水平線

研究と批評.

『カリスマ』(黒沢清)

 冒頭の徹夜続きの警察官である藪池(役所広司)の風姿がこの社会の「法則」を物語っているかのようだ。われわれは「労働力の所持者」(マルクス)であれ、労働の形式的従属・包摂は実質的に転化し「賃労働者がその固有性ー属性を失いつつある」(沖公祐)のであり「サーバント」化は免れないことだろう。いわば、資本から「疎外」=「物象化」されることは明瞭の論理であり、この社会は「刑務所」に等しい。

 

 警察官である藪池は、青年が起こした立て篭り事件で犯人と人質の両方を殺害してしまう。そこには青年の「世界の法則を回収せよ」という置き手紙が残されていた。

 心身共に深傷を負った藪池は、上司から休暇を明け渡され、とある森で「カリスマ」と呼ばれている木と出会う。だが、一本の「カリスマ」を巡って対立する闘争に巻き込まれることになる。

 対立の経過で、森全体か「カリスマ」のどちらかしか救えないことが判明する。そこで藪池は「両方救えないのか」と、あまりに純然で素直な発言をする。だが、われわれは何処か疾しさがありながらも「両方救えない」と決断し、「か」という疑心を斥けているのではないか。いわば藪池の発言は、現在も進行中の新型コロナウイルス禍におけるトリアージ問題や功利主義批判への一つの解答だろう。きたる自民党総裁選に出馬した菅義偉の「自助・共助・公助」発言のように、ケインズ・ベヴァレッジ型の国家介入とは異なる介入主義的国家、あるいはフーコーが『生政治の誕生』で聡明に洞察したように、市場を原理とする経済が自由主義の統治技術の延長上に国家介入を強化するとしたように、新自由主義以降に顕著な自由であり「不自由」な、無責任な「決断主義」への批判である。小泉義之は、ジョン・ハリスやレヴィナスの論考を徹底的に批判して次のように言う。

 

結局のところ、多くの生命倫理学者と同じく、ハリスにしても、誰かの生命を救うということを考えるときに、馬鹿げた想定を立ち上げながら、どうあっても犠牲の構造を導入しないと、何かを考えた気持ちになれないのである。これに対して、私は、人間の肉体を共有材と考え人間の必要性に応じて肉体を再分配するという「一般原則」から、犠牲の構造を引き算するべきだと考えている。(小泉義之, 2006, 『病いの哲学』筑摩書房, p. 135)

 

小泉は、ハリスやレヴィナスの論考は部分的で差別的であると斥ける。小泉は、徹底的な平等主義的観点から「人間の肉体は共有物であるとするポジション、人間は共に生き延びるべきであるとするポジション以外にありえない」(同上, 136)としている。いわば、一人を犠牲にできる社会は、全員を犠牲にすることが可能な社会であることへの応答である。

 

 一本の「カリスマ」を巡って様々な思惑によって求心的に作用する様相からも「カリスマ」とは「資本(家)」のメタファーなのだろう。神保美津子(風吹ジュン)が「他の植物がカリスマを拒絶するどころか惹かれ合う様にして(中略)麻薬でも打たれているかのように」と発言しているように、商品世界の「物神性」を体現している。そのため、そこから「疎外」されざるをえない人々は「疎外論」(=人間・自然主義マルクス主義)の立場を表明しているかのようである。疎外論は「本質からの疎外」という問題構成を取る、つまり人間という抽象的な「本質」を前提としている。だが、その「本質」は存在するのだろうか。「先験的な故郷喪失」(ルカーチ)ーー「カリスマ」が存在する森が「東京」の近隣であることは象徴的だーー、あるいは党の表象=代行機能は失墜しているのだから「ロマン的イロニー」でしかないだろう。神保美津子と娘の千鶴(洞口依子)がどれだけエコロジストを標榜し農本主義に回帰しようとも、それは「ない」のである。

 

 また「カリスマ」が一時的に喪失するなどにつれ森の秩序が乱れることから「カリスマ」とは、「天皇(制)」のメタファーであることも表象している。無論、「資本」と「天皇(制)」は相互補完的関係である。中島一夫は「天皇(制)」について次のように言及している。

 

だが、疎外が決して解消されないことは、ほかならぬ「天皇」の存在が示している。「天皇」とは、民衆の疎外が集積された「もの」だからだ。現在は、市民社会という擬制が弱体化し、その破れ目から「疎外(論)」が露わになっているので、それに即応して、にわかに「天皇(制)」が顕在化し主題化されているのである。「天皇」は疎外が解消されない証であり、「天皇制」とは半封建の残存ではなく、資本主義ー市民社会そのものが(半)封建的でしかないことを隠しきれていない「尻尾」である。それは、商品の物神性が、あるいは同じことだが、支配と隷属の関係からくる「疎外」がスライドした「もの」であり、資本主義が進行しても自然に解消されたりはしない。(中島一夫, 2020, 「疎外された天皇ーー三島由紀夫新右翼」『三島由紀夫1970』河出書房新社, p. 118)

 

 天皇とは空虚な「もの」である。物語の後半につれ藪池は二本目の「カリスマ」を発見する。「カリスマ」を孤独に守ってきた桐山直人(池内博之)は、「これ何の意味があるんだ」、「俺にはわからない」と不意に呟く。結局、美津子によると二本目の「カリスマ」は「偽物」であり、「ただの枯れ木」と判断される。だが、「カリスマ」とそれ以外の境界とは一体何か。言うまでもなく、それは戦後民主主義における象徴「天皇(制)」にも当てはまることだろう。

 

 藪池は一貫として「カリスマ」に参与する両陣営のどちらにも属すことはなかった。どこまでも中立性を保持するのは「まれびと」(折口信夫)的存在だからだろう。

 終盤、藪池は「カリスマ」を爆弾と銃で破壊する。藪池は、美津子に「これからが始まりです」と発言する。ここで「天皇」=「王殺し」が完了したことを示している。

 ラスト、藪池は森にある山の山頂から遠方に見える「東京」を静かに見つめている。「東京」は災害か、あるいは暴動による事件かで真っ赤に染まっている。それは「王殺し」ゆえの一時的なアナーキーの現出であろう。上司との電話で藪池は「今からそっちに向かいます」と静かに語る風貌は、疑いもなく真の「カリスマ」であり、世界の「法則」を回収するための「はじまり」である。

 

 

 

 

 

 

『アカルイミライ』(黒沢清)

 皮肉なタイトルだ。「アカルイミライ」が将来待っているはずだと心底から信じることなど可能だろうか。それは、あまりにニヒリストだと批判するかもしれない。だが、オプティミズムに信仰することがそれ以上にニヒリズム的であり、「再帰的無能感」に苛まれることだろう。また「アカ」=共産主義の「ミライ」が存在しないことも1956年のスターリン批判以降、そして1989/1991年以降の冷戦崩壊以降において瞭然たる史実であることは疑いようのないことだ。いわば、本作のタイトルは二重構造的に「ない」という否定性が内在している。

 

 仁村雄二(オダギリジョー)は、漠然とした焦燥を抱えながらも東京のおしぼり工場で働いている。同僚の有田守(浅野忠信)は、雄二が唯一心の許せる友人だ。

 かつての新左翼におけるローザやトロツキーの機動戦中心主義、三島由紀夫楯の会事件は「軍隊」、あるいは「暴力」が国家権力に包摂されていくことの証左であった。その後の「新しい社会運動」(アラン・トゥレーヌ)は、「中ソ論争」のなかで導入されたフルシチョフやトリアッティ(イタリア共産党)の「平和共存」=「構造改革」路線、グラムシ主義=「陣地戦」との連関性である。そこでは「市民社会」的運動であり、ロマン主義的な「情念」や「暴力」は回避している。

 だが、「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)という実情を前に、「暴力」の問題がいつ回帰しても不思議な話ではないだろう。雄二が弁当屋で不条理に客を殴ることも、そして守が、全共闘から転向して社会に溶け込み、幸せな家庭を築いている勤務先の社長=全共闘世代(笹野高史)を含む家族を殺害することにも何も驚くことではない。それは「法」=「父」という制度のもとで抑圧されているに過ぎないからだ。しかし、それらが機能不全に陥ればーー守と父親(藤竜也)の関係性のようにーーどうなるかは明瞭だろう。雄二は、禁欲主義的にゲームセンターの似非の「銃」を乱射することで耐える。だが、そうした頽廃的なゲームは終わりにしよう。

 

 逮捕された守は、雄二に託した「アカ」クラゲの飼育方法を徹底的に教える。雄二は、守の言動に不可解さを隠しきれない。ある日、雄二は水槽を倒してしまい「アカ」クラゲを床下に放流してしまう。その後、守は刑務所内で自殺をする。

 守の死後、雄二はリサイクル業を営む守の父親と出会い、労働をしながら共同生活をする。しかし、守に託された「アカ」クラゲの飼育を巡って対立することになり雄二は、守の父親のもとから離別する。

 

 離別後、雄二は真夜中のゲームセンターで男子高校生たちと知り合う。彼らも漠然とした焦燥、「アカルイミライ」など「ない」ことを了知しているのだろう。彼らとの対話のなかで雄二は、自らを「頭おかしいの」と発言し、彼らは「俺らと一緒だ」と叫ぶ。

 彼らにとって、学校とは「規律/訓練」(ミシェル・フーコー)の場であることを放棄していることを察知しているのだろう。社会は高等教育された「市民」を必要としていないのであり、「抽象的人間労働」によって「労働価値説」を体現できないことを発露しているからだ。だからこそ、彼らと雄二は深夜に企業=資本に侵入することで暴れ回る。しかし、彼らには国家権力=警察と対峙するための「武器」=「銃」=「軍隊」、あるいは「戦争機械」(ドゥルーズ=ガタリ)もなければプランもないため、すぐに警察に確保されてしまう。それは、一種の祝祭性であり、「権力を取らずに世界を変える」(ジョン・ホロウェイ)というアナキズムと民主主義的な手続きしか想像=創造できない左翼の病理であり、ポスト・ポリティカルの現実である。

 

 その後、雄二は守の父親が経営するリサイクル店へ戻る。泣きながら「ここに居ていいよね」と懇願する雄二は、この社会は「再生産」=「リサイクル」していくしかないことを追認する。守の父親は、何度も「許す」、「ずっとここに居ていいよ」を繰り返す。ここで雄二にとってーー作中で雄二の父親は登場しないーー擬似の「父」が生成されることになる。いわば、雄二は「この」社会で生きることを決意したとすることができるだろう。

 一方で、雄二が放流した「アカ」クラゲは東京のいたるところで繁殖していた。だが、「アカ」クラゲは東京から撤退を始めている。東京=資本の中心では、どれだけ「真水」を投入したところで「アカ」クラゲは生存することはできないのだ。無論、経済的な「真水」も同等である。東京という大都市に限らず「時間稼ぎの資本主義」(シュトレーク)に過ぎないことの発現である。

 

 ラスト、かつて雄二と知り合った高校生たちが同質のゲバラTシャツを着て道路を歩き続ける。彼らは何を推い、どこに向かい歩いているのだろうか。彼らにとって「ミライ」とは「いま・ここ」という現前だけである。彼らは、舗石=秩序を引き剥がすこともない。彼らには、資本主義的生産で「ゴミ」となったものを「リサイクル」して生産された道端の段ボールを蹴り上げることが限度であろう。彼らに残されたのは「誤認」によって見続ける「ユメ」だけである。

 

 

 

微光

6一2の証明が4であることよりも

僕にはそれがネギを切り刻み続けるような

言葉の物質性が憂懼だった

 

もしも世界が嘘だけで飾り付けられているなら

祈りは対等になる

夢が嘘に遭逢することがあれば

嘘は祈りとなるだろう

 

風葬されそうな言葉を肺の水底に着飾り

言葉に仮託された君を透明の結び目からほどこう

 

あなた/と/わたし アナタ/ト/ワタシ

その「と」の間隙に

愛の微光をみる

 

『寝ても覚めても』(濱口竜介)

 甘美でどこか頽廃的な美しい夢。人は誰しも忘れることのできない恋愛を経験している。罪の意識から新たな恋愛ができない人、過去の恋愛を忘れ去るために順次と恋愛に励む人。そこには無数の物語が存在する。だが、それらの経験は過去の記憶における中心的事象の表象化=再現前化である。全ては、それへの演劇化に過ぎない。かつての忘却することのできない耽溺な「夢」の上演=再現性である。

 

 朝子(唐田えりか)が、大阪・国立国際美術館で開催されていた「牛腸茂雄 Self and Others」展を鑑賞するところから物語は始まる。その帰途、同じ空間で鑑賞していた麦(東出昌大)と言葉を交わすことなく不条理に付き合うこととなる。決して映画は、現実の鏡像ではない。映画に内在する現実性が現実の現実性を発現しているとも限らない。だが、現実と虚構世界の断片が交差する瞬間を共有することがなければ、それは稚拙で退屈な印象を拭えないことは確かだろう。

 恋愛における自ー他(Self and Others)の関係性は恣意的な主観性の産物に過ぎない。対象の愛する理由を言葉で説明すればするほど、それはどこか嘘っぽさを纏うと同時にトートロジーに帰結するしかない。脆く、儚くーー作中の「爆竹」のようにーー綻びる運命でしかないだろう。それは、複数の他者との対比の中から選別された性質が愛する原拠とするからである。だからこそ、朝子と麦の交際の生起は言葉を介在することはなかった。それは、一見すると不条理演劇のようであるかもしれない。だが、むしろ自ー他における魅惑のリアルさとはこちらではないか。疎外されることのない「唯一者」であり、有限の経験的な他者から無限の超越的な他者の変貌としての証左である。

 恋愛とは、カフカの『城』のように対象の周縁を遠心的に作用するしかない。前作『ハッピーアワー』が、「重心」(=「中心」)を探求しながらも必然的に均衡と転倒を反復ーーフェリー乗り場で純が桜子の息子と「重心」を合わせようとする場面はなんと美しいことかーーするしかなかったように、全ての「重心」が揃うことはない。しかし、である。だからこそ逆説的に対象を言葉で語るしかないのではないか。それは、決して終結することのない営為だろう。だが、それこそが対象に求心的に作用する唯一の方途ではないか。序盤の朝子は、麦に対して「かっこいい」、「かわいい」と最小限の言葉で表現をするが、それはこのような文脈で理解すべきである。

 その後、麦は忽然と姿を消す。二年と、少し後経過して舞台は東京に移る。東京のカフェで働いている朝子は、ある日偶然にも麦と相似している丸子亮平(東出昌大)と出会う。困惑しながらも朝子と亮平は、宿命であるかのように惹かれ合い、離別したりを繰り返す。朝子は、亮平の形象に麦を投影し、彼の幻影を消去することができない。そのためか当初の朝子は、ほとんどギャラリーに展示されている写真、カフェの窓に反射する鏡像である亮平の形相しか認識することができていない。

 ここでも、やはり言葉よりは「身体」の接触に重点を置いているように描出されている。ギャラリーの入場口前で脈絡もなく突然朝子が、亮平の頬に触れるシーンや、亮平が勤務する非常階段で互いに頬を触れながら見つめ合うーーここでも非対称な鏡像として機能しているーーシーンは、言葉では確かな実存を確かめることができないからこそ、等価関係として「身体」に触れ合うのである。

 

 ところで、本作は原作とは決定的な差異がある。それは、2011年の東日本大震災の描写を反映していることである。ある日、朝子の友人であるマヤ(山下リオ)から招待されたイプセン原作『野鴨』の舞台を鑑賞しようと亮平(東出昌大)は訪れるが、開演前に地震が襲い中止となる。作中で明確な時間表記を確認することはできないが、昼公演であり定時の開演前であることから東日本大震災が発生した14時46分との信憑性は高いと推測することは可能だろう。また濱口竜介は、2011年から2013年にかけて「東北記録映画三部作」を制作していることから3.11以後の作家の一人としてカテゴライズされていることからも瞭然である。

 しかし、そのような3.11以前/以後という言葉で分節することは記号として機能し、至便性に長けてはいる。一方で、現象の時間的・空間的・社会的な深遠さを捨象してしまう危険性を内在していることもまた事実である。それは、事象の特権化を促し、作家の連関性を喪失してしまう。前作『ハッピーアワー』のラストシーンは、あかり(田中幸恵)が勤務していた病院の屋上から神戸の街と海の壮観がどこまでも広がっていたが、「神戸」という舞台設定は偶然的なのだろうか。濱口は、不可視であれ意図的に1995年の阪神淡路大震災を描写していたのではないか。であれば、本作との連続性も発露してくる。『ハッピーアワー』のラストが海の彼方、作品の「外部」を志向するかのような印象を与えるかもしれないが、そうではない。濱口は、徹底的に「象徴界」の内部で論理的に思考する作家である。そうでなければ日本映画史上類を見ない5時間17分の『ハッピーアワー』というーー「言語」を徹底的に思考したーー傑作を生み出すことは不可能だっただろう。「言語」(=「コミュニケーション」)を徹底的に思考したからこそ、必然的に5時間17分という長尺の作品になったのだ。3.11以降、急速に「象徴界」の外部としての「現実界」に触れようと、超越的あるいは超越論的な諸原理やイデオロギーに回帰しようとする了見が見受けられる。だが、後述する本作のラストからも瞭然とすることであるが、濱口の作品内におけるある種の「告白」を看取できるまでは時間はかからないことだろう。

 

 作中における震災以後、亮平と朝子はレンタカーで東北の被災地とボランティア活動として関係性をもつことになる。そしてそれ以後、朝子にモデル兼俳優として活躍している麦の形象が幾度も回帰してくる。亮平の大阪への転勤が決定し、引っ越し前日の友人たちとの食事の場で麦は忽然と朝子の前に現前する。そして、そのまま麦と朝子は友人たちの前から去っていく。

 麦の祖父が所有する別荘へ向かう帰途、仙台の手前で車中泊をする。麦は「海がみたかった」と発言し、続けて「この向こう本当に海なの?」と堤防の向こうを目指す。だが、朝子は共に駆け出すことはない。朝子は、「これ以上、先に行かれへん」と発言し、「亮平の元へ戻らないと」と麦に告げる。この場面において「寝ても覚めても」というタイトルの意味が鮮明に回収されることとなる。それは、朝子が亮平への「愛」に再び目「覚め」たというあまりに素朴で質素な解釈ではない。そうではなく、ここで朝子はようやく「麦」=「故郷」が存在しないことーー東京から出発する前に麦は「俺の代わりはいくらでもいるから」とスマホを壊しているのは示唆的だろうーーを認知することができたのである。東日本大震災による津波福島第一原子力発電所の事故は、東北の土地を喪失する、いわば「故郷喪失」の感情に根ざしている。だが近代以降において、故郷とは「ロマン的イロニー」であり「先験的な故郷喪失」の形式にならざるをえないのだ。麦と別れ朝子は「寝ても」/「覚めても」の境界を越境するかのように一人で堤防を登り、その先の海をじっと見つめる。数秒間、映し出された朝子は、どこか不安と希望が混在した表情をしている。だが、その表情に真直な「決意」を読み取ることができるだろう。

 

 麦と別れ、朝子は大阪にいる亮平のもとへと向かう。だが亮平は、朝子を追い返し、家に閉じこもる。必死に叫ぶ朝子に、亮平は捨てたと嘘をついていた飼い猫のジンタンを無言で差し出し、扉を閉める。だが家の鍵は閉められてなく、朝子は二階にいる亮平のもとへ向かう。亮平は、無言で受け入れ「俺は、きっと一生お前のこと信じへんで」と告げる。「絶対」ではなく「きっと」信じないとすること。たった三文字の「きっと」にどれだけの意味が込められているのだろうか。決して『マノン・レスコー』のような物語ではなく、と同時にそれは二人だけの物語ではないことだろう。

 ラスト、二人は目の前を流れ行く天野川の先をじっと見つめる。河川には同一性がない。生成変化を繰り返し、同一の形象を形成しないからこそ美しい。ラストの二人の並びは、冒頭の「牛腸茂雄 Self and Others」におけるポートレートの反復である。水かさが増した河川の不穏な雰囲気のように二人の表情に笑顔はない。二人の視線は、ポートレートのように交差することもない。二人は、一体どこを見つめているのだろうか。視線の先の河川の行き着く先は、一つの調和した広大な海だろう。未来において二人の視線が交差することはないのかもしれない。愛とは「太陽と番った海」(Arthur Rimbaud)である。だが、二人が残してきた愛の「証拠」は、たしかにそこに「ある」のだ。

 

 

ツイッター・デモ、あるいは催涙ガス

 どうやらツイッター・デモに人民は、賭けたようだ。事の経過は、国会で審議が開始した検察庁法改正案への抗議であるらしい。「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグが、現時点でTwitterという表象空間に470万件以上(5.11時点)ツイートされている。炎上を覚悟の上で、多くの文化人や芸能人も声をあげているためメディアにも注目されている様子だ。

 SNSを号令にデモが勃発するのは、2011年以降の問題であろう。世界的には、アラブの春からウォール街を占拠せよ運動まで抵抗の火花は飛び散っていた。また、国内では3.11以降の反原発運動、そして2015年の反安保法制におけるSEALDsがイデオローグである。

 だが、2011年以降の一連の政治的闘争は無力であった。何も変わらなかった。残されたのは、その反動としての右派ポピュリズムの強権性だけである。絓秀実も指摘するように持続不可能性であったのは、「場所」を欠いた運動であったからであろう。カール・シュミットも語るように「ノモス」をつかさどるのは「土地」だからである。「土地」に依拠しないパルチザンは存在不可能なのだ。

 

 2011年以降の政治的闘争を肯定的に評価するつもりはない。だが、良くも悪くも広場で集会を慣行し、そこをオキュパイーー金曜官邸前行動のようにーーしたことは少なからずデモであった。であれば、今回のコロナ禍におけるツイッター・デモとは、何をもって「デモ」としているのだろうか。もちろん、災害の渦中で権力を濫用するのはお決まりであり個人的にも「反対」である。そして、Twitterに表象され可視化されることで初めて認知することもできた。だが、石破茂の発言でもあるようにデモとは「テロ」のはずである。たとえ、仮構空間に何百・何千万と抗議の言葉が表象されたとしても何が恐怖なのか。それは、社会を反映していると言えるのだろうか。手書きのプラカードではなく、均質の活字体の言葉で一体なんの意味があるのか。全くもって緊張感がないのである。芸能人の政治的発言が炎上するかどうか以前に政治的に腐朽しているのである。彼/女たちにとって、それは瞬間的で非ー歴史的なーーどれだけ本気で批判したとしてもーー祝祭でしかないのである。だから、何度も同じ過ちを繰り返すのである。無論、人民に迎合するリベラル派の病理もここにあると言えるだろう。

 

 ところで、かつてSNSの「弱いつながり」に可能性を語っていた東浩紀は、株式会社ゲンロンカフェを創設して今年で10周年を迎えるそうだ。ゲンロン以後かつての思想から反省的に、あるいは脱構築的に思想を再編成してきた。近年、SNSに批判的な姿勢を表明しながら人民と離別しつつ誤配されるゲンロンカフェというーーネット空間とは異なる自律空間ーー組織を作り上げてきた。「外山恒一×東浩紀ーーコロナ時代に政治的自由は可能なのか?」を鑑賞したが、ツイッター・デモに賭けるぐらいであれば、リアルな空間に組織を構築してきたーー批判的であろうとーー東に賭けるべきだろう。だが、一方で近年「観光客の哲学」で展開してきた思想は、今後のコロナ情勢でどのように総括するのだろうか。そのようなジレンマへの解答にどう答えるのかに期待したい。

大義を求めよーーパンデミック、資本、階級

 「ウイルスの独白」(https://hapaxxxx.blogspot.com/2020/03/blog-post_30.html?spref=tw&m=1)によると、ウイルスとは「生の連続体」であり「知性」を内在した「救世主」である。続けてこう語る。「わたしのおかげで、みなさまは経済をとるか生きるかという分岐点に立つことができました」と。

 ところが、現実はーーウイルスの意図したものとは異なりーー「経済」を選択した。そもそも、大衆にとってこのような二択自体が成立することはない。なぜなら、「生きる」ことこそが「経済」を維持することだからだ。無論、それは資本主義社会なのだからと答えればそれで議論はおしまいだろう。しかし、事態はもっと深刻ではないか。

 今回の騒動において、休業補償や現金の一律給付を待望する声が多い。また、イギリスでは一時的なベーシックインカム(以下、BI)の検討という報道は記憶に新しい。無論、これらの政策は一時的であれ実施すべきではあるかもしれない。だが、一方でこれらはシステムを再生産するに過ぎない。新自由主義が「反」革命的である所以は、自由と創造性を統治にしたことだが、それは同時に「人的資本」として支配することであり、「生きさせる=息させる」システムだからである。どちらにせよ国家に依存的なのだ。この点においてリベラルは、国家(=政府)を批判しながら国家に依存するというジレンマに陥り、袋小路に入っているようにも見える。

 また今回の騒動において再び、反緊縮・リフレ政策やMMT(Modern Money Theory)理論が持て囃されているようだが、これは資本主義が自助では稼働できないことの症例ではないのか。資本主義はインフレから始まり、国債の発行、民間への負債の付け替えで延命してきた。そして、2008年のリーマンショック以降は、中央銀行(「量的緩和政策」)と国家によって延命してきた。シュトレークの言葉で表現するのであれば「時間稼ぎの資本主義」の現れである。

 「自由と平等のできちゃった結婚」の破綻が鮮明になり、宇野弘蔵の「流通滲透視角」における労働価値説のリアリティは崩壊している。新自由主義的資本主義は、「外部」に利益を求め、「人的資本」としてどこまでも統治する。また、負債ーー例えば、奨学金を想起せよーーによる「民営化されたケインズ主義」や、未来の富で確保する金融資本主義で強制的に仮構されている。この点もリベラルが陥っている罠である。彼/女たちが提唱する福祉や教育への「再分配」は収奪だけの金融資本主義の扶助になっているのだ。

 財政再建国家では、民主主義の脱経済化による資本主義の脱民主主義化のプロセスが加速する。民営化により〈共〉が失われていくと、政治的に決定すべきことも減らざるをえない。市場が、集団的意志決定を慣行する基本原理となれば、ハーバーマスなどの「討議的民主主義」ーー個人的には批判的だがーーは機能しなくなるだろう。つまり、1%の有力者が意思決定を慣行するのである。

 

 フーコーは、法的主体と経済的主体の異質性を和解させることは不可能として新たなる領域ーー「社会的なもの」ーーを必要とした。だが、いまやそのような領域は崩壊し、〈借金人間〉によって生産は保証されている。かつての、2011年以降の市民主体的で自律的・水平的な一連の政治的闘争は離合集散した。たとえ、それが小規模でも継続していたとしてもそれは無力である。それらは、政治に「政治」を対置することができないからである。その反動は、現在までの世界各地の政治状況に一直線である。

 政治とは、決断主義的な選択を回避しながら「居心地の悪さ」を引き受けるのだとしたら、今回の新型コロナウイルス(COVID-19)の騒動における政治的情勢は二重の意味を持つ。現時点で、建設的な対抗運動は不可能である。新自由主義的資本主義では、労働組合は機能しないに等しい。ならば、残されているのは破壊的な対抗運動しかない。いつまで経っても、市民社会的ー対抗運動で「倫理」ばかりを語る学者能力のない者よりは有意義である。隷属関係でしかない我々は、非難を浴びた安倍晋三星野源の動画に登場した愛犬のように可愛がられるようなことは永劫とない。国家のStay-homeの要請に従順な人民は、外出自粛期間中きたるべき闘争のために多少なりとも「なにをなすべきか」の言説を構築するべきだろう。でなければ、今後とも従順な「ポチ」のままである。常態化の維持を強制的に世界が進むと仮定するのであれば、数年後には「コロナ以降」として「リーマンショック以降」のような歴史的転換期として語られるだろう。無論、それは経済的マイナスとしての事故として、である。進行中の事象に介入し続け思考と議論をまずは第一に考えるべきだ。

災厄の理想郷ーー「災害ユートピア」と市民社会の臨界

 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染・拡大が止まらない。中国を発現とし、世界的に拡大し続け、様々な影響が出ていることは周知の事実だ。国内においてもマスクの品薄、そして卒業式や入学式、大規模なイベントやライブの自粛を求めるよう政府は声明を出している。そして、それは経済活動に多大な影響を与えていることと同義であり、危機に乗じて新自由主義構造改革等の施工を目論む「惨事便乗型資本主義」である。まさに、竹中平蔵を典型とした「ショック・ドクトリン」だろう。

 かつての歴史的事象である「68年革命」の教示は、フランス等の先進資本主義国でもゼネストを数週間決起すれば、イデオロギーが揺らぎ革命の胎動を予感させたことにある。それは、疎外された主体性の回復を意図したものであった。だが、今回の新型コロナウイルスは、あくまでも偶発的(と言えるかは今回に関しては曖昧であるが)な災害である。確かに、資本主義社会に多大な影響を与えていることを鑑みれば革命と宣言できるかもしれない。だが、議論の余地は残されているだろう。

 

 かつてアナキストを自称する栗原康は、災害は革命だ、と高らかに宣言していた。栗原は、次のように言及している。

 

 

革命というのはなにも民衆が積極的にひきおこしたものばかりではない。ぜんぜんのぞんでいなくても不可避的におこってしまうことだってある。たとえば、いちばんわかりやすい例が、二〇一一年三月一一日の東日本大震災だ (『何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成』KADOKAWA, 2018) 

 

 

栗原は、革命とは新たな権力が立ち上がった瞬間に革命的ではないと言う。なるほど、栗原の論理はアナキストとして誠実である。3.11以降の社会運動の評価ではなく、震災によって政府やインフラが殆ど機能を果たさなかった点で革命なのだと。バクーニンは、「破壊への情熱は、同時に創造への情熱なのだ」と語っていた。確かに東日本大震災は、人為的ではなく偶発的な自然発生的現象ではあるが、市民が創造への情熱を駆られると同時に、クロポトキンが『相互扶助論』で語るように、人間やあらゆる生物には本能的に他者に対する相互扶助の機能が備えられていることの証左だったのである、と。そして、言うまでもなく3.11以降に脚光を浴びたレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』も栗原の論理と同様である。災害によって国家やインフラが機能しなくなった時、人間は暴力ではなく相互扶助的なユートピアを創造するのだ。

 一方で、栗原の何ものにも縛られないユートピア理論に対して、綿野恵太は異を唱える。綿野は、次のように言及している。

 

 

 栗原の論理はアナキストとして一貫している。では、こう問うことも許されるだろうか。大杉栄伊藤野枝ら多数のアナキストが殺害された関東大震災ははたして革命だったのか、と。1920年代初頭、労働運動の方針をめぐって「アナ・ボル論争」と呼ばれるマルクス主義アナキズムの思想的対立があった。(中略)通説によれば、理論的支柱だった大杉栄関東大震災の混乱のさなかに虐殺されたことでアナキズム陣営は力を失い、その結果日本ではマルクス主義の影響が強まったとされる。しかし、関東大震災アナキズムの思想的な敗北だったとしたらどうだろうか。(「震災は革命かーー栗原康のアナキズム関東大震災週刊読書人 論潮, 20180910掲載)

 

 

綿野は、関東大震災における虐殺を事例に、相互扶助による「自発性の暴走」を危惧している。それは、相互扶助の外部に存在するマイノリティの排除につながるのである。それは、3.11以降のファシズム的様相を帯びた「頑張ろう、日本」という不穏な空気感にも通底しているだろう。そもそも、なぜ東北地方を震源とした事象であるのに「日本」としたのか。中心を据えることによるロジックが震災復興を標榜した東京オリンピック開催まで一直線であることは明瞭である。他者との共生を美とする相互扶助概念には、安易に排除や差別に転回するロジックが内在している。それは、無意識の「災害ファシズム 」なのである。そこが、アナキズムの限界点だろう。アナキズムは、左/右のイデオロギーに御都合主義的に利用されてしまうのである。

 

 また、市民社会における「自由」と「平等」という擬制にも注視しなければならない。市民社会論には、資本主義における「下部構造」を凝視することができていない。おそらく市民の多くは「自由」と「平等」を欺瞞だと感じるのではないか。その最たる例は、PC(Political Correctness)だろう。絓秀実が、「PCとは資本主義を受け入れた上での心情的な疾しさ」と語るように、疚しい良心に耐えれぬ者は、排外主義に向かうしかない。2011年以降の市民運動の帰結が、レイシズムを掲げたトランプ政権を誕生させたことはその所作である。もはや、「自発性の暴走」を称賛できる時代ではないのだ。

 

 そして、言うまでもないが市民社会には「格差」問題が内在している。災害時に政府や企業等は、「速やかに安全な場所を確保してください」、「大規模なイベントは自粛してください」云々などの言説を垂れ流すわけであるが、そうした企業的主体の発言は、個々の「自己責任論」である。我々の「自己責任」は、政府・国家にとっての「無責任」というわけだ。

 こうした言説には経済的、または身体的に格差が残存すれば不可能性が内在している。それは、2011以降の社会運動のメルクマールの一人であったデヴィッド・グレーバーの「個人主義共産主義」にも指摘できることである。つまり、資本主義に構造化されている市民社会の格差をいかに解体し再構築することができるかであろう。3.11以降の市民主体的な「新しい社会運動」では、新自由主義イデオロギーに対抗することはできない。それは、政治に「政治」を対置するのではなく、「倫理」を対置するに過ぎないからだ。

 

 新型コロナウイルス(COVID-19)の流行が終息する気配は、今のところない。今後、エリートパニックを起こした政府の諸対応に、市民はいかなる反応をするのだろうか。ウイルスという見えない敵は、グローバルに越境していく。人類は、そうした敵を可視化されている「対象」へと反転するだろう。他者への人種主義的差別、ナショナリズムなどが過熱することは想像に容易い。表象されないウイルスがグローバルに拡大し、ナショナリズムが「グローバル」に進行するのだ。

 さて、今回の新型コロナウイルスの拡大は我々に何を教示してくれるのだろうか。おそらく、今回の事例も資本主義に回収されてしまうのだろう。災害は革命だ、と高らかに宣言したところで事象を主体的に組織化できる「党」も存在しない。レーニンが語る「外部注入論」が機能しえない。2011以降の政治的闘争における水平的・自律的な特異的な市民によるマルチチュードのように雲散霧消してしまうだろう。

 労働価値説は失効し、サッチャーの「社会は存在しない」という発言のように市場には存在しているが社会には存在していない。そのような社会で、いかに組織化は可能なのか。「自由」と「平等」の理念を元に、マルチチュードと叫ぶのは容易い。未曾有の災害で相互扶助の共同性が現出したとしても方法論がない。また、我々が直面している現実は、相互扶助的なユートピアではない。むしろ、我々が存在する市民社会には「暴力」へと回帰する可能性が内在していることに危惧しなければならない。我々に必要なのは、その「暴力」に立ち向かう組織的理論なのである。