「人的資本」としてどこまでも統治する。また、負債ーー例えば、奨学金を想起せよーーによる「民営化されたケインズ主義」や、未来の富で確保する金融資本主義で強制的に仮構されている。この点もリベラルが陥っている罠である。彼/女たちが提唱する福祉や教育への「再分配」は収奪だけの金融資本主義の扶助になっているのだ。

 財政再建国家では、民主主義の脱経済化による資本主義の脱民主主義化のプロセスが加速する。民営化により〈共〉が失われていくと、政治的に決定すべきことも減らざるをえない。市場が、集団的意志決定を慣行する基本原理となれば、ハーバーマスなどの「討議的民主主義」ーー個人的には批判的だがーーは機能しなくなるだろう。つまり、1%の有力者が意思決定を慣行するのである。

 

 フーコーは、法的主体と経済的主体の異質性を和解させることは不可能として新たなる領域ーー「社会的なもの」ーーを必要とした。だが、いまやそのような領域は崩壊し、〈借金人間〉によって生産は保証されている。かつての、2011年以降の市民主体的で自律的・水平的な一連の政治的闘争は離合集散した。たとえ、それが小規模でも継続していたとしてもそれは無力である。それらは、政治に「政治」を対置することができないからである。その反動は、現在までの世界各地の政治状況に一直線である。

 政治とは、決断主義的な選択を回避しながら「居心地の悪さ」を引き受けるのだとしたら、今回の新型コロナウイルス(COVID-19)の騒動における政治的情勢は二重の意味を持つ。現時点で、建設的な対抗運動は不可能である。新自由主義的資本主義では、労働組合は機能しないに等しい。ならば、残されているのは破壊的な対抗運動しかない。いつまで経っても、市民社会的ー対抗運動で「倫理」ばかりを語る学者能力のない者よりは有意義である。隷属関係でしかない我々は、非難を浴びた安倍晋三星野源の動画に登場した愛犬のように可愛がられるようなことは永劫とない。国家のStay-homeの要請に従順な人民は、外出自粛期間中きたるべき闘争のために多少なりとも「なにをなすべきか」の言説を構築するべきだろう。でなければ、今後とも従順な「ポチ」のままである。常態化の維持を強制的に世界が進むと仮定するのであれば、数年後には「コロナ以降」として「リーマンショック以降」のような歴史的転換期として語られるだろう。無論、それは経済的マイナスとしての事故として、である。進行中の事象に介入し続け思考と議論をまずは第一に考えるべきだ。

災厄の理想郷ーー「災害ユートピア」と市民社会の臨界

 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染・拡大が止まらない。中国を発現とし、世界的に拡大し続け、様々な影響が出ていることは周知の事実だ。国内においてもマスクの品薄、そして卒業式や入学式、大規模なイベントやライブの自粛を求めるよう政府は声明を出している。そして、それは経済活動に多大な影響を与えていることと同義であり、危機に乗じて新自由主義構造改革等の施工を目論む「惨事便乗型資本主義」である。まさに、竹中平蔵を典型とした「ショック・ドクトリン」だろう。

 かつての歴史的事象である「68年革命」の教示は、フランス等の先進資本主義国でもゼネストを数週間決起すれば、イデオロギーが揺らぎ革命の胎動を予感させたことにある。それは、疎外された主体性の回復を意図したものであった。だが、今回の新型コロナウイルスは、あくまでも偶発的(と言えるかは今回に関しては曖昧であるが)な災害である。確かに、資本主義社会に多大な影響を与えていることを鑑みれば革命と宣言できるかもしれない。だが、議論の余地は残されているだろう。

 

 かつてアナキストを自称する栗原康は、災害は革命だ、と高らかに宣言していた。栗原は、次のように言及している。

 

 

革命というのはなにも民衆が積極的にひきおこしたものばかりではない。ぜんぜんのぞんでいなくても不可避的におこってしまうことだってある。たとえば、いちばんわかりやすい例が、二〇一一年三月一一日の東日本大震災だ (『何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成』KADOKAWA, 2018) 

 

 

栗原は、革命とは新たな権力が立ち上がった瞬間に革命的ではないと言う。なるほど、栗原の論理はアナキストとして誠実である。3.11以降の社会運動の評価ではなく、震災によって政府やインフラが殆ど機能を果たさなかった点で革命なのだと。バクーニンは、「破壊への情熱は、同時に創造への情熱なのだ」と語っていた。確かに東日本大震災は、人為的ではなく偶発的な自然発生的現象ではあるが、市民が創造への情熱を駆られると同時に、クロポトキンが『相互扶助論』で語るように、人間やあらゆる生物には本能的に他者に対する相互扶助の機能が備えられていることの証左だったのである、と。そして、言うまでもなく3.11以降に脚光を浴びたレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』も栗原の論理と同様である。災害によって国家やインフラが機能しなくなった時、人間は暴力ではなく相互扶助的なユートピアを創造するのだ。

 一方で、栗原の何ものにも縛られないユートピア理論に対して、綿野恵太は異を唱える。綿野は、次のように言及している。

 

 

 栗原の論理はアナキストとして一貫している。では、こう問うことも許されるだろうか。大杉栄伊藤野枝ら多数のアナキストが殺害された関東大震災ははたして革命だったのか、と。1920年代初頭、労働運動の方針をめぐって「アナ・ボル論争」と呼ばれるマルクス主義アナキズムの思想的対立があった。(中略)通説によれば、理論的支柱だった大杉栄関東大震災の混乱のさなかに虐殺されたことでアナキズム陣営は力を失い、その結果日本ではマルクス主義の影響が強まったとされる。しかし、関東大震災アナキズムの思想的な敗北だったとしたらどうだろうか。(「震災は革命かーー栗原康のアナキズム関東大震災週刊読書人 論潮, 20180910掲載)

 

 

綿野は、関東大震災における虐殺を事例に、相互扶助による「自発性の暴走」を危惧している。それは、相互扶助の外部に存在するマイノリティの排除につながるのである。それは、3.11以降のファシズム的様相を帯びた「頑張ろう、日本」という不穏な空気感にも通底しているだろう。そもそも、なぜ東北地方を震源とした事象であるのに「日本」としたのか。中心を据えることによるロジックが震災復興を標榜した東京オリンピック開催まで一直線であることは明瞭である。他者との共生を美とする相互扶助概念には、安易に排除や差別に転回するロジックが内在している。それは、無意識の「災害ファシズム 」なのである。そこが、アナキズムの限界点だろう。アナキズムは、左/右のイデオロギーに御都合主義的に利用されてしまうのである。

 

 また、市民社会における「自由」と「平等」という擬制にも注視しなければならない。市民社会論には、資本主義における「下部構造」を凝視することができていない。おそらく市民の多くは「自由」と「平等」を欺瞞だと感じるのではないか。その最たる例は、PC(Political Correctness)だろう。絓秀実が、「PCとは資本主義を受け入れた上での心情的な疾しさ」と語るように、疚しい良心に耐えれぬ者は、排外主義に向かうしかない。2011年以降の市民運動の帰結が、レイシズムを掲げたトランプ政権を誕生させたことはその所作である。もはや、「自発性の暴走」を称賛できる時代ではないのだ。

 

 そして、言うまでもないが市民社会には「格差」問題が内在している。災害時に政府や企業等は、「速やかに安全な場所を確保してください」、「大規模なイベントは自粛してください」云々などの言説を垂れ流すわけであるが、そうした企業的主体の発言は、個々の「自己責任論」である。我々の「自己責任」は、政府・国家にとっての「無責任」というわけだ。

 こうした言説には経済的、または身体的に格差が残存すれば不可能性が内在している。それは、2011以降の社会運動のメルクマールの一人であったデヴィッド・グレーバーの「個人主義共産主義」にも指摘できることである。つまり、資本主義に構造化されている市民社会の格差をいかに解体し再構築することができるかであろう。3.11以降の市民主体的な「新しい社会運動」では、新自由主義イデオロギーに対抗することはできない。それは、政治に「政治」を対置するのではなく、「倫理」を対置するに過ぎないからだ。

 

 新型コロナウイルス(COVID-19)の流行が終息する気配は、今のところない。今後、エリートパニックを起こした政府の諸対応に、市民はいかなる反応をするのだろうか。ウイルスという見えない敵は、グローバルに越境していく。人類は、そうした敵を可視化されている「対象」へと反転するだろう。他者への人種主義的差別、ナショナリズムなどが過熱することは想像に容易い。表象されないウイルスがグローバルに拡大し、ナショナリズムが「グローバル」に進行するのだ。

 さて、今回の新型コロナウイルスの拡大は我々に何を教示してくれるのだろうか。おそらく、今回の事例も資本主義に回収されてしまうのだろう。災害は革命だ、と高らかに宣言したところで事象を主体的に組織化できる「党」も存在しない。レーニンが語る「外部注入論」が機能しえない。2011以降の政治的闘争における水平的・自律的な特異的な市民によるマルチチュードのように雲散霧消してしまうだろう。

 労働価値説は失効し、サッチャーの「社会は存在しない」という発言のように市場には存在しているが社会には存在していない。そのような社会で、いかに組織化は可能なのか。「自由」と「平等」の理念を元に、マルチチュードと叫ぶのは容易い。未曾有の災害で相互扶助の共同性が現出したとしても方法論がない。また、我々が直面している現実は、相互扶助的なユートピアではない。むしろ、我々が存在する市民社会には「暴力」へと回帰する可能性が内在していることに危惧しなければならない。我々に必要なのは、その「暴力」に立ち向かう組織的理論なのである。

驟雨

 溜め息色した通学路

 悲哀を優しさに変えたつもりでね

 消えていった夢を不意に数えながら

 僕は、残された夢の整理をしていた

 

 駅の地下通路からは浮浪者の眼差し

 瞬間ごとの永遠の闘争からも逃走してしまうのか

 白痴ーー、眩暈ーー。

 幾人もの幽霊たちが無数の毛穴に侵入し、意識を犯し蝕む

 強烈な吐き気を催し、僕は分解される

 毒をーー、蜜をーー、香をーー、打ち消そうーー

 いつか、連帯の挨拶を交わしましょう

 僕も闘い続けますから

 

 この世界には傷痕しかないようだ

 出来事の痕跡には言葉はない

 だけど、分有されることのない傷痕は言葉を求め続ける

 飢えと渇きの求めに応答できるだろうか

 貧しさと嘆息すら漏れてこない、眠気のまま漂流するだけの疲れ切った僕たちに

 

 不眠症の東京

 汚物に塗れた〈肉片〉の海

 肉と精液できている世界で「愛」と囁いてごらん

 36.0℃の屍骸の群れでは真実は生まれないから

 

 驟雨ーー

 

 薄靄がかかった時間が流れ、空気が淀めば淀むほど

 僕の体内を流れる血が濃くなることがわかった

 天使の快楽は、僕たちの痛苦でしかないんだってさ

 

 真昼の東京で、僕は天使の到着を待っていた

 27歳になる頃にはきっと迎えに来ることだろう

 そのときには、冷たい唇で冷血な接吻を交わしてやろう

 そして、僕は言葉の世界で死んでやるのさ

 

 

 

 

小文字aのアナーキズム、あるいは大文字Aの他者

 1999年のバトル・イン・シアトル以降、世界的に浮上してきたのはアナーキズム的潮流であったという言説がアカデミックにおける一般的通説として流布している。だが、そもそもシアトル以前/以後で切断するのは早急ではないだろうか。

 絓秀実が言うように68年革命の底流であった70年7.7「華青闘告発」は、新左翼運動の「反帝・反スタ」が無自覚なナショナリズムに基づいていることを告発した。以後、左翼は、ジェンダーやマイノリティ等の反差別闘争に「空虚なフェティッシュ」としてアイデンティティを維持する「文化的左翼」にアンガージュするしかない。そして、1989/1991年以降の冷戦崩壊以降のグローバル資本主義の支配は、「歴史の必然」の崩壊を露呈した。1989/1991以降を存在する私たちには、虚妄としてのマルクスレーニン主義(無論、全否定するつもりはない)はあるかもしれないが、本質的に諸運動にアンガージュする方法論は、ノンセクト的であり、「アナーキズム」しかない。そもそも、新自由主義それ自体がアナーキズム的である。

 また、政治的無関心層は、あまりにも御粗末で無教養な韓中等批判をするネトウヨ的存在にならざるを得ない。だが、皮肉にもこれはある種必然的帰結とも言えるだろう。アーレントが『全体主義の起源』で言及するように、大衆社会の個人の特徴は、「他人との繋がりの喪失と根無し草的性格」である。現在も感染拡大中の新型コロナウイルス肺炎による影響が、中国/人へのバッシングのレトリックに利用さていることからも確認できるように、想像の共同体としてのナショナル・アイデンティティを維持することは最後の砦なのだ。

 なるほど、確かにナショナル・アイデンティティは一種の有限性にはなるだろう。だが、日本という国家に存在することの必然性などあるのだろうか。「なぜ、日本に存在しているのか」に対しての解は存在しない。それは、偶発的必然性である。そして、こうした恣意的な必然性は別の観点からみれば、レイシズムや差別主義のイデオロギーに容易に利用されてしまう危険性を孕んでいる。それは、今日の世界情勢を俯瞰すれば明白だろう。極端な両極への分断への処方箋とは何か。抽象的な解決策しか提示できないが、このような事象を現出している市民社会の解体状況の復権のための中間団体や共同体を再建するしかないだろう。

 

 話を元に戻そう。だが、現在の政治は極端な分断が進行していることは明白だろう。そして、政治的関心層において、政治運動に参与する層というのは本質的にアナーキズムしかない。9.11以降であれ、2011年以降の世界的革命運動の胎動であれ、そこに渦巻く熱気は、脱中心的・領土的で非暴力的なラディカル・デモクラシーであった。

 国内でも事態の進行は同様である。ゼロ年代では松本哉素人の乱、そして3.11以降の金曜官邸前行動、首都圏反原発連合、しばき隊、SEALDsなどの社会運動は、ノンセクト的な運動であった。

 このような世界的なアナーキズム的潮流に理論的支柱になった中心的な人物の一人に人類学者であるデヴィッド・グレーバーを挙げることは間違いではないだろう。グレーバーは、『アナーキスト人類学のための断章』で、ポストモダニストの「高踏理論」に対して、「低理論」を提示する。グレーバーは、次のように言及する。

 

 

アナーキスト理論化とは、他者の基本姿勢の過ちを証明する必要性にもとづくのではなく、それらがお互いに強化しあうような企画を見出そうとする運動なのである。諸理論がある側面で訳通不能(incommensurable)であるということは、だが、それらが存在しえない、あるいは強化しあえない、ということを意味していない。(中略)だからアナーキズムが必要としているのは、高踏理論でなく、むしろ「低理論」とでも呼びたいものなのである。それは変革のための企画(transformative project)から出現する現実的で、直接的な諸問題と取り込むための方法論である。

 

 

グレーバーは、人類学の様々な事象を参考にし、グローバル資本主義とは異なるオルタナティヴ的組織形態を模索し、新たな非疎外的な生活の組織化の方法を創造しようとする。グレーバーが提示する「小文字aのアナーキズム」とは、アナーキズムマルクス主義という「二者択一の罠」から逃走=闘争線を引きながら、ラディカル・デモクラシーという戦略で、国民国家の主体性を超克した存在を模索する。だからこそ、2011年以降の諸運動でも理論的方法論になっていた、ネグリ=ハートが提示する「マルチチュード」の概念にも否定的である。それは、レーニン主義的な「存在者」という呪縛に囚われている、「前衛主義のたそがれ」に過ぎないのだ、と。

 以上のような主張をするグレーバーが、資本主義に対抗するために持ち出す重要な参考項として文化人類学者のマルセル・モースが提示する「全体的給付(total prestation)」あるいは「全体的互酬性(total reciprocity)」の概念に注視する。グレーバーによれば、資本主義は、いまや「共産主義」に対して寄生的な存在になってきていると言及する。

 

 

もしあなたと私が、お互いに必要な時に助け合うだろうという想定にもとづいて、いちいちどれだけ私があなたに贈与し、あなたは私にどれだけ贈与したか計量しない関係を持つならば、それは共産主義的関係である。(中略)そこから私が言いたいのは次のことです。もしわれわれがモースにちなんで、共産主義を全体的機構として見ないならば、共産主義はどこにでもある。

 

 

グレーバーは、友人関係、恋人、家族などの間に共産主義は存在すると言う。それは、他者への「信頼」であり、ルソー的な「憐れみ」から生じる「相互扶助」とも表現できるだろう。

 

 しかし、グレーバーの「個人主義共産主義」には、現代社会における限界を指摘することができる。確かに、グレーバーが提示する現前する共産主義は存在するかもしれない。だが、格差社会として富者と貧者が絶対的差異として分断されている現実の前では、共産主義を実現しようとしても「できない」という可能性が内在しているのではないだろうか。沖公祐も指摘するように、企業と支配層は、マルクス的「資本主義的生産様式」ではなく、諸国民の未来の富を収奪して利潤をあげている。金融資本主義経済社会に内在する限り、グレーバーの提示する共産主義は、どこかで挫折する運命にある。どうして同じ国民国家の領域で分断が生じるのだろうか。

 それは、資本主義というイデオロギーに内在する限り、早急な「万引きアナーキズム」(絓秀実)に帰結する可能性も否めない。それは、「同志関係と連帯性」との接続を切断し、革命的介入あるいは、社会運動への頓挫にもつながる。

 グレーバーの思考を実現するのであれば、やはり資本主義、国民国家の廃絶をしなければ不可能である。マルクスは、『ゴーダ綱領批判』の中で、次のように言及している。

 

 

資本主義社会と共産主義社会との間には、前者から後者への革命的転化の時期がよこたわっている。それに照応するのはまた政治的過渡期であって、その国家はプロレタリアートの革命的独裁にほかならない

 

 

一時的なプロレタリア独裁体制から社会主義体制への移行は、プロレタリア独裁=国家の廃絶として出現する。だが、歴史的記憶が示すよう国家廃絶におけるプロレタリア独裁による人民の統一は、最終的にプロレタリアートに対する独裁に結合する。そのため、「外部注入論」を否定した人民自身の下からの共同性による連合の方が、「アナーキスト人類学」をメルクマールとするグレーバーの「個人主義共産主義」を実現することができるだろう。それは、アナーキズムであり相互扶助から成立する他者との物語から現出する未知なる外部である。

『パラサイトーー半地下の家族』(ポン・ジュノ)

 ポン・ジュノは、社会が不可視にしようとする「暗部」を象徴的に描くことを度々する映画監督だ。『殺人の追憶』の用水路やヒョンギュが暗いトンネルの奥へと消えるシーンや『グエムルー漢江の怪物』の下水道などが挙げることができる。そして、『パラサイト 半地下の家族』でも、それは変わらず象徴的に描かれている。

 半「地下」(=「下部構造」)から地上の陽光を浴びることは容易ではない。本来「半地下」とは、北朝鮮の攻撃から身を守るための防空壕であった。しかし、いつしか貧困層が、格安の家賃で住むことができる住居として賃貸されるようになる。トイレ以下の生活。カビ臭い「匂い」がどこまでも染みつく。臭い物に蓋をしたい社会は、彼/女たちを隔離したい。皮肉な形で防空壕としての機能を発揮している。しかし、一体「異臭」を放っているのはどっちなのだろう。

 

 ポン・ジュノの過去作である『スノーピアサー』は、近未来の生き残った人類が永久機関によって動き続ける列車「スノーピアサー」で全てを支配する富裕層に貧困層が叛乱を決起し、革命を企てる階級闘争を仕掛ける作品であった。一方で、『パラサイト 半地下の家族』は、新自由主義的である格差社会を描き続ける作品である。世界的に現代社会が抱える病をエンターテインメントでもありながらリアリズムに描く。

 韓国では、1997年の国家破綻の危機に際してIMFからの資金支援を受け、2008年には世界同時不況が発端となり通貨危機を経験している。韓国経済の抜本的構造改革は、財閥の権力を強固とする。大規模なリストラ、非正規雇用の拡大。豊かな者は富み、貧しい者は痩せ細る。

 もちろんこうした格差社会は、韓国に限った話ではなく世界的事象である。OWSのスローガンに倣えば「私たちは99%」なのだ、と。それは、2011年以降の世界的な革命を予兆させ、挫折した諸運動からも明らかだろう。なぜ、2011年以降の社会運動が挫折し、敗北したのか。それは、新自由主義には明確な「敵」が存在しないからではないか。グローバル資本主義は、確かに一つの「敵」なのだろう。しかし、善/悪の基準が喪失しているがために、それはクラインの壺のように回帰するしかない。フーコーは、かつて「権力があるところには、必ず抵抗は生まれる」と表現した。2011年以降の社会運動が、最終的に離合集散したのは、「外部」が存在しないからである。カール・シュミットを援用するまでもなく、確かな「敵」を創造するとき諸運動が初めて成就することだろう。

 だが、やはり資本主義は一つの「敵」であり、格差社会という事象がある。沖公祐は、『「富」なき時代の資本主義』で次のように言及している。

 

 

現代の先進国は、資本・賃貸労働関係を通じてものを生産・分配・消費するということを中心とした社会ではもはやなくなっている。その意味で、われわれの生きている社会は、マルクスが述べた意味での資本主義、「資本主義的生産様式が支配している社会」とは明らかに異なる。

 

 

諸国民の未来の富を収奪し利潤を得る。作中にある「1人の警備員を雇うだけでも500人の応募がある」という発言は、まさにそのことを表現しているだろう。ギテクの息子キム・ギウ(チェ・ウシク)は、大学入試に失敗し続け、ギテクの娘キム・ギジョン(パク・ソダム)は、美大へ進学したいが、予備校に通えず、スキルだけが上達する。親に金がないと大学へにも進学できない。ましてや韓国は、過酷な受験戦争である。そして、無事卒業できたとしても正規雇用として就職できるかも不透明な現実がある。非正規雇用では、永久に富者になれることなど不可能だろう。そして死ぬまで労働するしかない。それを拒否したいのであれば自殺をするしか術はないだろう。実際、平成30年度版の厚生労働省が公開した「自殺対策白書」によると先進国における若者世代の死因の上位には、「自殺」が多くを占めている。韓国は、日本と同様「自殺」が死因の1位である。

 安直な自殺解放論や反出生主義を掲げることは、癒しを与える。だが、「自殺」が解放であるかと問われれば、そうとは言えない。自殺をすることは、世界や人生の不条理を否定することにはならない。むしろ、自殺をすることでこの世界や不条理を肯定している。だからこそ、カミュの言説のように「不条理な生の中で抗い続け」なければならない。

 サルトルは、「死者であるとは、生者たちの餌食となることである」と表現している。死者は、私たちに何も語ることはない。死者について語れるのは生者だけである。しかし、生者(=社会)は死者という固有性を語っているか。科学技術の死の統計化は、無数の単独性を有した他者の死が一つの死として完結する。だからこそ、モーリス・ブランショが、『明かしえぬ共同体』で語る次のような言葉は美しい。

 

 

他人の死を、自分に関わりある唯一の死でもあるかのようにおのれの身に担いとること、それこそが私を自己の外に投げ出すものであり、共同体の不可能性のさなかにあって共同体を開示しつつ、その開口部に向けて私を開くことのできる唯一の別離なのである。

 

 

 「あなた」の死を語り続けることで死者は生存する。失われたはずの共同体の現出は、自殺した死者に「なる(devenir)」ことで確かに開示する。

 若者世代は、社会に漂う「匂い」に自覚的である。階級闘争の行為主体性を喪失した〈左翼の病理〉の気配を嗅ぎ取る。2011年以降の革命的介入が、右派ポピュリズムへの反動でしかなかったように。資本主義とは別の地平の不在による再帰的無能感を超克する。「同志関係と連帯性」の復権こそが新世界の建設の一歩である。

 

 さらに、ここで一つ付言しておこう。それは、パク一家の言語コミュニケーションに韓国語に入り混じり英語が使用されていることである。パク一家の大黒柱パク・ドンイク(イ・ソンギュク)がIT企業の社長なことも象徴的であるように、市場の本格的世界化とグローバル化による英語公用語化やグローバル経済による産業労働者階級の主導的役割の喪失を描いている。

 ネグリ=ハートが言うように「非物質的労働」は、「他者から伝えられた〈共〉的[=共通・共有の]知識に依拠しつつ、また新たな〈共〉的知識を創り出す」。労働そのものの生産的エネルギーからの現出。コミュニケーション至上主義、情動的関係、知識。労働時間と余暇時間の曖昧化。実際、キム・ギウ(チェ・ウシク)は、英語の家庭教師としてパク一家へ働き始める。

 

 物語の中盤にかけて、パク一家の地下には元・家政婦のムングァン(イ・ジョンウン)の夫が住み着いていることが判明する。それは、キム一家が住む「半地下」よりもさらに「地下」へと続く深淵である。

 様々ないざこざがあり、高台に存在するパク一家の豪邸から脱出したキム一家だが、下界に存在する「半地下」の家は、大洪水で浸水する。息子のキム・ギウ(チェ・ウシク)は、友人に貰った「水石」(=「上部構造」)を持ち出す。そして、この「水石」は、地下室の住人を殺害するために利用されてしまうことになる。だが、友人から「水石」を貰ったとき「象徴的だ...」とキム・ギウ(チェ・ウシク)が呟いたように、過剰な経済活動によって忘却された情動を喚起する。殺害という形態に帰結したものの、それは無思考で「石」ころ一つも清掃するような「意思」(=「石」)なき社会における初めての「意志」の表出なのである。

 

 物語の終盤、地上に這い上がったムンヴァン(イ・ジョンウン)の夫は、パク一家が主催するパーティーで悲劇を起こす。パニックになる会場でパク・ドンイク(イ・ソンギュク)が、地下の男の「匂い」に鼻をつまむ。その光景にキム・ギテク(ソン・ガンホ)は、怒り狂いパク・ドンイク(イ・ソンギュク)を殺害する。どこまでも染みつく陰気臭い「匂い」。絶対的な差異である富者と貧者の境目を、容易に越境する「匂い」。だが、富者は「香り」、貧者はどこまでも「匂う」のであり、「匂う」者同士が争い合うしかない。不毛な争い、愚劣な暴力の連鎖にしかならない。

 パク・ドンイク(イ・ソンギュク)を殺害したキム・ギテク(ソン・ガンホ)は、逃亡の果てパク一家の地下に身を隠すことになる。息子のキム・ギウ(チェ・ウシク)は、真夜中にかつてパク一家が住んでいた豪邸が俯瞰できる山から、キム・ギテク(ソン・ガンホ)が発するモーリス信号のメッセージを察する。そして、ラストシーンで息子のキム・ギウ(チェ・ウシク)は誓う、「いつか金持ちになって父親を救おう」と。

 

 ラストからも明らかなように、格差社会が広がる恐れからキム・ギウ(チェ・ウシク)は、富者になることを諦め「ない」。しかし、現代資本主義とその精神は、狂気じみた投資や循環からも自力で脱することはできない。欺瞞的で収奪的で暴力にしかならない腐朽性に満ちた現代資本主義の社会で、富者になることを諦め「ない」のではなく、いかにして「諦める」かではないか。資本主義の再帰的無能感によるコードを共有しているがため「諦める」ことは些か困難極まりない。だが、資本家とは「主人と奴隷の弁証法」で成立する存在に過ぎないのだ。そのとき、パク社長の息子パク・ダソン(チョン・ヒョンジュン)の誕生日に彷徨っていた亡霊(=地下室の男)が現前することもないだろう。だが、その一方で別の亡霊は回帰してくるはずである。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』のかの有名な書き出しのように「ヨーロッパに幽霊が出るーー共産主義という幽霊である」、と。マルクスが、「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」という言葉を残しているが、この言葉は色褪せることはない。階級意識が覚醒したとき、革命は地平線から現出することだろう。そして、共産主義は資本主義のリアルを破壊し、救済するのである。