水平線

研究と批評.

『キャラクター』①(永井聡) 

 リアリズムが作品のどこかに表象されることによっての経験がリアリティを与えるのか。あるいは、フィクション内におけるリアリズムが、現実世界の「リアリズム」を形成しているのか。このような問いは、あまりに馬鹿げていると、あるいはそのような問いは成立しないと多くの人たちは批判するかもしれない。だが、はたしてそのような批判は本当に妥当だろうか。むしろリアルは、フィクションの追随でしかないのであればどうだろうか。山城圭吾(菅田将暉)が、現実の殺人事件をモデルに描いた漫画『34(さんじゅうし)』が、物語が展開するにつれてフィクションが作品内における現実から先行するのも何も驚愕することではない。

 

 今日において、あまりにも現実的批判を展開すればするほど陰謀論者のレッテルを貼られるのはリアルそれ自体がフィクションのコピー=「シュミラークル」(ジャン・ボードリヤール)だからである。だが、問題はその先である。リアリストは懐疑論者や否定論者というレッテルを貼られたことに対して、さらなる議論を展開することができていない。その先を展望することができないのである。なぜか。言うまでもなくリアリズムが縮減ーー「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)と言い換えてもいいーーしているからである。であれば、陰謀論者も陰謀否定論者もメタ的な「陰謀」に包摂されてしまっているとも言えるだろう。

 あらゆる情報がデータベース化することで、真実と虚構の境界線は曖昧化している。もはや真実/虚構に境界線を引くこと自体が意味を失いつつあると言えるだろう。政治的言説や規範的意識は、虚構に支配され効力を失いつつあり、人々は、ニヒリズム的快楽=「動物化」(東浩紀)に溺れるしかない現況に陥っている。しかし、そのような「動物化」はダーウィニズム的な自然淘汰に帰結してしまうのではないか。そうであれば必要なのは、抵抗としての思想でありイデオロギー、すなわち「政治」である。だが、事態は複雑である。

 昨今の世界情勢を踏まえ政治は「フィクション化」しているという指摘がある(たとえば『世界 2020年2月号』岩波書店、を参考せよ)。だが、政治とは「フィクション化」以前に、そもそも「フィクション」そのものではなかったか。

 政治のフィクション性を思索するために、たとえばハーバマス的「熟議デモクラシー」を想起してみるといい。ハーバマスは「二回路モデル」論によって、国家と市民社会・公共圏を熟議によって媒介する構想を提示している。ハーバマスが提起した論で肝要なのは、国家における「意思形成」と市民社会・公共圏における「意見形成」を区別したことである。坂本治也は、「熟議民主主義は、基本的には公共圏・市民社会における『意見形成』の段階で行われるものである。そこでは、直接的な意思形成は求められない。そのため、市民は『ものごとを決定しなければならない』という圧力から解放され、自由な熟議が可能になる」(坂本編 2017: 25)と説明している。

 ハーバマスの提起する構図はあまりにも形式的である。そしてハーバマスの図式は、あまりに空論的でありロマン主義である。唯々疑念的であるが、市民社会・公共圏において熟議は現出したことがあるだろうか。仮に熟議が現出したとして、いかに市民の意見形成を国家に反映させることが、代表 representative できると思考しているのだろうか。まったくをもって考えていないのである。無論、市民たちも議会制民主主義が政治家たちのプロレスに過ぎないことを感知していることだろう。その点では右派も左派も根底ではつながっているのであり、真の対立はないのである。

 しかし、真の対立がないことは「〈一を二に割る〉」(小泉義之)機会でもあるだろう。そして、それを担うであろう人々は両角(Fukase)や辺見敦(松田洋治)のような社会的に包摂されていない、社会的な疎外=精神の疎外=狂気とされた人物たちである。実際、作中において国家権力=警察権力は彼らに翻弄され続ける。

 

 1970年代以降、「狂気」の思想と行動によって解放を唱える運動があった。だが、時代が経るにつれ「狂気」というリアリティは後景に退いていった。

 しかし、いまや別の仕方で「狂気」によって揺さぶられているのではないか。われわれがいま求めるべきは「高次の狂気」(小泉義之)である。

 

(続く)

 

 

『きみが死んだあとで』(代島治彦)

地獄への道が善意で敷き詰められているなら、悪意で敷き詰めないと天国への道は開かれないのかもしれない。しかし、この世界は、天国でも地獄でもない。煉獄である。この世界では、地獄への道と天国への道は反転可能になっている。この世界は、悪を活用して善に転化できるようになっている。最善ではなく次善を選ぶのは市民のやり方だ。最悪ではなく次悪を選ばせ、最善に転ずるのがわれわれ左翼のやり方である(小泉義之, 2006, 『「負け組」の哲学」』p. 16)。

 

 銘記すべきは、いつの時代にも、革命を必要としている人間、革命なくしては自由に生きていけない人間、革命を命がけで求めている人間がいるということだ。そんな人間には、反省している暇などない。断固として、いつか無力な者になる人間の立場に立つこと、無力な者を代行する立場に立つこと、レーニンのように、遠くからではあれ、無力な者に訴えることだ(小泉義之, 2006, 『「負け組」の哲学』p. 60)。

 

 作品の冒頭、代島監督の内面における次のような言葉がスクリーン上に表象される。

 

ぼく(監督)は1958年2月生まれだ。小学校に入学するとすぐにベトナム戦争がはじまった。1964年夏、米軍が北ベトナムを爆撃。すぐに世界中で戦争に反対する運動が巻き起こる。少年時代のぼくは、ベトナム反戦を訴え革命をめざして闘う「団塊の世代」のかっこいいお兄さんやお姉さんに憧れた。この映画をつくりながら、ぼくは想像した。もしもぼくが「団塊の世代」に生まれたとしたら、第二次世界大戦の直後1947年から49年の間に生まれたとしたら、どんな青春を選んだだろうか。もしもぼくが、1967年10月8日に羽田・弁天橋で死んだ18歳の若者の友達だったとしたら、どんな人生を歩んだだろうか(『きみが死んだあとで』パンフレットを参考)。

 

 冒頭の代島監督の独白からも象徴的であるように、本作は、「かもしれない」、「だったのかもしれない」という世界線で物語が展開していく。とりわけ、赤松英一と島本恵子の数秒間の沈黙は、「きみ」=「山﨑博昭」の死が、「わたし」の死であった「かもしれない」という死の淵を覗き込むような経験、いわば「象徴界」(ラカン)の外部に触れてしまったがゆえに生じる沈黙だったのだろう。

 あるいは、「きみ」=「山﨑博昭」の死を、佐々木幹郎のように「詩」として昇華させることで、つまり山崎博昭を内面化することによって偶然の生を「生き抜く!生き抜くことだ!」(佐々木幹郎, 1970, 『死者の鞭』)と詠みあげることで他者の死を自責のように背負うことで総括することも可能だろう。だが、それははたして可能だろうか。

 本作全体的に漂っていることだが、本作は、山﨑博昭=中心の周縁を回遊しているに過ぎない。それは、「ない」ものを「ある」とするような、ロマン主義イロニーではないか。たしかに証言者たちは、過去の壮絶な体験を語っているのではあるが、山﨑博昭=中心を媒介としてノスタルジックでナルシシズム的な語り narrative に回収されてしまっているのである。まさに、それは、言語によって表象不可能なトラウマ的経験なのである。では、山﨑博昭=中心を語り、その「外部」にいくにはいかなる方法論があるだろうか。

 

 山﨑博昭と共に生きた証言者たちは、「きみが死んだあとで」で一体何を問いたいのだろうか。無論、彼/彼女たちが、壮絶な体験をしてきたことは承知しているつもりである。だが、彼/彼女たちの証言は、過去の経験と思い出話に収まっていないか。問うべきは、山﨑博昭の死以後における、彼/彼女たちの闘争の展開であり、組織からの脱退理由を聞き出すことだったはずである。

 本作で登場する人物たちは、いまや一般的なメディアで見ることなどない。いまや左翼は、リベラル層に代わったからである。だからこそ、代島監督は、証言者たちから具体的に組織を脱退した理由や闘争をやめた理由などを聞き出すべきだったのである。エンドロールで、その後における彼/彼女たちの説明を一行だけで説明して何になろう。重要なのは、その過程=中間である。オーラル・ヒストリー oral history 的手法で証言者たちから、山﨑博昭=中心に接近していくこと、そしてその後を聞き出すこと、そのような自己総括こそが「きみが死んだあとで」為すべきことであり、現地点から左翼を語り直すことに他ならない。

 

『狼をさがして』(キム・ミレ)

 かつて〈東アジア反日武装戦線〉(以下、「狼」)が、「虹作戦」(昭和天皇が乗った列車の爆破計画)を決行するはずであった鉄橋が幾度も表象される。だが、鉄橋の彼方は霞んで何も見えない。決して「狼」は、やってこない。「狼」は、絶滅したのだ。だが「狼」が、残した傷痕はどうか。「狼」は、われわれに無数に問いかける。「狼」は、われわれの傷痕に亡霊のように回帰してくることだろう。

 

 冒頭の釜ヶ崎における日雇い労働者たちの場面からも象徴的であるように、「狼」が連帯を表明する労働者は、流動的労働者に限られている。あるいは、アイヌ、沖縄、朝鮮人民などである。さらに『腹腹時計』の記述には、マルクスレーニンの名が登場しない。また、日本の労働者階級自体も帝国主義当事者として否定されている。このような特徴は、従来の左翼、あるいは新左翼にはない特徴である。
 一方で、新左翼を含めた既成左翼からの批判も厳しかった。批判の要点としては、第一に、国家権力ではなく、企業に爆弾を仕掛けたところで革命には至らないということである。第二に、階級的視点である。「狼」の主張に基づく限り、被抑圧階級である労働者それ自体の存在を全否定することになり、労働者革命による革命を否定することになるのである。
 しかし、既成左翼の批判は、的外れでしかないだろう。あくまで、この対立構図に準ずるのであれば、「狼」の論拠の方が闘争として正しい。なぜか。既成左翼は、「企業に爆弾を仕掛けたところで革命には至らない」と裁断するが、そうではない。「企業」それ自体を対象とすることにこそ革命的闘争としての意味があったのである。それこそが、68年5月を経て、70年代に「狼」の誕生を待望した所以だったのではなかったか。

 

 フランス社会党内の少数派マルクス主義集団CERESの指導者であったJ・L・シャルティエは、70年代当時の権力の分節構造の特殊性に注目している。シャルティエの権力構造の分析を確認することは、国家独占資本主義論の揚棄、ブロック・ヘゲモニー概念の提起を試みるものである。

 シャルティエによれば、独占資本の展開は、科学技術の導入による経済過程の操作化を通じて、企業権力を成立させている。そして、生産過程においてだけではなく、流通=分配過程、教育や医療などの労働力の再生産過程においても企業権力を普遍的に成立させている。この権力は、国家権力とは異なり、テレビ・ラジオなどの情報機関、交通諸機関、大学等教育研究機関、医療諸機関などにおいて日常的な諸種の抑圧として機能する。すなわち、こうした諸機関における被抑圧者であるはずの労働者自身が、当の諸機関の利用者を企業権力の操作対象にしているということである。そして、この企業権力の操作総体を法的に保障するのが国家権力である。そのため、権力は、国家権力によってだけでなく、複雑に分節した企業権力によっても構成されていることになる。

 既成左翼は、権力を国家権力(公的権力)の一枚岩でしか捉えられていない。そうではなく、諸種の企業権力において権力を把握することは、企業を含む諸機関の労働者までもが、非集権化を通じて経済過程の制御や諸機関の意思決定に参加する可能性を拓くことなのである。このような現実認識は、冷戦崩壊以降から現在に至るまでの多国籍企業という組織形態をとった生産諸資本の循環過程が、「狼」の思想のようにグローバルとナショナルの次元で展開でしている実情にもアクチュアルなのである。

 

 ところで最近、名古屋入管に収容中に死亡したスリランカ国籍の女性のニュースが報道された。彼女は、「ほんとうに、いま、たべたいです」という言葉を残して死亡したようだ。

 「狼」が、起こした行動を肯定することはできない。しかし、同時に「狼」の思想を全否定することもできない。「狼」の問いかけは、当時よりも露骨に明確に、かつ自覚的に、当時とは異なる形で帝国主義を志向しているのではないだろうか。われわれは、決して「狼」の問いに答えることができていない。われわれは、無自覚の加害者のままであるという自己認識から始めなければ「狼」以後の世界を掴み取ることはできない。天皇制を含めた戦後日本の解体の内実を問わなければならないのである。

『花束みたいな恋をした』(監督:土井裕泰・脚本:坂本裕二)

 終電を逃さなかったら出逢わなかった「かもしれない」ーー。「かもしれない」という複数の可能世界には、新自由主義による中間的な社会領域の喪失が、個人的領域と他者的領域の両者を媒介なく接続されることでリアリティを与える。そして、さらにこの可能世界にリアリティが内在しているように描くには、固有名が現実世界と複数の可能世界とを双方に架橋し媒介することで保証される。山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)から無数に発せられる、押井守天竺鼠、今村夏子、羊文学、きのこ帝国…という固有名の羅列でしかリアリティを把握できないのであれば、それは、「資本主義リアリズム」としての(不)可能性である。そうであれば、本作に対しての批評に必要なのは、資本主義の残酷さを論じるだけではなく、現実世界それ自体の可能性を捉え直すことに他ならない。

 

 終電を逃すことは、労働力の再生産を放棄するに等しい。だが、急進的インテリゲンチャであるはずの大学生にとっては、モラトリアムとして芸術や文学の知識を生産する時間でもあるだろう。終電を逃し、偶然出逢った麦と絹は、居酒屋で朝まで文学や映画などの話で盛り上がる。共通の話題を確認した二人は、その後付き合うことになる。

 二人の口からは、無数の固有名が発せられるが、それが他者にとっての優位性を示すことではない。ある日、麦の部屋に訪れた絹は、本棚を品定めし「ほぼうちの本棚じゃん」と呟く。そして、絹は、自分が所有していない、未読の本ではなく、これまで繰り返してきた愛読書に目を留める。その後のいくつかの場面からも明らかだが、二人は意識的に「同質性」を確認し合う。芸術一般が、社会から「疎外」されていない「かもしれない」と等価性を交換し続けることで同一性を確認し合っているのである。

 

 だが、物語が順風満帆に進むはずはない。「絹ちゃんあのさ、俺、就職するね」の一言で、絹と麦の関係性は急変する。

 新自由主義の時代は、資本が「社会」から撤退する過程である。資本は、社会の「外部」に利益を求め、生産過程から撤退する。「市民社会の衰退」(Michael Hards)において、社会にとって芸術は不必要である。そして、「時間稼ぎの資本主義」(Streeck Wolfgang)には、人的資本だけが残されることになる。実際に絹は、資格を獲得することで事務職に就職する。

 資本の総動員は、終電のように簡単には見逃してくれない。だが二人は、芸術一般が社会にとって不必要だとされていることぐらい薄々勘づいていることだろう。現在の大学では、自己を「惨忍な鈍感さ」で商品化するのであり、かつての「層としての学生」(武井昭夫)の過程は消滅している。

 

 事態が改善することなく、出会いから4年が経った冬、二人は、友人の結婚式に参加する。友人の結婚式にそれぞれ別れる決意を胸に参加した二人は、その晩に、思い出のファミレスで別れ話を始める。絹とは対照的に、麦は結婚をすれば事態が改善するのではないかと提案する。そのとき、二人の光景には、かつての二人を想起させるようなカップルが現れる。それを見た二人は、別れを決断する。

  そして、2020年現在、二人には新たな恋人ができていた。絹と麦は、同じカフェに居合わせ、言葉を交わすことなく店を後にするが、二人は背を向けたまま手を振っていた。

 

 二人が、結婚を拒否したのは、社会的包摂の否定であり、過去における記憶の高次的回復である。かつての二人は、互いの「交通」関係を通じて、疎外を回復した「個体的所有」であると同時に、同一性の調和であった。物語のラスト、二人は背を向けながら無言で手を振る。それは、本作の文脈で表現するのであれば、イヤホンのLとRから流れる音は別々であるが、一つの音楽を形成するように、自己と他者は、非-同一的な存在であるが、転変を繰り返すことで一つの類体となる総過程である。芸術を語っていたときの二人の記憶は、Googleストリートビューにも保存できない高次の記憶である。今日、芸術は、ブルジョアにもプロレタリアでもない小市民であるが、そこに「限界-前衛を担う党」(小泉義之)の萌芽を見出すのである。花束「みたいな」恋とは、決して花束には「なれない」ことがアプリオリとしてあるが、差延することで複数の同一と非-同一が二重化するのである。ラストの二人が、背を向けたまま手を振る場面に、この社会への微光を見出さず、何を見出すのだろうか。

 

『れいわ一揆』(原一男)

 2019年の参議院選挙での、れいわ新選組の躍進は神風が吹いているのではないかと「誤認」させるほどの瞬間風速であった。それは、まさに「れいわ旋風」であり、一定数の市民を熱狂させることに成功したと言えるだろう。

 しかし、成熟した秩序ある中間団体なき、近年のポピュリズム運動(山本太郎は、雑誌のインタビューで自身をポピュリストであることを認めている)は、「陣地戦」(グラムシ)すら慣行することは不可能であり、それはどれだけ「権力をよこせよ」(Youtubeのれいわ新選組公式チャンネル・「山本太郎 街頭記者会見 静岡県浜松市 2019年11月27日」を参考)と叫んだところで「権力」に回収されることは必然である。また、山本太郎は何度も街頭演説で叫ぶ、「たとえ何かを生み出せないとしても生きてていいんだよ」、「あなたには存在しているだけで価値がある」と。だが、そうした「価値」は、新たな資本主義的「使用価値」として再生産される。それが資本主義の論理であり、「美学化」にすらなることだろう。こうした「生きさせろ」(雨宮処凛)的言説は、資本主義に回収されるのであり、闘争の拠点であれ「外部」には足り得ない。

 

 さて本稿では、これ以上れいわ新選組の評価をすることを目的とするのではない。本作は、2019年の参議院選挙にれいわ新選組から出馬した安冨歩を中心に物語が展開していく。彼女が、一貫して訴えるのは「子どもの未来を守ろう」ということである。彼女の選挙活動のスタイルは、記号化した都市を馬と共に遊歩することで「異化」効果を発揮し、街頭演説でも「子ども」と積極的に対話をすることを特徴とする。

 本稿では、「子ども」という存在に着目することで、「子ども」と政治という関係性に一考察を与える。それは、現在の政治が患っている「病」を明らかにすることでもあるだろう。

 

 いまや「子ども」という存在は、「聖域」として捉えられている。それは、歓待すべき「未来の他者」であり「倫理の起源」である。「子ども」という絶対的他者が、有限的個体としての死を超越し「類的人間」(小泉義之 2019:17)として生存する。そのような未来が、責任を生成させるのである、と。そして、ここから来るべき急激な人口減少は「国の将来にかかわる大きな問題」(厚生労働省統括官 2017)として少子化対策不妊治療(生殖補助技術利用)への助成制度の公的施作が進行していくことになる。一方で、公権力と関係的プライバシー権との関係性は、熟慮しなければならない観点である。そのような関係性を踏まえ、野崎亜紀子は、リベラルな法体制のもとで、なお個人が公共的価値、少子化問題の克服に貢献する責務として次のように言及している。

 

子との関係で特別な関係者である親は、自身が生きる社会のなかで、その構成員として親である自分たちが享受する社会生活を送るうえでの権利(いわゆる市民権)を、その子もまた承継し、それを自律的に使いこなす能力が得られるよう保護監督する責務を有している。この責務を果たすために、親は子に対して自らの権限を行使するのであり、このことは親の権限のなかに組み込まれている、と解すべきであろう。特別な関係にある親が子に対して有する片務的負担の根拠はこの、承継される役割としての責務にあると考えられる。(野崎亜紀子, 2019, 「子どもをもつ権利ーー生殖とリベラルな社会の接続を考えるために」pp.125-126.)

 

野崎によると、リベラリズムを支えるこうした一見すると非リベラルな観念である「承継」に関しては、リベラリズムの再検討に際して規範的検討を要するものだとしている。だが、こうした「継承」はどこまでの正当性を与えることが可能だろうか。それは、親(=大人)が子に投影する予測可能で理想とする未来であり、その「未来の他者」とは「大人」のことに過ぎない。1970年代以降のヨーロッパにおいて「再生産」という概念は、生物学的「有機体」の生殖過程の意味に活用され、そのような場として「市民社会」を提示する潮流があった。それは、まさに「子ども」が資本化の中で再生産されるだけであり、「資本主義の子ども」しか産まない。

 こうした虚偽意識としての「生殖未来主義(reproductive futurisimi)」(リー・エーデルマン)の領域の外部として想定されるのは、LGBTQ当事者によるマイノリティの意見である。だが、基本的にマイノリティ側の意見をマジョリティ側に反映するのであれば、それはマイノリティ側にあって複雑で様々な対立関係を隠蔽され、マジョリティ側に同化するだけにとどまることだろう。それは新たなマイノリティを再生産し、同じ事象を反復するだけである。それは、子どもを所有したいという異性愛者の欲望が、同性愛者の欲望と同型として反復している。

 

 ところで、かつて山本太郎(れいわ新選組)はインタビューで「天皇」について次のような発言をしている。

 

こう言うと、山本太郎にも右派的な要素があるのか、と思われるかもしれないが、(今の上皇には)お父さんのような感じを抱いています。私が母子家庭で育ち、家には父親がいなかったから、父性的なものを求めているというのはあるとは思います。過去にあった戦争の戦地をを回ったり、災害があれば現地に駆け付けたり、被災者を励ましたりしている。それは自分の中にあるお父さん感、父性を満たすものです。(『Newsweek日本版 2019.11.5 山本太郎現象』p.30)

 

山本太郎にとって「天皇」とは「民主主義の最後の砦」なのだろう。無論、それは山本太郎に限った話ではなく、他の政党であれ市民にも言えることであり、「大衆天皇制」(松下圭一)からの連関性である。「戦後天皇制」から産み落とされた「天皇の子ども」たちは、まさに「聖域」であり、「未来の他者」を信仰する。「天皇」を殺すことは、「天皇の子ども」たちにとって過去ー現在ー未来をなくすことでもあるだろう。だが、このような「死」があってこその倫理ではないだろうか。「象徴天皇制=父」は「聖域」として機能していると同時に「天皇(制)」と「資本主義」は補完的関係である。「〈物自体としての他者〉」(柄谷行人)にとって、「聖域としての父」の「死」をもたらした後の「未来の子ども」たちは、「彼方」から「聖域」として現出するのである。

 

『空に住む』(青山真治)

 青山真治の作品は、『Helpless』・『EUREKA ユリイカ』・『サッド ヴァケイション』の”北九州三部作”や『共喰い』、あるいは『チンピラ』や『WiLd LIFe』におけるヤクザとの闘争に巻き込まれることに象徴的なように「土着性」、「血縁」がどこまでも回帰することが一つの特質だと言えよう。

 本作は、こうした青山の特質を切断している印象を与えるかもしれない。しかし、それは、本作においても連関している。冒頭において家族との離別理由が判明後も、「東京」という土地であれ、それはある種どこまでも逃げ場のないマンション内を、あるいは5インチ四方のスマホに表象されるInstgramを循環するように回帰してくる。

 かつて東浩紀は、デリダ的な脱構築を「郵便的」と指摘した。それは、非世界的存在を認めない形而上学と、非世界的存在を一つだけ認める否定神学への二重の抵抗を図っており、非世界的存在が「郵便空間」において複数認められる(東浩紀 1998:164-165)としている。それは、宛先不明の手紙が「誤配」されるかもしれないという可能性に存在する空間である。

 本作の舞台となる「東京」、あるいは本作でも表象されるInstagramのようなSNSは「誤配」される空間ではなく、いまや「閉鎖」的で「土着」的な空間に過ぎない。それは、「接続過剰」から「切断」を試行したところで無限に「接続」されてしまうのであり、ナルシシズムな他者しか現前することはない。そのような「自閉した身体」を拡張したところで、盲目的な倫理なき暴力を発露してしまう。本作を鑑賞すれば、直美(多部未華子)と明日子(美村里江)の関係性のように、それはいくつか確認することができることだろう。この点が、過去の青山作品と本作の決定的な「切断」ではないか。いわば、それは「閉鎖」的で「土着」的だが、「無責任」な「血縁」とでも言えようか。

 

 さて、「空に住む」とは、空に近い高層マンションの高層階に住むだけではなく、「空」虚な世界に「住」まざるをえないことを表現しているのだろう。直美と同じマンションに住み、後に直美と関係をもつ俳優の時戸森則(岩田剛典)は、度々「虚しい」発言をする。また、直美と森則の「夢」のような時間も意識的に現実か虚構か不明瞭ーーというよりは現実に引き戻すーーにするためのカット割にもしている。そして、直美は地方の出版社で小説の編集者として働いていることからも現実/虚構の対立軸を強調している。無論、「市民社会の衰退」(マイケル・ハート)という事象を前に、大衆から「文学」の価値は離れざるをえないのであり、「空虚」なものにならざるをえないことだろう。


 直美は、両親と離別したときも泣くことは「なかった」ことを自省している。だが、職場の妊娠している後輩が、道端で「破水」≒涙したときは、感情をあまり出さない直美が声を荒げ怒鳴る。直美は、死者=過去よりも、来たるべき「他者」=未来=「水平」と「垂直」の連関点を見据えているようだ。


 「未来が閉じていると想像するや、不可能な外部は死の別称となる」(小泉義之)ことだろう。ラスト、部屋から一面に広がる東京の景色を眺めながら、直美は「背伸び」をする。それは、どれだけ伸びようとも「地に足がついている」はずだ。鬱蒼とした東京の「空」は、微かにきたるべき「未来」を斜光で照らしている。

『スパイの妻』(黒沢清)

 黒沢清の映画では、たびたび内面の「空白性」が描かれている。福原優作(高橋一生)と聡子(蒼井優)の関係性においてもその萌芽は見て取れる。だが、この「空白性」から生じる「言語化不可能」、「理解不能」という解釈こそ黒沢映画の特徴でもあるだろう。いわば、それは黒沢自身の出発点ともなったホラー映画的表現を借用するのであれば「亡霊」的とも言えるだろうか。そもそも映画は「内面」の表象不可能性を帯びる表現装置であり、映像の具体的身体性にのみによって人間の営為は表象される。だが一方で、解釈不可能性を帯びるからこそ現実の絶妙なリアリティを発現し、どこまでも「亡霊」は回帰してくる。物語が進むにつれ優作と聡子の関係性が、どこか狂気じみながらも、スクリーンから外化された現実世界に侵略することも何ら不思議なことではない。

 

 本作における「スパイ」とは、「共産主義者」のメタファーなのだろう。それを示唆するかのように優作は、「僕はコスモポリタンだ」と発言している。戦中期という特殊な時代に国家に叛逆し、「正義」のために邁進する二人の姿は、小林多喜二などの共産主義者が「非転向」を慣行した姿と相似的である。

 また、本作を「夫婦の物語」と評するのは不適当と言えるだろう。「夫婦」というよりは、聡子は優作との幸福を追求していたと言えるかもしれないが、優作はどうか。優作は、家族という存在を否定するかのような印象をどことなく与えるのだ。「子供のいない夫婦」(佐々木敦)を描くのは、近年の黒沢清映画の特筆すべき点だが、本作ではさらにその点を発展させている。いわば、それは「無所有という所有」(マルクス)という不気味な家族像なのである。

 

 さて、しかし本作における歴史観には一定の批判が存在するようだ。まず、「帝国主義日本では日本人による反日の運動は現実には起こらなかった」(『映画芸術 473』「スパイの妻ーー良心的歴史修正主義を逆なでする」を参考せよ)のだ。であれば、本作は今日にも見られるような都合の良い歴史修正主義的作品であり、「「映画」らしい映画」に過ぎないのではないか。しかし、本作にはそうした歴史修正主義的経験を、さらなる「経験」に転回する余地が存在する。


 映画のラストスパートは、「戦後民主主義の虚妄に賭ける」(丸山眞男)かのように、スクリーンから外化されたわれわれに無数の「亡霊」が回帰してくる。ここで、再度「黒沢清による黒沢清論映画」(佐々木敦)であることを確認させられる。ラスト、聡子は一人、浜辺をよろめきながら駈けてくる。水平線から打ち寄せる波を背景に「1945年8月 終戦」の字幕が重ねられる。「8月革命説」(宮沢俊義)による戦後というパースペクティブは、水平線の彼方に「アメリカ」という意識を規定することだろう。だが、聡子が関東軍731部隊の存在や帝国陸軍満州で行っている所業を研究ノートや記録映像の内部でしか知ることはなかったように、現実はその「外部」に存在するのだ。であれば、映画内の出来事を映像の「外部」で経験している自ー他者に、その責任が生成されるのである。